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ぽかぽか春庭「ギュスターブ・モロー展 in パナソニック汐留美術館その2」

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20190526
ぽかぽか春庭アート散歩>薫風アート(2)ギュスターブ・モロー展 in パナソニック汐留美術館その2

 パナソニック美術展「モロー展」その2
 第2章以後の「宿命の女」たち。
 モローがこの「宿命の女たち」を、神秘的にも象徴的にも描き出しえたのは、彼が現実社会では女性と「性愛」によって結ばれることはなかったからかもしれない、と、これも勝手な想像です。
 ギュスターブは、恋人と自分の連れ立つ姿を、「ふたりが翼を持つかわいい天使の姿で雲の上を歩いている」として描きました。ギュスターブにとって、ふたりがともに過ごすのは「心の中の雲の上」だったからではないでしょうか。ふたりですごすとき、ふたりは天使なのです。

 雲の上を歩く翼のあるアレクサンドリーヌ・デュリューとギュスターブ・モロー


 第2章は「出現とサロメ」第3章は「宿命の女たち」第4章「一角獣と純潔の乙女」
 モローが描いた神話や聖書の女性たち。
 スフィンクス、サロメ、ヘレネ、レダ、バテシバ、デリダ、サッフォー、など、、、、

 馬に変身したゼウスに惹かれるエウロペ

 ギリシア神話では、エウロペはゼウスの絶倫によって、3人の子をもうけます。馬が光背を帯びているので、この結婚が「聖婚」であることはわかりますが、それにしても、陰嚢がでかい。

 白鳥に変身したゼウスに陶酔するレダ

 
モローは、レダの陶酔を「聖婚」へと向かう神聖な夢、と述べています。
 神話に基づく神との聖なる結婚、というのはわかりますが、、、、
 19世紀末、レダと白鳥のからみの図は、バチカン方面やビクトリア朝前後の「男女の性愛を描いてはならぬ」というご法度をかいくぐって、女性が陶酔するようすを描くには、相手が白鳥のほうが規制がゆるい、という大人の事情があったみたい。よく知らないけど。
 現代では、お笑い芸人たちが腰に白鳥の首を結わいつけて、上下に腰をゆらしながら白鳥の湖の曲で踊ったシーンを覚えていますが、あれを見ても陶然とはならない。

 ヘラクレスと女王オンファレ


 オンファレは、最強の男ヘラクレスを奴隷として使役し、「つよい男よりも強い女」として、奴隷ヘラクレスをしもべとして扱いました。ヘラクレスは奴隷として女装させられ、糸紬などの女の仕事をさせられます。使役されるヘラクレスの後ろにキューピッドがいるのは、オンファレとヘラクレスの間には「愛」も生まれてくるからだと
わかりますが、モローには、18世紀19世紀に「オンファレ&ヘラクレス」のからみで描かれている他の図象のようには描けなかった、または描かなかったと思います。なにせギュスターブの愛は「天使の愛」ですから。

 参考図版「ヘラクレスとオンファレ」byフランソワ・ブーシェ1737(プーシキン美術館蔵)


 買い求めた図録の表紙にもなっており、モローの作品のなかでももっともよく知られた「出現」も、ヨハネの首の幻影と対峙するサロメの強い意志が描かれています。19世紀に好まれたのは、七つの薄布を1枚ずつ脱いでいくと描いたオスカーワイルドの戯曲によるエロチックなサロメでしょうが、モローの描くサロメは、どれも託宣をつげる巫女のようなたたずまいです。

 チケット売り場横のロッカー前のポスターは撮影OKでしたが、館内は撮影禁止。ただし、展示を回って出口にくると、モロー美術館の中の、階段の写真があり、写真の前に椅子。ここは、撮影できます。SNSなどへの掲載もOK。モロー展を宣伝してください、という文言がありました。でもね。モローの作品ではなくて美術館写真の前で撮った絵柄で観客を呼べるとしたら、七つ目のベールを脱いだサロメでないと無理なんじゃないかしら。

 この写真見て、「ああ、モロー展に行ってみたい」と思う人がいたら、すごいと思いますが、観客は呼べそうにない。


<つづく>

ぽかぽか春庭アート散歩「藝大コレクション展2019」

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藝大美術学部正門の奥のコレクション展ポスター

ぽかぽか春庭アート散歩>薫風アート(3)藝大コレクション展2019 in 東京芸術大学美術館

 5月18日、上野散歩に出かけました。国際博物館協会が制定した「博物館の日」なので、上野動物園(ここも博物館のひとつ)や東博・科博などは、通常展無料になります。

 初めに東京芸大へ向かいました。藝大コレクション展2019は、美校/藝大が所蔵してきた作品の公開ですが、特に、これまで所蔵されていながら注目されてこなかった作品を展示するということなので、楽しみに入館、、、、おっと、こちらは無料にはなっていませんでした。藝大の付属施設なので、博物館協会のお仲間じゃなかったみたい。まあ、大人430円ですから、帰りに上島珈琲でコーヒーでも飲んで休んでから、と思ったコーヒーを我慢することにして入館。展示は地下一階の一室のみ。前期と後期で作品入れ替えがあり、後期作品のみの閲覧になりました。

 入場するとすぐ目の前に、どど~んと大きな作品。今回の展示ポスターにもなっている、ラファエロ・コラン(1850-1916)の「田園恋愛詩」です。


 コランは、草創期美術学校のボス黒田清輝の師匠です。
 黒田にとっては、弟子たちに自分が学んだ師匠の絵を見せることも、重要な指導だったのだと思います。
 コランの作品は、何点か黒田清輝記念館で見たことがあります。フランスではなかば「忘れられた画家」であり、パリで回顧展などが開かれた話も聞かないという画家ですが、明治の洋画壇形成期にフランスに留学した、黒田清輝・久米桂一郎・岡田三郎助・和田英作らを指導し、明治後期の洋画に大きな影響を与えました。
 
 「田園恋愛詩(1882)」は、ダフニスとクロエをモチーフにしており、元は府中美術館の所蔵作品だった、ということなので、黒田がパリから持ち帰った師匠の絵、というわけではなさそうです。黒田がフランス留学する直前に完成した絵ですから、留学中に一度くらいは目にしたことがあったかもしれません。

 花咲く木の近くですごす初々しい恋人同士、、、、のはずですが、ダフニスがクロエの腕にすがっているかのように見えるにもかかわらず、目をつむったクロエの顔は無表情。それもそのはず、コランは、能面を思い浮かべてクロエの顔を描いたのだそうです。
 印象派が優勢になっていた当時のフランス画壇で、古典派のコランは「流行おくれ」と思われてきた画家でした。コランがはるばる日本から留学してきた黒田らを弟子にしたのは、黒田が新興の印象派よりもアカデミックな古典派に学ぼうとしたことと、コランが当時盛んだった「ジャポニスム」を作品に取り入れたいと思った双方の思惑が一致したからかもしれません。

 印象派による浮世絵模写は、マネ・モネ、ゴッホらの作品が残され、日本での展示もされていますが、コランのジャポニスム傾倒作品を見たことがありません。フランスでは忘れられた画家になっていたため、コランの浮世絵模写などは散逸してしまったのかも。

 弟子の黒田清輝(1866-1924)の滞仏中(1884-1893)の作品「婦人像(厨房)」が、コランの「田園恋愛詩」の隣に展示されていました。
 黒田は、パリ南東70キロほどに位置する小村グレー・シュエル・ロワンで過ごすことを好み、農家の娘マリア・ビョーをモデルにした作品を描きました。
 黒田は、ビョー家で「婿」として遇され、マリアと公認の仲となってすごしました。マリアは「読書」「編み物」などのモデルとして知られています。

 婦人像(厨房)(1892)



 森鴎外がドイツ留学を終えて帰国した後、ひと悶着が起こりました。恋しい森林太郎を追って来日した舞姫エリス。すったもんだの末、森家によって、エリスはドイツへ帰国させられました。
 しかし子爵家嫡男の清輝が帰国したあと、「婿」扱いだった農家ビョー家との間には騒動がおきなかったところからみると。貧乏士族森家とはことなり、資産家黒田家では、ビョー家にしかるべき手厚い「滞在中に世話になった謝礼」(つまり手切れ金)を手当てしたのじゃないかなあと、これは、貧乏人ひがみ空想です。

 私の世代の美術教科書には必ず「明治初期の洋画」として載っていた高橋由一の「鮭」が掲載されていました。高橋由一(1828-1894)は、日本画を学んだのち、幕末に来日していたワーグマン(1832-1891)に38歳で弟子入り。50歳のときにはフォンタネージに学びました。
 私は、高橋の『花魁』(1872)を見たときはあまり感動しませんでした。花魁がちょっときつめの顔に描かれていて、由一さんは花魁に対して「美」を感じなかったのかとさえ思います。モデルの花魁は「私はこんな顔じゃない」と、気に入らなかったそうです。
 ゴッホは雑誌に載った渓斎英泉の花魁の絵を見て、1887年に「ジャポネズリー:おいらん」を画いています。由一さんの花魁はおそらくパリには伝わっていなかったでしょうね。

 しかし「鮭」は、美術教科書の刷り込みがあるから、「わぉ、ほんものだわ」と思います。鮭の肉質も皮もリアルです。

 黒田清輝は、高橋由一の門人細田季治に、1878年に絵を習ったのが絵画修業のはじめでした。高橋は、明治画壇のボス黒田清輝の先生の先生ですから、「明治初期の洋画家大先生」として洋画史に残りました。

 一方、外光派黒田らがフランス留学から帰国した後、「旧派」として画壇から追い払われたのが五姓田義松(1855-1915)です。五姓田は、わずか10歳でワーグマンに入門。翌年に入門してきた高橋由一よりも28歳年下の「兄弟子」でした。最初期にフランス留学を果たし、帰国後は明治天皇の肖像画を描き明治天皇の巡幸に同行して各地の絵を描くなど活躍しました。しかし、黒田清輝ら新帰朝者らが明治洋画を席捲すると、しだいに片隅に追いやられます。

 2015年に見た「没後100年五姓田義松展」の感想はこちら
https://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/4ab9b32bdb111b7812a2b18c141d1f2b

 五姓田は、明治洋画史にきちんと残すべき画家でした。しかし、晩年はみやげ物の絵を描く生活。黒田に「絵を買ってほしい」と懇願する書簡も残されていますが、不遇なまま60歳でなくなりました。

 五姓田義松「操芝居」1883


 私は「貧乏」とか「不遇のまま世を去った」というところに気持ちを入れ込みすぎるので、子爵にして貴族院議員、洋画壇のボスであった黒田清輝に対しては、少々点が辛くなります。日本洋画に大きな足跡を残した黒田清輝ですし、遺産によって「黒田清輝記念館」も建てられていて、無料観覧できるのでありがたいと思ってはいるのです。

 「イギリスに学んだ画家たち」が特集されていました。そのひとりが、1904年に渡英し、1907に帰国した原撫松(1866-1912)。
 滞英中は、名画の模写に励み、その技量は高く評価されたということですが、帰国後、作品を発表する機会に恵まれず47歳で病没。作品の多くは肖像画であるため、子孫が所蔵を続け、美術館などに出ることは少なく、教科書に載る画家にはなりませんでした。私は、東京国立博物館で1点、原撫松の作品を見たことがあるだけです。

 原撫松「裸婦」1909(明治39)


 私は、不遇とか無名とかに心寄せてしまうふしがあります。
 この藝大コレクション展で特集されていたもうひとつ。起立工商(きりゅうこうしょう)会社工芸図案。
 サイン入りの図案もありましたが、半分以上は「作者不詳」。輸出用の陶磁器や七宝作品のためにせっせと朝から晩まで図案を書いていた人々。無名の工芸者。その作品を見て明治の工芸の技量の高さと、その工芸に携わったあまたの「無名の人々」に思いをはせました。

 起立工商会社図案のひとつ


<つづく>

ぽかぽか春庭「2019年5月目次」

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20190530
ぽかぽか春庭2019年5月目次

0502 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記新緑令和(1)ツツジと一万円

0503 ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>5月のことば(1)第3章確認

0504 2019十九文屋日記新緑令和(2)ピアノとクラリネット
0505 2019十九文屋日記新緑令和(3)ゴスペル&パイプオルガンとチェロ
0507 2019十九文屋日記新緑令和(4)みどりの日散歩
0509 2019十九文屋日記新緑令和(5)みどりの日散歩その2
0511 2019十九文屋日記新緑令和(6)旧新橋停車場
0512 2019十九文屋日記新緑令和(7)母の日に
0514 2019十九文屋日記新緑令和(8)母業卒業&留年 
0516 2019十九文屋日記新緑令和(9)東京楽友協会交響楽団第106回定期演奏会

0518 ぽかぽか春庭シネマパラダイス>樹木希林映画(1)あん
0519 樹木希林映画(2)万引き家族
0521 樹木希林映画(3)日日是好日
0523 樹木希林映画(4)モリのいる場所

0525 ぽかぽか春庭アート散歩>薫風アート(1)ギュスターブ・モロー展その1 in パナソニック美術館
0526 薫風アート(2)ギュスターブ・モロー展その2 in パナソニック美術館
0528 薫風アート(3)藝大名品展 in 東京芸大美術館

ぽかぽか春庭「美を紡ぐ-日本美術の名品展 in 東京国立博物館」

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 東博本館「美を紡ぐ」

20190601
ぽかぽか春庭アート散歩>薫風アート(4)美を紡ぐ-日本美術の名品展 in 東京国立博物館

 5月18日博物館の日。東京国立博物館は常設展無料です。
 上島珈琲でコーヒー休憩するのをカットしたので、しばしの休憩のためにまずは東洋館3階テラスへ。持参の缶コーヒーとおやつのクッキーをテラスのテーブルに出して、通常の土曜日よりにぎわっている本館前の人々を見渡します。この休憩テラスは、展示がごった返す混みようでも、いつも静かです。ここが休憩テラスになっていること、ほとんどの人が気づかないのです。東洋館の奥のほうにひっそりと入場口があります。

 東洋館テラスから表慶館を見る。


 東洋館では、まず、夾紵大鑑(きょうちょたいかん)にご挨拶。大倉集古館は2019年の秋まで改修工事が行われています。改修がおわるまでの間、夾紵大鑑は東洋館に「お預かり」の身となっていました。この秋には東洋館から返還されるのでしょう。
 大倉集古館でも見たことがありましたが、館内薄暗い感じだったし、背が低い私には器の中がどんな感じかまったく見えませんでした。改修したら明るくなるのかもしれませんが、今のうちに明るい東洋館で、間近にながめておきましょう。

 伝中国河南省輝県出土 戦国時代・前5~前3世紀 東京・大倉集古館蔵の夾紵大鑑、直径138cm、高さ50cm。漆器。世界中にこれほど大きな漆器はないだろうというお宝。


 館内の展示品、ほとんどは撮影OKですが、夾紵大鑑は他館からの寄託品であるため、ほんとは撮影不許可。所蔵権は大倉集古館にありますが、フラッシュ使わない、他の人が映り込まないようにする、という私ルールで撮影しました。

 東洋館の展示、時間があるときはゆっくり回り、そうでないときは駆け足でまわって見たいところだけ集中して見ます。今回目にとまったのは、古裂帖。
 古裂帖とは、江戸時代の茶人たちの価値観によって蒐集され、元から明にかけて中国から日本に舶載された古裂を帖に張り、その名称を記した「名物裂」のアルバムのこと。茶人たちは「唐物」と呼んで珍重し、棗入れなどを作った切れ端を張り合わせ、大切にしてきました。
 唐物を作っていた中国では、戦乱や王朝交代のときに布地などは失われてしまったため、日本にしか布地資料が残っていないという貴重なものも含まれています。

 茶人たちの美意識、私には「わからん」ところが多いのですが、この古裂帖は、織物資料染色資料として「よくぞ残してくれました」と思いました。

 唐物の布地で棗入れなどを仕立てた残りの切れ端は、丁寧に張り合わせてあります。


 貼り合わせの唐物の形の組み合わせ方がとてもいいセンス。現代アートのひとつのようです。

 博物館の日、無料入館。毎回、本館を見るたびに、一番先に本館の国宝を見ます。展示は毎月変わり、5月の国宝は「千手観音像」。観音様へのお祈りのことばは、毎度同じ、「家内安全国家安泰世界平和宇宙長久それにつけても金の欲しさよ」。



 1階2階通常展示をひとまわり。
 平成館で開催されている「国宝 東寺―空海と仏像曼荼羅」に合わせて本館で「密教彫刻の世界」展が併催されていました。東寺の立体曼陀羅は、昨年の京都旅行の最終日に拝観しました。お寺でのほとけさまとして見るのと、美術館での展示とではまた違う雰囲気でしょうから、見にいこうかどうしようかと迷っていた折り、東館が所蔵する密教仏像を観覧できるなら、ありがたい。




 特別展「美を紡ぐ 日本美術の名品 ―雪舟、永徳から光琳、北斎まで―」を見るかどうか、しばし考える。せっかく無料の日なのに、1100円払うの、どうするか。
 悩むほどのことか、えいやっと特別室に入場。特別5室・特別4室・特別2室・特別1室
 会期:2019年5月3日(金)~2019年6月2日(日


 東博所蔵品だけでなく、「皇室の至宝・国宝プロジェクト」と銘打たれた、東博が修理保全を手掛けた三の丸尚蔵館所蔵品や宮内庁所蔵品が特別展示されています。

 かって国宝室で見たことのある長谷川等伯「秋冬山水図」や 久隅守景 「納涼図」は、いつかはまた東博国宝室に出てくることもあるでしょうが、宮内庁や文化庁の所蔵品となると、つぎにいつ見ることができるか、わかりませんから、千円惜しんでいてはいけません。

 特別展第1室には、永徳の唐獅子図と檜図。ど~んと大きい。
 (唐獅子図は、ぽかぽか春庭20190101に掲載しました)

 狩野永徳 檜図1590 


 藤原定家筆 更級日記13世紀
 

 野々村仁清 17世紀


 今回ならではの展示。濤川惣助「七宝富嶽図額」。東博所蔵。
 濤川惣助七宝作品は、ほとんどが海外に輸出されてしまい、赤坂迎賓館に飾られている七宝の花鳥図以外に国内で見ることは難しい。この富嶽図は、七宝ですが、1893年にシカゴ万博博覧に出品されたときは、絵画として展示されたのだそうです。現在は東博所蔵。私ははじめて見ました。



 葛飾北斎の「西瓜図」も初めて。北斎80歳の肉筆画。1839年の作。丸尚蔵館所蔵。
 半分に切った西瓜に和紙が載せられ、その上に包丁。上に渡された縄には、桂剥きされたスイカの皮がぶら下がっています。


 さまざまな研究者が、それぞれの解釈を提出している、ということですが、そのひとつは、「七夕」の縁起物として飾られたのではないか、と。この先、なぞ解きを楽しめるかも。
 
 老い先短いこれからの日々。この先、いつみられるかわからないお宝、見ることができてよかったです。5月18日土曜日に見にいき、5月25日にもう一度見ました。

 5月18日閉館時間が迫ったころの表慶館ライトアップ



<つづく>

ぽかぽか春庭「横浜美術館所蔵名品展」

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 横浜美術館ミートザコレクション展

20190602
ぽかぽか春庭アート散歩>薫風アート(5)横浜美術館所蔵名品展

 5月24日金曜日。横浜美術館の「Meet the Collectionアートと人と」を観覧。
 たいていの美術館は金曜の夜か土曜の夜は8時までオープンしているのがありがたい。(横浜は、金土両日が8時まで)。

 自館の所蔵品展だから、常設展料金500円で入れるのかと思ったら、しっかり1000円とられました。横浜市在住の65歳以上なら無料になるみたい。

 「当館の1万2千点を超えるバラエティ豊かなコレクションのなかから、絵画、彫刻、版画、写真、映像、工芸など400点を超える作品を展示します」というので、1点は2.5円ナリ、、、つうか、そういうみみっちい計算をする人は、絵なんぞ見ていないで、うちに帰ってカップ麺でも食べて寝てなさい。(24日は、カップヌードル記念館を見たあとに横浜美術館に入館しました)

 横浜美術館は、1989年に開館してからちょうど30周年。平成のはじめにオープンして、私も、キャパ展、国芳展、下村観山展など、たびたび足を運びました。

 淺井祐介「いのちの木」は、もとの絵を淺井が描き、それを市民ボランティアが壁画に仕上げていくという共同作品です。ボランティアによる制作過程のメイキング映像もありました。


 いのちの木の展示室内には、壁画と響き合うものとして淺井さんが選んだ作品が展示されていました。

 そのひとつ、アルプの「成長」。単独で見るときと、こうして壁画の前に置かれているのを見るのでは、ずいぶん印象がかわるように感じました。

 アルプ「成長」1938(1983鋳造)

 「いのちの木」の前の「成長」


 第2展示「まなざしの交差」の部屋にはピカソやセザンヌの肖像画、キャパの写真など、肖像画の目に注目した作品が並んでいました。

 ピカソ「ひじかけ椅子で眠る女」1927


 セザンヌ「縞模様の服を着たセザンヌ夫人」1883-1885


 第2展示室で私にとって貴重だったのはルイス・ブニュエルとダリの共作『アンダルシアの犬』がデジタルビデオで放映されていたこと。
 シュールレアリズム映画の嚆矢とされている有名な映画ですが、これまで見たことなかった。現在ではyoutubeでも公開されているのに、冒頭の「かみそりで目玉を切り裂く」というシーンの説明を聞いただけで見る気を失ってしまう「こわいもの見たくない」ビビりなので。これまでは静止画の何枚かとその画面説明を見て、映画を見た気にしていました。

 今回は、絵を見ている部屋での壁のモニターに映るのですから、どうやっても目に入る。ならばと、椅子にかけて見ました。1928年の映画、公開90年目の鑑賞です。

 目玉切り裂きも掌の蟻ぞわぞわも、みんなシュールです。ホラー映画に慣れた現代人にはどうということもないシーンなのかもしれないけれど、28年に詩人コクトーはじめ、シュルレアリズムの画家たちが大拍手でこの映画を迎え入れたというのもわかります。


 また、シュルレアリスト宣言ともいえる「解剖台の上のミシンとこうもり傘の出会い」を視覚化したマン・レイの写真も「おお、ミシンとこうもり傘!」と思いました。


 ロートレアモン伯爵の『マルドロールの歌』(1869)に登場する「そしてなによりも、ミシンとコウモリ傘との、解剖台のうえでの偶然の出会いのように、彼は美しい!」という詩の一節は、シュルレアリストたちにとって、もっとも大きな技法「ディペイズマン(depaysement)」を表したことばです。

 depaysementは、動詞depayseに、mentをつけて名詞化。depaysは「de:分離・剥奪」と「pays:国、故郷」。よって、ディペイズマンは、「ある場所から引き離してよその土地へ追放すること」という意味を持ち、シュルレアリストたちは「本来の環境から別のところへ移すこと、置き換えること。本来あるべき場所にないものを出会わせて違和・驚きを生じさせること」という彼らの芸術技法の基本にしました。

 おそらくは、開館当時の学芸員たちの中にシュルレアリズムの専門家がいたと思います。横浜美術館は、日本でも有数のシュルレアリズム絵画や写真、彫刻を収集し所蔵しています。マックス・エルンスト展を所蔵作品だけで仕立て上げた展覧会もありました。

 今回の所蔵品展も、充実した作品が並んでいました。

 マックス・エルンスト「青春のいずみ」1957-58


 ルネ・マルグリット「王様の美術館」1966


 2013年に埼玉県立近代美術館で見たデルヴォー(Paul Delvaux1897-1994)。でも、この「階段」が展示されていたかどうか記憶にない。


 階段もマネキンも具象として描かれているのに、どうして見るものは、この世とはことなる世界に感じるのだろうと感じます。なにかしら不安定にも思える。しかし、素人は、それ以上に見方が及ばない。
 専門家は「遠近法の消失点がふたつある」と、教えてくれました。なるほど。



 消失点がひとつなら、私たちが現実に見ている世界と同じです。でも、わざわざミシンとこうもり傘を出会わせて、マネキンの横と階段上の女性の横のふたつの消失点を作る。このため画面の世界はこの世ならぬものになっていく。むろん、胸を出した女性も半身だけ布を巻いたマネキンも現実にはいないのでしょうけれど。

 胸が見えているワンピースを着ている階段の上に立つ女性は、デルヴォーのビーナス、タムでしょう。デルヴォーが描く女性は全員同じ顔。全部妻のタム。結婚前も結婚後も。

 マザコンだったデルヴォー。母に反対されて泣く泣く恋人タムと分かれます。(おいおい、母が反対したら、母を捨てろよ!と突っ込むのは現代人ゆえ)
 母の死後、1937年に40歳でシュザンヌと結婚。しかし、別れてから18年後にタムと偶然再会すると、たちまち情熱よみがえり、シュザンヌと離婚して55歳でタムと再婚。以後91歳までともに暮らし、タムが亡くなると目が不自由になっていたこともあり、絵筆を捨て、タムの死から5年後、1994年に96歳で亡くなりました。

 イブ・タンギー「風のアルファベット」1900-1955 完成までに55年もかかったのね。


 サルバトール・ダリ「ヘレナ・ルビンシュタインのための小食壁画 幻想的風景」1942


 シュルレアリストが影響を受けたモローもここに。「岩の上の女神」1890頃


 モローも最愛の人は母であり、恋人とも結婚しなかった。ダリも生涯最愛の妻ガラと添い遂げましたし、シュールレアリストって、そういう人多いのか。一方、キュビズムのピカソ。絵のモデルとして描いた愛人が7人もいて、恋を続けた。

 絵を見て、「これはいくらか」と「女性関係はどうだったか」ということのほかに思い及ばず、高度な芸術技法などには縁遠い春庭ですが、絵を見るのは楽しいから好き。無料だともっとうれしい。

<つづく>

ぽかぽか春庭「ビーズ展 in 東京科学博物館」

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20190604
ぽかぽか春庭アート散歩>薫風アート(5)ビーズ自然をつなぐ世界をつなぐ展 in 東京科学博物館

 上野にくると、東博、科博、東京都美術館、藝大美術館、黒田記念館、こども図書館のうちのどれかふたつをセットにして昼の部と夜の部でふたつ回ります。ふたつ回るとだいたい1万歩。絵や彫刻みて歩けば心に響いて体にきく。

 5月25日のセットは、昼の科博と夜の東博。
 科博常設展の特設展示は、「ビーズ展」。副題は、自然をつなぐ世界をつなぐ。東京の科博と大阪の国立民族博物館とのコラボによって企画された展覧会です。自然担当科博、世界担当民博ですかね。

 民博の紹介パネル


 私は、単純にビーズと聞けばガラス玉を並べたものを思い浮かべましたが、この展示での「ビーズ」の定義は、「小さい粒をつなげて制作し、身の回りを飾るもの」
 算盤玉も玉をつなげているけれど、こちらは計算のための道具であり、飾り物ではないので、ビーズとは呼ばない。

 ビーズの材料ごとに世界各地のビーズが展示してありました。
 材料の面では植物ビーズ(数珠玉、木など)、動物ビーズ(骨や歯、貝など)、鉱物ビーズ(鉄やガラス)など、世界には多彩なビーズ材料があります。

 私はケニアのマサイ族の家に泊まった時など、女性たちがこまごまとビーズ細工をしているのを目にしてきました。根気のいる仕事です。なんでもつなぎ合わせます。フィルムの空き容器をつなげているのを見たこともありました。
 今回、現代の材料をつなげたものとして、注射針の針キャップをつなげた首飾りを見て、フィルム空容器を思い出しました。

 ケニア・マサイ族のビーズを身に着けた男女のいでたち
 

  ケニア・サンブル族の女性の写真も展示されていました。私も1979-1980のケニア滞在中に、トゥルカナ地方でこのような女性たちに出会いました。なつかしい。


 入り口には世界の民族のビーズ衣装


 ビーズをつなぎあわせる糸として使われたオリックスの足の腱を割いたもの


<植物をつかったビーズ>
 タイの数珠玉製女性衣装
 

 台湾タイヤル族の「首狩りにおもむく戦士の護符」カミヤツデの茎を円盤状に切ってつないでいる。


<動物のビーズ>
 ブラジル(パラカナ)イルカの歯をつないだ首飾り。


 エクアドルの上衣(羽などをつないでいる)


 タカラ貝ビーズ製の大きな仮面


<鉱物のビーズ>
 ガラスビーズの仮面(象)カメルーン


 昔からビーズ材料は貴重であり、交易の商品にもなってきました。産地が限られたトルコ石などは、世界中で交易されました。

 トルコ石の頭飾り


 伝統的な王の像も、現代の工芸品として作られるときは、中国製のガラスビーズをつないでいます。

 ナイジェリア(ヨルバ族)の玉座の王の姿(ガラスビーズ)


 ビーズ作業中のヨルバ人工芸家。

 ミャンマーの珪化木(ジービーズ)

 インド・グジャラート州 ビーズの原材料石メノウ、カーネリアンなど


 ラピスラズリの原石とネックレス。ほしい!


 日本の古代ビーズ 東博考古室の展示品

 水晶、メノウ、碧玉の勾玉


 チンバンジーなど類人猿と、人間の遺伝子は98%が同じ。2%しか違わない。しかし、ビーズの穴に糸を通す作業ができるのは人間だけなのだそうです。棒を白蟻の巣に差し入れて道具をつかった「シロアリ釣り」ができるチンパンジーも、ビーズつなぎはできません。

 人が作ったビーズ製品は、2万年も前の遺跡から発掘されています。身を飾る、という文化を持ったこと。食べ物をいかに手にいれるか、という生き死にかかわることではなく、身を飾るために、なんと多くの知恵が集まり、世界中が交易をしてきたことでしょう。
 ビーズのちいさな一粒一粒に壮大な人類史を感じました。

<つづく>

ぽかぽか春庭「林忠正展in 西洋美術館」

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 コレクター林忠正展

20190606
ぽかぽか春庭アート散歩>薫風アート(6)林忠正展 in 西洋美術館

 「コレクター」といえば、最初に思い浮かぶ人物は、映画『コレクター』の蝶や美女をコレクトするフレディです。集めたものを偏愛する、偏執的で孤独な人でした。フレディの印象が強すぎるせいでしょうけれど、ものを集めることに情熱を注ぎこむ人、わたしにはわからない面もあります。

 私も、こどものころは当時こども界で流行していた切手集めに熱中し、毎月記念切手を買うために郵便局へ行ったものでした。
 私の場合、10円の切手が将来倍の20円になると聞いて、大儲けかも、と郵便局にはせ参じたのです。たしかに、50年後の現在では10円切手10枚のシートは倍額の200円にはなっているのですが、100円儲けてどうする。100円だとコンビニのコーヒーは飲めるが、喫茶店のコーヒーは飲めないんだぞ、と子供時代の私には言ってやりたい。切手アルバム、記念品としてとっておきますけれど。

 ドキュメンタリー『ハーブ&ドロシー』は、現代美術収集家夫妻を追った記録映画です。監督:佐々木芽生
 夫のハーブは郵便局員、妻のドロシーは図書館司書。ふたりは、ドロシーの司書の給与で生活し、ハーブの給与を50年以上にわたって現代美術を収集する資金としました。
 かつかつの暮らしを続けながら集め続けた現代美術の成果は、アメリカのナショナル・ギャラリーに「ヴォ―ゲル夫妻コレクション」として5000点が寄贈されました。
 こういうコレクターなら、ものを集める情熱も、納得です。

 2017年のボストン美術館展は、コレクターに焦点をあてた、展示がなされていました。 2017年9月に2度観覧。
https://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/4a00597e4cba037095def31e9fc26b04
 
 ボストン美術館展で、私はコレクターの名をひとりも覚えることはありませんでした。それくらい、美術展においてもコレクターは地味な存在。

 だから、西洋美術館が林忠正展を開催することを知っても、最初は積極的に見にいこうとは思っていませんでした。3月9日に見たのは、東京都美術館で映画『山中常盤』を見た帰り道。土曜日は夜8時まで開館しているし土曜日の西美は「だれでも無料」だから。林忠正展は、常設展示の企画室で開催されましたから、無料が好きな私、見逃さず。

 絵を見るのが好きな人の中でも、林忠正を知る人は少ない。私が彼の名を知ったのは、明治初期に西欧で盛んに開催された万国博覧会に興味を持ち、ジャポニスムの影響を調べてきたから。
 ジャポニスム。例えば、ダンス表現におけるロイ・フラー(Loie Fuller1862―1928)と川上貞奴の関係。ダンサーのフラーは貞奴のフランス公演に自身の劇場を提供し、マネージャーとして付き添いました。貞奴が「ニッポンの舞姫」として英国女王に謁見するまでに成功したのは、フラーのマネージングのおかげです。

 絵画におけるジャポニスムにとって、林忠正(1853-1906)は欠くことのできない人物です。でも、コレクターに焦点を当てた展覧会が開かれるとは思いもよらず。

 林忠正は、越中(富山)の高岡に蘭方医の息子として生まれ、1871年に上京、開成学校(3年後に東京大学と改称)でフランス語を学びます。1878(明治11)年)、パリの万国博覧会に参加する「起立工商会社」通訳として渡仏。当時の国策でもあった日本の工芸品や絵画を西欧に売りさばく仕事に専念するため、フランスに店を構え、美術商として生涯を送りました。

 「起立工商会社」の工芸品、藝大名品展で見てきました。明治時代の輸出品として、絹とお茶のほかこれといった産物がなかった日本は、精巧な工芸品を売って外貨を稼ぐしかありませんでした。
 林は西欧に日本の美術品を紹介しつつ、研究者を助け、ジャポニスムの中心人物となりました。
 また、絵画を輸入して日本に本格的な西洋美術館を建てようとしたのですが、志果たせず、52歳でなくなりました。
 彼の志は松方コレクションを中心とする現在の西洋美術館に受け継がれています。

 林忠正の展示資料は、ほとんどが孫の夫人木々康子の所蔵品です。木々は義理の祖父にあたる林忠正研究の第一人者で評伝『蒼龍の系譜』1976や『陽が昇るとき』1984、『林忠正』2009や、研究書『林忠正とその時代―世紀末のパリと日本美術』1987』を表しています。

 林忠正展出品目録の表紙


 林は、明治期に「西洋絵画こそ価値があり、日本の浮世絵は庶民の卑しい絵」とされていた時代に、西欧で価値が高まった浮世絵を売りまくりました。幕末明治初期には、お茶輸出の包み紙として扱われた浮世絵。林らの努力により、浮世絵の価値が認められるようになりました。
 また、浮世絵に大きな影響を受けた印象派の画家たちに、浮世絵を渡す代わりに代金代わりに、まだ売れてない印象派の絵画を受け取り、日本での西洋美術館建設を志しました。

 林は、売れないまま貧困のうちに亡くなったシスレーの遺族の世話をしています。しかし、日本では黒田清輝などの古典派を学んで帰朝した「古典&印象の折衷派」が洋画壇を席捲しており、林の死後、せっかくのコレクションはアメリカのコレクターなどに売却され、日本に残されませんでした。黒田も師匠の古典派コランばっかり称揚せず、少しは印象派に目を開いてくれていたらよかったのに。

 ほとんどが売り立てで散逸した林のコレクションのうち、ポール・ルヌワールによるデッサンがまとまって残されました。遺族によって東京国立博物館に寄贈されたものが展示されていました。
 展示目録の画家名はルヌアールとなっていて、私は当時のフランス語訳ではルノアールのことをルヌアールと表記していたのかと思って展示を見ました。

 林が残したのはポール・ルヌアール(Paul Renouard 1845-1924)であって、ピエール=オーギュスト・ルノワール(Pierre-Augustê Renoir 1841-1919)とは別人。
 わはは、美術好きだけどそんなに詳しくない春庭。ルヌアールの作品を見て「ルノアールの初期作品かな。私がこれまで見た作風とはちょい違う。きっと売れる前のルノアールなんだ」と思って見ていたんです。 
 まぎらわしい名前だわねぇ、まったく。
 いやいや、名前が悪いわけじゃなく、ルヌアールとルノアールが区別できなかった私が悪いだけですけど。

 展示の多くは、林家に残された手紙や古写真です。貴重なものと思いますが、手紙はひとつひとつ読む時間はないのでささっと見て回り、土曜日閉館の8時までに十分に会場をめぐぐることができました。

 コレクターに光が当たることは少ない美術展で、このように明治期の日本と西欧を行き来して双方の芸術に多大な力をふるった林忠正について、たくさんの資料が展示され、ジャポニスム研究にとっても、日本と西欧の交流史研究にとっても、貴重なことでした。

<つづく>

ぽかぽか春庭「小笠原伯爵邸レストラン」

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小笠原伯爵邸レストラン南側

20170608
ぽかぽか春庭アート散歩>建物めぐり拾遺(2)小笠原伯爵邸レストラン

 建物巡り先達のyokoちゃんといっしょに小笠原伯爵邸を見学したのは、2018年の3月19日の無料公開日でした。
 2019年5月4日にひとりで見学したのは、みどりの日自転車散歩の途中、雨がパラついたので雨宿りのつもりでした。結局本降りにはならなかったのですが、カフェを利用し、邸内見学もできたので、よかったです。
 前回の無料公開日には、決められた時間に集合してかなり多くの見学客が邸内を巡っていましたから、どうしても人が映り込むアングルになることが多く、写真は撮りにくかった。今回は、だれもいない邸内、写真もゆっくり撮れました。

 レストランの予約客は邸内見学が許されているけれど、カフェ利用者の場合「見学できる場所はパティオ内のみです」と受付の人に言われました。
 3時-5時というカフェ利用タイムに喫茶室にいたのは女性2人組と夫婦連れと私。となりの女性2人は、どちらも中華系の感じでしたが、ずっと英語で語り合っていました。たまにぽつんと日本語の単語が入る。シンガポールあたりの人かも。
 邸内探察しようと、コーヒーもじっくり味合わないでそわそわしている私とはちがい、2組ともただコーヒータイムを楽しんでいるだけ。
 
 ランチ営業を終えて、予約のディナーが始まるまでの5時くらいまで、邸内ほとんど人がいなくなりました。たぶん、従業員さんの休憩時間だったのだと思います。喫茶室の若いウェイターさんひとりが残り、1階受付にもレストランにも人がいない。チャ~~ンス。

 罪と罰の意識が他の人と違うので、人に迷惑をかけない限り、自分ルールを適用する。カフェ利用者の見学場所はパティオだけ?なんのなんの、だれもいない邸内、ゆったり見学させていただきました。ウッシッシ。お前もワルよのう。いえいえ、お代官様ほどでは、、、、
 5月4日は、前回写真を撮り損ねた「小笠原邸建設当初に輸入された、食堂の大テーブルの脚」を見たいと思っての見学です。

 邸内写真も撮りましたが、前回撮ったときとほぼ同じモチーフ同じ構図。どうしても自分の好みでアングルを決めると、代わり映えのない写真になります。

 カフェ入り口


 カフェ店内 内装は普通。コーヒーカップはホットもガラスコップでの提供。ちょいしょぼい。予約ディナーのコーヒーは、マイセンとかウエストウェッジかロイヤルコペンハーゲンか。


  小笠原伯爵邸玄関外側


 玄関内側

 玄関の上のブドウと鳥かご装飾


 受付


 受付天井の鳥模様のステンドグラス、元は小川三知の作品です。邸内の装飾や家具は、GHQに接収され米軍将校が住んでいる間に、ほぼ消失。家具などは、欧州からの輸入高級家具でしたから、将校家族が帰国する際にアメリカに持って帰ったらしい。

 ステンドグラスも、戦前に撮影された邸宅の写真をもとに復元されたもの。鳥の意匠です。


 パティオ階段


 1階の屋根上は、広いテラスになっており、2階の部屋からとパティオ階段から出入りできます。

 2階からパティオを見下ろす

 
 1階屋根上は、広いテラス




 2階から外に出ると、窓側にテラスをみはらすベンチがあり、バラの花がきれいでした。
 

 1階応接間




 応接間の窓のステンドグラス。窓は3面ありますが、真ん中だけ小川三知の作品を復元。
 まどの前にコップがお供えしてあり、レストラン管理者が三知を大切にしている気持ちがわかりました。


 1階大食堂


 大食堂のテーブル脚。メロンレッグと呼ばれているどっしりした脚です。


 1階小食堂の壁には、邸内を撮影した古写真が飾られていました。


 家具は、邸内古写真をもとに、アンティーク家具をそろえました。


 インターナショナル青和社長の竹内秀夫(1945~)は、学習院大学卒業後アルゼンチンにわたり、かの地で携わった仕事が骨董商だったそうです。アンティーク家具の吟味はしっかりしたものだったと思います。
 
 オリエンタルスタイルの喫煙室の家具も、元の邸内に近づけるよう、ひとつひとつ吟味して輸入されました。







 喫煙室の外側を飾るタイル


 喫煙室の外観


 レストランが「元の邸宅に復元すること」を条件に小笠原邸改修を引き受けたときは、タイルもほぼ全体が剥がれ落ちていて、ぼろぼろ状態でした。タイル作家やボランティアの働きで、やはり戦前の写真から復元ができました。

 だれもいない邸内で、ここの住人のような顔をして撮影してみました。春庭が座ると、伯爵夫人には見えず、お末の下働きにしか見えないところが、ザ~ンネン。
 伯爵様たちが賓客をもてなしり、家族団らんに使ったベンチ。休憩時間にこっそりにおスエが座ってみたけれど、執事に叱られた、というシーンと思ってください。
 「これこれ、オマエごときが座ってよい場所ではないぞ」
 「あ、執事さま。申し訳ございません。どうぞ伯爵様にはご内密に」



 できる限りの復元につとめたインターナショナル青和株式会社様、次回はランチくらいは予約できるようにしますから、今回、コーヒー1杯で邸内探索したこと、お許しくださいませ。
 よい子のみなさんは、コーヒー1杯で邸内見学するようなセコいことせずに、ランチ1万円かディナー2万円のコースをご予約なさいませね。オホホ、、、、。

 前回見学外観
https://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/24992b5a24612f49a5a9fbcc74648814
 前回見学室内
https://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/7871699023fa7b42b46762016102c483

<つづく>

ぽかぽか春庭「東京科学博物館建物内部デザイン」

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20190609
ぽかぽか春庭アート散歩>東京建物めぐり拾遺(2)東京科学博物館建物内部デザイン

 上野の科学博物館、いつも駆け足見学で展示を巡るので、じっくりと内部のデザインなどを鑑賞している時間がなくなってしまいます。
 科博の本館(日本館)は、1931(昭和6)年に建てられた近代建築のひとつ。文部大臣官房建築課の設計によるルネサンス様式です。ステンドグラスなど、それだけをじっくり見に来てもいい。

 設計は文部省のチーム。文部省大臣官房建築課の技師、糟谷謙三が設計、施工する際の実施設計は、同じく文部省の小倉強(1893-1980)をはじめとする若手技師が担当しました。小倉強が、施工は大林組が担当。2008(平成20)年に国の重要文化財に指定されました。

 上空から見ると、当時の科学最先端であった飛行機のかたちをしているのだそうです。でも、周辺に高いビルがないから上空から見たことない。だれが見ることを想定して飛行機の形にしたのでしょうか。

 借り物画像(文化遺産オンライン)。ドローン撮影かな。ほんと、複葉機のような形。


正面入り口のドア上


ドーム天井の玄関ロビー


 2月に科博で弦楽四重奏を聞いたとき


 5月25日にビーズ展を見たおり、階段を上下しながら、ステンドグラスの美しさを味わいました。





 中央ホール上部ステンドグラスは、建築家・伊東忠太の図案をもとに小川三知の主催する小川スタジオで制作されたということです。
 空想の動物鳳凰と、空想の植物宝相華(ほうそうげ)をデザインしています。

 宝相華は、蓮華、ザクロ、牡丹を組み合わせて作られたパルメット模様。パルメットとは、花びらや葉が扇状に広がった模様をさします。ギリシアではこの形をアンテミオンといい、原形は古代メソポタミアから伝わり、古代ギリシアでパルメットの形になりました。スイカズラ(忍冬)のアンテミオンと古代エジプトのロータス(蓮)のふたつは代表的な模様です。

 科博日本館ドーム天井のステンドグラスは、伊藤忠太のデザイン(画像借り物)


 私が科博ファミリー会員になって子供と通うようになったころ、このステンドグラスの美しさに気づかないでいたなあと思ったら、それもそのはず、2004-2007年の改修でドームをおおっていたものをとりはずし、埃や油膜を取り除く作業をしてようやくステンドグラスの存在があきらかになったのだそうです。

 長い間知る人もいなくなっていたため、だれの作品であるかもわからなくなっていましたが、小川三知研究者の田辺千代によって、あきらかになりました。小川三知の死後、弟子たちとステンドグラス工房をまもってきた小川三知夫人の手紙を、田辺が発掘したことによります。
  三知が亡くなってしばらくした後に、三知夫人が「図案は(中略)伊東忠太先生にお願ひしました」と書き記しており、伊東の図案によるものと、三知の図案によるものの2種類が残されたことがわかったのです。

 館内には、100枚近くのガラス窓があり、まだ修復されていないものがほとんどだということですが、修復には莫大なお金がかかるため、手がつかず、埃や汚れにまみれたままになっているのですって。もったいない。科博の人にとっては、ステンドグラスよりも中の展示を充実させることが大事なのでしょうが、小川三知ファンがクラウドファンディングでもはじめないかしら。

 この鳳凰は、小川三知の図案のようです。


階段




階段内側通路


壁のデザイン


窓内側


 科博、建物をじっくり見る機会が少なかったですが、建物の探索ツアーなどがあれば参加して説明を聞きたいです。展示物の解説会などはあるのですが、東博のように、建物巡りもあったらいいな。

<つづく>

ぽかぽか春庭「京都長楽館室内」

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 京都長楽館レストラン室内

20190611
ぽかぽか春庭アート散歩>建物めぐり拾遺(3)京都長楽館

 昨年10月に訪れた京都の長楽館について室内写真を載せておきます。
 長楽館の外観は自分のデジカメで撮ったのですが、室内に入ったあと電池切れ。UPした写真室内のものは、同行した友人撮影のもので、私がケータイで撮影した室内写真をどのようにUPしていいかわからないままになっていました。
 自分では操作ができないので、息子にUSBに保存してもらい、なんとかパソコンに取り込むことができました。

 長楽館外観などはこちら
https://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/a4b8a9978f4a4c655988eb88742c1722#comment-list

 長楽館玄関外側と受付ホール




 長楽館のさまざまな室内。改装してレストランにしてありますから、どこが往時のもので、どこが復元で、どこが新しく作り上げたものなのか、わかりません。建築ガイドツアーなどの催しがあるときに参加したいけれど、館の案内は、現在していないみたい。とにかく、たくさん部屋がありました。

 1階のアフタヌーンティルームと、1階2階の各室(3階は宿泊者だけ入れる)


 











 1階から2階へ。2階から3階へあがる階段がすてきでした。










 ドアなどのステンドグラスも、外からだとよくわかりませんでした。


ティータイム、お茶もケーキもおいしかった。ひとり4000円のアフタヌーン・ティーコースだからね。日ごろはコンビニの100円コーヒー飲んでるんですけどね。





 昨年京都旅行の優雅なひとときを思い出して、明日もコンビ二100円コーヒー飲んでがんばります。

<おわり>

ぽかぽか春庭「万葉の湯」

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横浜みなとみらい。コスモクロックとランドマークタワー

20190613
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記横浜行楽(1)万葉の湯

 東京居住者にとって、都内の移動は日常の範囲。高尾山に登っても、泊まることはなく日帰りする。(船や飛行機で行く八丈島などの伊豆七島だと泊まるけれど)。埼玉千葉も日帰り範囲。通勤し、仕事をして東京に帰る。
 横浜は、通常は日帰り範囲です。横浜美術館へ行っても、山下公園やレンガ倉庫へ行ってもこれまでは日帰りでした。

 「令和連休にはどこにもお泊りしなかったのだから、ちょっとすいたころ温泉にでも行って泊まりたい」ということになりました。
 近場の温泉として伊豆半島や常磐ハワイアンなどが候補に出たのですが、一番近い横浜の温泉に行ってみることになりました。

 横浜・万葉の湯。湯河原から温泉水を運び、沸かしなおしている温泉で、天然温泉といっても、スーパー銭湯に近いかな。


 お台場の大江戸温泉、後楽園ラクーアなど、スーパー銭湯系にあまり行ったことのない娘息子もOKとなり、5月23日午後、おっとりとでかけました。

 地下鉄とみなとみらい線を乗り継ぎ、1時間半。毎日の通勤では片道90分乗っているのですが、お泊りに行くとなると、とたんに気分は非日常になってくるから不思議。

 海の光景をふだんは目にしていないので、旅行気分になれるのかも。


 見慣れているはずの、横浜大観覧車「コスモクロック21」もなにやら楽し気に光っています。


 みなとみらいの万葉の湯に到着。


 晩御飯もコスモクロックの時間を見ながら


 ご飯を食べながら、娘と観覧車に乗ったときの話をしていたら。
 娘は、保育園時代に、父と父の仕事仲間の方といっしょに横浜の博覧会を見ました。その時初めて観覧車に乗った思い出が強烈に残っているので、今でも観覧車を見ると胸がときめくのだって。

 博覧会では、見たこともないヤシの実を見て、「飲んでみたい」と父にねだったら、ふだん子供の相手をすることもない父ですが、買ってくれました。しかし、飲んでみたら思っていたような甘いジュースではなく、未熟なヤシのくせのある味だったので、こどもにとってはおいしくなくて、「もう、いらない」と言ったら、父がすごく怒ったので悲しかったこと。

 博覧会会場を回って、ちいさな花飾りがついた小箱を見ておみやげにほしいと言っても、父は「さっきヤシジュース買ったのに、飲まなかったから」と、頑として買ってくれないので、さらに悲しくなったこと。いっしょにいった父の仕事仲間の方が、「買ってあげる」と言ってプレゼントしてくれたのが、天にものぼるほどうれしくて、今でも宝物のひとつにしていること。

 私がいっしょに行かなかったのは、未熟児で生まれた病弱の赤ん坊がいたためですが、娘の初観覧車の思い出にヤシジュース顛末も伴っていたこと、私は忘れていました。小箱プレゼントについては、帰宅後見せてもらって、よかったね、と言ったような気もしますが、今でも持っているとは気づきませんでした。

 コスモクロックをぐぐってみたら、娘がはじめて乗った観覧車はその後解体されて、みなとみらい地区に運ばれ、再稼働しているのだと。なんと、娘が乗った思い出の観覧車は、目の前のコスモクロックそのものだったのです。
 娘も「保育園だったから、横浜のどこにあった観覧車かも覚えていなかったけど、そうか、このコスモクロックに乗ったのか」と、感慨ひとしおでした。

 翌朝、5時の入浴開始にお風呂に入ったら、だれもいなかったので、独占湯舟。
 (ほんとは、お風呂場を撮影しちゃいけなかったみたいです。でもだれにも迷惑かけていないという自分ルールで撮影。アハッ見たくもない古希の老婆入浴図を見せられたほうは、迷惑こうむっているが)

 
 ひのき風呂でのんびりと。


 24日は、万葉倶楽部となりの安藤百福ラーメン記念館へ。

<つづく>

ぽかぽか春庭「真実のまんぷくでおなかいっぱい in カップヌードル記念館」

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 横浜カップヌードル記念館

20190615
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記横浜行楽(2)真実のまんぷくでおなかいっぱい in カップヌードル記念館

 横浜は近いから、たいていの名所には行ったことがあります。でも、安藤百福発明記念館には、「カップヌードル?ま、いいや」とパスしてきました。立身出世し叙勲もされた名士の記念館となると敬遠したいへそ曲がり。

 しかし、万葉倶楽部からは道路ひとつ隔てただけのお隣さんなので、移動せずに観光できるという地の利。入館料500円。平日だからすいているかと思ったら、社会科見学の小中学生、アジアからの観光客でにぎわっていました。

 私がほぼ毎日見ていた『まんぷく』を、娘息子は見ていないから、安藤百福(1910-2007)のことを知りません。



 百福さんが台湾出身であることや、ドラマの福子さんと結婚する前に、台湾での結婚で子供が生まれていたことなどは、いっさいドラマには出てきませんでした。

 朝ドラですからさまざまな制約があり、実在の人物であってもドラマ的に変えられることは当然ですが、ウイスキーを作った竹鶴政孝の妻リタがスコットランド出身であることはそのまま描写されるのに、百福氏が台湾出身であることを出さないというのが、なにかひっかかる気がしていました。

 しかし、日清食品の公式サイト「安藤百福クロニクル」にも、百福が台湾で生まれ育ったこと、最初の妻が2011年まで104歳の長寿を保って暮らしていたこと、台湾に今も百福の娘呉美和が生存していることなどは、出てきません。
 百福は生まれたときは日本統治下の日本人であり、1945年からは中華民国籍になりましたが、1966年に日本国籍を取得しています。
 しかし、それを日清食品が出していないっていうのは、何か大人の事情があるのかもしれません。

 百福の最初の台湾人妻は1928年、百福が18歳で結婚した正妻の黄綉梅(フアン・シウメイ1907-2011 104歳)長男・宏寿を生みました。宏寿は、日清食品2代目社長、のちに安藤姓(1930-2007)となりました。

 百福の2番目の妻は呉美和の母で、台湾人女性の呉金鶯(ウー・ジンイン1919-1971)。
 呉金鶯は奈良女子高等師範保母養成科に在学中、百福と出会い2男1女を生み、さらに台湾から日本に呼び寄せた長男宏寿の世話も引き受けた人です。
 呉美和(1942~)は、金鶯の娘として、たびたび安藤百福の娘としての存在主張をしていますが、安藤家は安藤姓になった宏寿のみを家族と認定しています。

 百福は、20代で頭角をあらわし、メリヤスを扱う繊維会社「東洋莫大小(とうようメリヤス)」「日東商會」を台北と大阪で起業し、簡易住宅や幻灯機の製造販売も行う若手起業家でした。
 台湾日本を行き来する百福。正妻黄綉梅は台湾で、呉金鶯は大阪で呉百福とすごすことで、ふたりの妻は納得していました。1970年代まで、台湾の民俗社会では一夫多妻は法的にも認められていたとのことです。

 しかし、百福が、関西財界の社交場「大阪倶楽部」で受付嬢をしていた安藤仁子(まさこ1917-2010)と付き合い始めたころ、呉金鶯は離婚を申し出て台湾に戻ってしまいました。百福は手切れ金を持たせて、子どもたちの養育費仕送りもしていた、ということです。
 台湾では正妻とも仲よくできたという呉金鶯も、日本での1夫2妻は耐えられなかったのかもしれません。双極性障害(躁うつ病)により52歳で死去。

 美和は仕送りのおかげでか、がんばって学費をかせいだのか、国立台湾美術学校(現・台湾芸術大学)を卒業しました。
 美和は、安藤百福の死後遺産を受け取ったものの、どうやらそれをだまし取られたらしい。現在の安藤家は、呉美和との関わりを断っているらしいので、遺産をめぐって悶着があるのかも。金持ちの家の内紛は、貧乏人には興味津々のラーメンの味。家政婦じゃないけど見た。



 呉百福は、安藤仁子と結婚するために、正妻(大房)だった黄綉梅を戸籍上「妾(二房」と変えることによって安藤仁子と正式に結婚し、自分の姓も安藤に変えました。黄綉梅は2011年、104歳まで台湾で暮らしました。

 安藤仁子は、『まんぷく』では福子のモデルになり、安藤サクラが演じた人物です。いつもおだやかに夫を支え続け、黄綉梅が生んだ長男宏寿も育てたという大阪のおっかさん。
 横浜カップヌードル記念館では、福子人気にあやかって、一部屋は、仁子の生涯を伝えるコーナーになっていました。福々しい方で、84歳のときの録画だという夫を語るインタビューが流れていました。



 カップヌードル記念館の目玉イベントは、「世界にたったひとつ、自分だけのカップヌードルを作れる」という催しです。
 小中学校のこどもが学校行事として参加する場合は無料で、一般人は300円で参加できます。

 私と娘息子は12時の回に参加。ヌードルのカップをじぶんの好きにデザインして、トッピングを4種類まで自由に選べる、という「自分だけのカップヌードル作り」
 絵心ゼロの私のカップは、見事に「超まずそうなデザイン」になってしまいました。



 選んだトッピングは、いんげん、肉、えび、かまぼこ。


 朝ごはんは、万葉倶楽部のバイキングでお腹はちきれるまで食べたのに、お昼はお昼で食べるというので、4階のワールド麺ロードへ。アジアンテイストというか、戦後闇市的な雰囲気のランチコーナーです。
 食べたことないものを、と、カザフスタンのラグマンという麺をチョイス。店の前の「ラグワンわ とってもおいしいをさしあげます」という微妙なアジアン日本語まで再現されている芸もなかなか。





 アジアンテイストのトゥクトゥク。


 体調十分でなく、テラスで海を眺めて休んでいたいという息子を残し、私と娘は「世界にひとつだけのわたしだけのチキンラーメン」作りに参加。ひとり500円。

 娘と共同作業で粉にかん水を入れてこね、器械にかけて何度ものして、最後に細切り麺にしました。麺を油で揚げる作業は係員が行います。


 面をいれる編み籠には、番号がついており、わたしのは2番。


 揚がった麺を乾燥している間に、チキンラーメンのパッケージ作り。今度はおいしそうに見えるようにがんばったのですが、絵がへたであることは確定事項なので、、、、。


 かぶっているひよこのバンダナと出来上がってラーメンはおみやげにもらえます。そのほか、娘はチキンラーメンパッケージ柄のハンドタオルやらコースターやらおみやげに買っていました。ラーメン作りが思った以上に楽しかったから、記念に、だって。

 カップヌードル記念館の正式名称は、安藤百福発明記念館。コンセプトは、百福が工夫を重ねてチキンラーメンやカップヌードルを作った精神に学び、後進が創意工夫を続けていけるよう、百福の事績を伝える、というもの。
 『まんぷく』の中で毎日画面に登場した「百福の研究小屋」が復元されていたので、のぞいてきました。テレビではもう少し広かったのは、撮影の都合でしょう。実際の小屋はテレビカメラ入れたら動けないほど狭かったので。
 



 「20世紀21世紀の日本のすごい発明」というクイズ番組で、百福のカップ麺は堂々の一位になっていました。青色発光ダイオード、カラオケとか、味の素とか、いろいろある中、カップ麺が一位。いちばん身近なわかりやすい発明ということでしょうね。
 魚群探知機とか、一般の人にはなじみがないし。

 飯を炊く、麺をうってゆでる、などの毎日の調理。かっては「飯くわにゃならんから結婚した」という男性もいた社会でしたが、たしかにカップ麺をコンビニで買って帰ればとりあえずの腹ペコはおさまる。
 百福さん、3人の妻との間に7人の子をなした人ですが、日本社会の「未婚のままでも生きていける」社会推進に貢献した、と言えるのかも。

 娘息子が結婚しないのは、百福さんの発明あってこそ!
 

 体調悪化の息子と息子を気遣う娘は先に帰宅することになったのですが、私は当初の予定通り、みなとみらい駅前の横浜美術館によることにしました。
 ふたりは、家でカップ麺でも食べればいいから、心配しないことにして、、、、と思ったら、ふたりは、ちゃっかりレストランで食べて帰ったみたい。ほらね、母はなくとも、子は食べる。

<つづく>

ぽかぽか春庭「ナイトメア・ディズニークラシックコンサート」

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 ディズニークラシックコンサート「ナイトメアビフォークリスマス」

20190616
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記夢音楽(1)ナイトメア・ディズニークラシックコンサート

 ディズニー大好きっ子の娘、今年になってディズニーリゾート宿泊は6回。5月に2度、6月に2度、ディズニーリゾートのホテル宿泊。そのほか5月には、ディズニークラシックコンサートに出かけています。

 私は、コンサートもリゾートのホテル宿泊も年に1回でいいかなと思っていたのですが、5月26日のディズニー「ナイトメアビフォークリスマス」の映像コラボコンサートに、娘といっしょに出かけることになりました。

 本当は息子が姉といっしょに行くことになっていたのですが、体調悪くなり、急遽私に話が回ってきたのです。
 体調の悪い息子につきそっていたほうがいいのか、ちょっと迷いましたが、お高いチケットS席9800円ですから、無駄にするのはしのびなく、娘のほうに付き添いました。

 有楽町国際フォーラムの一番大きいホールAのキャパ5000席がほぼ満員。私は1階S席やや右よりでした。会場内には、ディズニーリゾートのハロウィーンシーズンのように、魔女のコスプレヤーがいました。ナイトメア、悪夢という意味ですが、ホラー嫌いの私でもぜんぜん怖くなく、そこはディズニーですから。

 私は、ディズニーアニメ「ナイトメアビフォークリスマス1993」を見ていないので、楽しめるかなあと心配していましたが、映画全編をスクリーンに映し、それに合わせて主要な曲目をオーケストラと歌の生演奏をつける、というコンサートなので、ストーリーもよくわかりました。娘はネット配信で見たことがありました。

 ハロウィーン国のかぼちゃ王ジャック・オ・ランタンが、新機軸のハロウィーンを開発したいとクリスマス国に行き、サンディクローズをハロウィーンに連れて帰ろうとするてんやわんやのストーリーですサンディ・クローズとは、ジャックがサンタクロースを誤解し「鋭い爪=the Sandy Claws」と思ったからというのですが、私にはsandy=砂の、という訳語しか思いつかないので、どうしてthe Sandy Clawsが「鋭い爪」なるのか、わかるひと、教えて。

 映画はティム・バートンの原案原作のミュージカルアニメ。ティム・バートンは別の映画をとっていたゆえ、監督はヘンリー・セリック。



 ハロウィーンに登場する怪物たち、ディズニーアニメですから、不気味な外観でもかわいらしい。ヒロインのサリーも博士がつぎはぎして作り上げたフランケンシュタインのような怪物ですが、ジャックを恋する可憐な乙女になっています。

 映画の動きにぴったりと合わせて、オーケストラが演奏し、ジャックやサリーが歌います。ジャックの歌は作詞作曲のダニー・エルフマン。映画公開から25周年記念なのだそうです。

 スペシャルゲストとして、ウギー・ブギー(Oogie Boogie)の声を映画でも担当したケン・ペイジが出演し、映画ファンは大喜びしていました。ディズニーヴィランズとは、白雪姫の継母女王やアラジンのジャファーなどの悪役の総称。「ナイトメア」の悪役は、ラスボスのウギー、ブギーです。ヴィランズは、ハロウィーンパレードで活躍。
 私は映画みていないので、ケン・ペイジと聞いても、そうか、オリジナルキャストなのかと思っただけでしたけれど。


 はじめて聞くアニメミュージカルでしたが、たのしく2時間すごすことができました。
 怪物のかっこうをしているつもりのポーズです。


 ナイトメアビフォークリスマス。悪夢ではなく、楽しい夢の音楽会でした。

<つづく>

ぽかぽか春庭「岡崎体育さいたまSアリーナくちぱくワンマンライブに行ってきた」

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岡崎体育さいたまスーパーアリーナワンマンライブのラスト。アンコール終了後のファンサービス「トロッコで会場一周」(撮影OKでしたが、これは画像借り物)

20190618
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記夢音楽(2)岡崎体育さいたまSアリーナくちぱくワンマンライブに行ってきた

 ひとりの若者が壮大な夢を描く。「30歳までにさいたまスーパーアリーナでワンマンライブをひらく」
 奈良のスーパー万代でアルバイトをしている、海のものとも山のものともつかない、名もなくイケメンでもない、まだ何物でもない男。才能があるのかないのかもわからない。

 スーパー万代の店長さんも、同僚パートさんたちも、「わかぞーの大言壮語的壮大な夢」に対して、軽く「うん、がんばってね」と言っていたことでしょう。店長は「芸能界めざすなら、まいうーの石塚英彦クラスは無理目として、ドランクドラゴン塚地武雄の次くらいをめざせばいいのに」とか思っていたかも。まあ、体形ビジュアルからの勝手な想像ですけれど。

 でも、6月9日、その若者は、さいたまスーパーアリーナに18000人の観客を集めて、夢をかなえるワンマンライブを実現させたのです。岡崎体育、29歳11ヶ月と23日。7月3日に30歳になります。
 お祝いの花がずらりと並ぶ中に、「奈良のスーパーからさいたまのスーパーへ」という文字がありました。スーパー万代からのお祝いらしい。

 お祝いの花輪(JinroのCM曲を担当したときのジンロを持っている姿)


関係者、関係各社からの花がずらり

 
 岡崎体育といっても、私の世代の人なら、彼がソロ・ミュージシャンであることを知らないほうが多い。
 では、NHK朝ドラ『まんぷく』に出た俳優としては?それでも知らない人も多いと思います。

 『まんぷく』の主人公萬平(モデルは日清食品創業者安藤百福)が、進駐軍に誤解を受け逮捕されたとき、雑居房を見張る日系人のMP兵士チャーリー・タナカを演じたのが岡崎体育です。ドラマ初出演とは思えない堂々の演技力を見せました。

 チャーリー・タナカは、日系GHQ軍人。日系人が戦時中にアメリカでひどい仕打ちを受けたことは戦後知られるようになりました。日系人の若者は、アメリカ人として認めてもらうために軍に志願したのです。

 雑居房の逮捕者たちに「日本人は大嫌いだ」と言い、萬平らにつらく当たる。日系2世の悲哀もにじませ「アメリカ人になりたくても認めてもらえない、父祖の地である日本に同化したくても同化できない」という苦しさをかかえつつ、自分の中の日本人DNAを意識していく。
 しかもその太めの体形からコメディリリーフとして画面に写される、という難しい役どころを表現できていて、演出家からは「チャーリー・タナカの繊細な心情を表現してくださった」とベタ誉めになりました。

 朝ドラ、脇役出演ながら強烈な存在感を見せ、私が体育を見たのも、このドラマが最初。
 その後トーク番組に出て歌を披露したりしていたので、彼が歌手であることも認識していましたが、会場にいるファンの中で、いちばん体育熱薄かった客だったことでしょう。
 MCで、体育は「北海道から来た人」「沖縄からきた人」と、手を上げさせていました。全国そして海外からも客は集まっていました。私は「体育、別段好きやないけど、友達に引きずられてきた人」に手をあげました。娘に連れられてきたので。

 娘は、2016年の「ミュージックビデオ」という歌で岡崎体育を知り、2016年10月の『ミュージックステーション』で音楽番組初出演以後、好きなアーティストのひとりになったのだそうです。

 さいたまスーパーアリーナでのワンマンライブMCで、体育は、スーパーマーケットでアルバイトをしながら、最初のライブを行ったときの思い出を感慨深そうに語っていました。最初のライブのチケットは100枚売れて大喜び。でも、当日は台風で、ライブ開始時には78人、終了時に90人という客数だったそうです。それがついに、公言どおり「さいたまスーパーアリーナで公演」の夢をかなえたのです。
 たまアリの満席の18000人は、体育の「夢を追い続けた7年間」を追体験しながら、夢をあきらめなかった若者に盛大な拍手を送っていました。

 会場の18000人(私の席はS席24列めだったけど、それでもメインステージは遠かった)


 席はS席8500円、A席(6500円)、ITAMA席(4500円)。
 合わせると、「SAITAMA」。S席にはフリフリライト(ShakeFlashlight)のおみやげつき。

 春庭は、たまアリやその他の会場で、「フィギュアスケートの客はほとんどが女性、クラシックコンサートの客はほとんどが高齢者」という客層の中にいたものだから、こんなにも若者がいて、男女比率も半々くらいの大観客に圧倒されました。たぶん、私は、集まった一般客の中で、最高齢のほう。

 岡崎体育は、2012年に同志社大学を卒業後、一度は一般企業へ就職しました。しかし、音楽への夢を諦められず退職。地元のスーパーマーケット「万代 宇治樋ノ尻店」でアルバイトをしながら、自主制作でのCDリリース、ライブやフェスへの出演を続けました。
 アマチュアとして活動を続け、2014年にソニーミュージックの関係者の目にとまったことから、2016年にメジャーデビュー。その後は、快進撃。

 2016年アルバム「MUSIC VIDEO」の楽曲「ミュージックビデオ」は、2017年『第20回文化庁メディア芸術祭』エンターテインメント部門新人賞を受賞。
 2017年、テレビアニメ『ポケットモンスター サン&ムーン』のエンディング主題歌と、アニメ映画主題を担当。2018年10月から『ポケットモンスター サン&ムーン』のオープニング主題歌「キミの冒険」エンディング主題歌の「ジャリボーイ・ジャリガール」の両曲を担当。ポケモン人気のため、会場には小学生くらいの子どもも親といっしょに来ていました。
 2019年1月、日野市立七生緑小学校合唱団とコラボレーションした楽曲「心のノート」を配信限定シングルとしてリリース。テレビアニメ「ポケットモンスター サン&ムーン」の新エンディング主題歌となる。(↓おまけ参照)

 ポケモン関係者からの花


 岡崎体育自身のアナウンスで「スマホケータイの電源はお切りください、、、」その他の注意事項が流れ、いよいよ開幕。
 オープニングはスクリーンにうつった太めシルエットからはじまり、シルエットのTシャツに「BASIN TECNO」と、レザー光線が文字を刻みました。Basin tecnoとは、岡崎の音楽を表す「盆地テクノ」の英語訳なんだそうです。第1部はBasin tecnoの文字が入った青いTシャツ姿。

 このワンマンライブの特長というのを、最初のつかみMCで披露して笑わせてくれました。
1)「会場中央にある特設の丸いセンターステージに行くまでの花道が、会場設営費用節減のために、平均台くらいの細さです」。
 実際には30CM幅くらいあり、歩いていて落っこちることはないですが、センターステージにいくまで、平均台の上をおそるおそる通っていくような演出もありました。

2)「センターステージを飾っているのは、エノキ」。
 遠目には白い造花にみえましたが、センターステージのアップがスクリーンに映されると、ほんとうにエノキ茸でした。

3)「会場警備にあたっていた警備員のひとりは、藤木直人」
 呼ばれてステージ上にあがった人、本物の藤木直人でした。今期朝ドラでは広瀬すずの育ての父を演じていますが、ほんとうにカッコいいすてきな人。自身の音楽アルバムの宣伝をして引っ込みました。


 (画像借り物)

 センターステージでは「唯一の相棒」というペンギン「てっちゃん」(手袋みたいに手にはめてうごかす指人形)の口をパクパクさせるだけで、「てっちゃんのメジャーデビュー曲フェイクファー」というのを披露しました。センターステージは、この「てっちゃん」のためのみ使用。

 途中2度の休憩が挟まりましたが、スクリーンに映像が流されたので、私も娘もトイレには立たずに映像を見ていました。
 1部と2部の間は、岡崎が朝ごはんを食べているところの固定カメラ映像。ガールフレンドとしゃべくりながら、卵焼きなどを食べる。カノジョの夢「ハワイでウクレレ教室をひらき、日本からの観光客から法外なレッスン料をとる」を聞かされる。90分レッスンで14800円というレッスン料の看板として、岡崎体育という名前を貸してほしい、とガールフレンドにいわれ、煮え切らずに「レコード会社に相談してみるけど、、、、それより2部の出だしどうしよう」と相談して話をそらし、ガールフレンドのいうアイデア通りに登場することに決定。ここで6分間の休憩時間おわり。

 で、第2部は、舞台の上から宙づりで登場。
 バンドもいないし、ダンサーもいない。完全にひとりだけのワンマンライブ。舞台上には机の上のパソコン、歌うときのお立ち台。
 岡崎は「バンドなら稼ぎはバンドの人数で割らなきゃならないが、ワンマンライブやから、かせぎはひとりじめ」と、いつものギャグで笑わせていました。
 持ち歌の歌詞のひとつは「Friends」。手袋人形のてっちゃん相手に「バンドざまぁみろ、バンドざまぁみろ」と繰り返し、ぺんぎんてっちゃんがプロジェクト「岡崎体育」に参加したいというのも「いやいや、収入とか半分になっちゃう」と拒絶。

 この先も岡崎体育はシンガーソングライターとして、ひとりでやっていくだろうと思います。所属の芸能事務所さえなく、ひとりでセルフプロデュースしているのです。

 体育の持ち歌のひとつ「Explain」の「さいたまスーパーアリーナでくちパクで歌う」という歌詞。18000人の観客に「おっさんのカラオケを、金払って観に来てるんやで。みんなそうやで」と言っており、実際ほとんどは、口パク。
 生声で歌ったのは、30CMの花道を通ってセンターに出てくるときと、キーボード弾き語りをしたときだけ、(と、私の耳には聞こえた。アンコールは生声だったかも)

 しかし、観客は「くちパクじゃねえか」なんて、だれも思わない。もともと「歌はくちぱくするのが自分のパフォーマンス」と言っているからです。
 くちパクでも、みな体育のパフォーマンスとMCを楽しみ、みなが「おめでとう」「やったね」「夢をかなえたね」と、あたたかい幸福感に包まれたライブでした。

 アンコールが終わったあとの電飾トロッコで会場一周するときは「写真OKです。ネット拡散希望」と、体育さんが言っていましたので、写真UPします。
 

 最後に「さいたまスーパーアリーナでワンマンショーした記念撮影をします」と、プロの写真家を呼び、撮影していました。「観客も写りますんで、不倫とかで来ている人は顔隠して」と笑わせていました。自分の容姿を歌の歌詞の中で「ビジュアル終わってるよ、コイツ」と歌っていますが、舞祭組を堂々看板にできる体育偉い!

 プロ写真家が撮影した「さいたまスーパーアリーナワンマンショー記念撮影」(画像借り物)


 アンコールで「Explain」をうたいました。歌詞の最後は。
♪お前ら覚えておけ。俺が岡崎体育だ
 胸のBasinTechnohaは消えることはない
 俺はまだ歌ってるんだよって言ったものの、まだ口パクだ
 いつかはさいたまスーパーアリーナで口パクやってやるんだ 絶対

 その「いつか」が実現したことを、18000人が祝っていました。
 娘は、「2016年につらくて落ち込んでいたとき、体育のミュージックビデオっていう曲を聞いて笑って、つらさも半減できた。だから、さいたまアリーナでほんとうにワンマンショーやるって知って、ぜったいに見ようと思った。」と言います。

 岡崎体育の本名岡亮聡「OkaAkitoshi」というロゴが入ったTシャツも買い、バッグやタオルなども開場前に買いました。終演後にペンギン人形「てっちゃん」が歌う「フェイクファー」のCDも買いました。直前に具合が悪くなって来られなくなったオトート君へのおみやげです。

 私は、息子のチケットを無駄にしないために急遽参加した飛び入り観客。100人近くも出場するオーケストラ演奏会でも5000円以上は出さないのに、ワンマンショーで8500円もするチケット、無駄にしたくないからね。

 私のおみやげは、会場でS席客に無料配布された「フリフリライト」
 赤青緑黄白と色が変化するライト。観客は皆でライトを振って曲を盛り上げました。コンピューターで制御されており、歌に合わせて会場内は黄色になったり(体育のことば「菜の花みたいやなア」)青くなったら「海みたいや」、しましまになったりカラフルになったりの演出。この光の演出は、会場の一体感を盛り上げていたと思います。S席じゃない客が終演後語っていたのが耳に入りました。「楽しかったのは楽しかったけど、みんなでいっしょにライトふる席じゃなかったから、一体感がなかったのが残念」と言っていました。

 最初の登場から観客は総立ち。私も、一部と二部の合間の映像シーンのほかはずっと立ちっぱなし。岡崎が「踊れー!」とあおると、みな一斉にジャンプして唱和ならぬ踊和する。私は膝いたくてジャンプできないから、体だけゆすって踊和。(ジャンプしたあと着地のとき膝にひびく。古希だもんなあ)

 風邪を押してさいたまに来た娘は、咳がでないよう、MCのときや休憩のとき、のど飴をなめていました。おみやげのペンギンてっちゃんCDも買って、「疲れたけど楽しかった」と大満足でした。
 楽しい思いを重ねれば、きっと夢かなうときが来ると、岡崎体育の夢かなった日に同じ時間を過ごせた幸せをかみしめて帰宅しました。

 来月に30歳の岡崎体育。2ヶ月後には古希の観客春庭。
 古希すぎたら、「立ちっぱなしコンサートに来ることもまずないだろ」と思いながら会場をあとにしました。
 古希のばーさんは、入場時の「体育、別段好きやないけど、友達に引きずられてきた人」から「これからも岡崎体育を応援し見守りたい人」に変わりました。とりあえず、 youtubeにある岡崎体育の曲、ほとんど全部聞きました。

 さいたま新都心駅に着いた時から、帰りに駅近くのビルで晩御飯たべたあとまで、ずっと雨。
古希の身に、2時間ずっと立ちっぱなしの若者向けライブは少々こたえましたが、翌月曜日から仕事を続ける元気をもらいました。

 BASIN TECNOタオルを広げてみた


 2013/12/14 に公開された2013年秋に岡崎体育が京都精華大学、奈良女子大学の学園祭に出演したときのドキュメンタリー作品(監督は岡崎体育の架空の友達、石毛俊輔。つまり、自分自身でのメイキング)。

<つづく>

(おまけ)
 さいたまSアリーナワンマンライブでは登場しなかったので、youtubeできいてみました。
「心のノート」https://www.uta-net.com/movie/262599/
作詞・作曲:岡崎体育 
合唱:東京都日野市立七生緑小学校合唱団(Nコン小学校の部史上初6年連続金賞受賞)

今朝の雨にぬれた畦道は陽の光浴びて
晴れ渡る青空に過ごした日々の面影
月は朝焼けに溶けて
時計はきょうを告げる
ぼくも もういかなきゃ 探し続けた未来へ

心の中にあるまっさらなノートへ
最初のページには夢を 最後のページには思い出を
君は旅の途中 今を生きる命
温かい声が聞こえる ぼくを呼ぶ声

街の明かりに揺れた若草は 月明かりをまとって
澄み渡る歌声に過ごした日々の面影

別々の道を歩む君の背中を見送る
ぼくももう行かなきゃ思い描いた未来へ

心の中にあるまっさらなノートを開くと
最初のページには夢が 最後のページには思い出が
君はペンを執る 今を書き残して
温かい声が聞こえる ぼくを呼ぶ声

脈打つ胸に たしかなともし火を
波打つ海に かすかな目印を
浮かべて 歩き出す 歩き出す

心の中にあるまっさらなノートひらいて
最初のページには夢を 最後のページには思い出を
君は旅の途中 今を生きる命
温かい声が聞こえる ぼくを呼ぶ声

 「歌詞の引用は、文章全体の文字数の3分の1以下」という引用ルールはクリアしているけれど、JASRAC許可はない。

 岡崎体育の曲作り、曲を提供する先を徹底リサーチして、歌手に合わせた歌詞を書くのだとか。
 この「心のノート」、タイトルが文科省が配布する道徳教科書と同じなのが気色悪いけど、歌詞は上記通りのさわやか青少年系。
 道徳教科書「心のノート」を授業で使う際は、前フリとしてこの曲を生徒に聞かせるように、と文科省が全国の学校に通達するんじゃないか、ってくらいの文科省的歌詞に作り上げています。

 おそらく、体育のねらいは、この歌が小学校中学校の「あらたな卒業式ソング」として歌い継がれていくことなんじゃないかな、と古希は推察。「もういかなきゃ 探し続けた未来へ」とか「別々の道を歩む君の背中を見送る」とか、卒業っぽいフレーズがでてきます。校内合唱コンクールとかでも歌われそう。

 岡崎体育の歌の毒も、心の叫びもさらりと捨てて、なんとまあ、Nコン的にまとまっているかと思うけれど、体育の狙いは、次のNコン合唱コンクール小学校の部か中学校の部の作詞作曲者になることだと思います。当たったら拍手。

 そして、2019年末の紅白に初出場。
 紅白で口パクを認めてこなかったNHKですが、パヒュームの口パクはOKになったのだから、紅白でも口パクで歌ったらいいんじゃないかな。ゴールデンボンバーのair演奏だってOKの世の中。ちなみにボーカル鬼龍院翔は、18000人の中のひとりとして体育のワンマンライブに感激したそうです。(私の座った席の後ろに招待者席があったので、そこにいたんだろ)

 狙い通りに進んできて、7年で夢を実現した岡崎体育。才能豊かなシンガーソングライターだと思います。

おまけのおまけ
 さいたまでは聞けなかったけど、私のお気に入りは、仕事柄「留学生」。英語歌詞が関西風日本語に聞こえる、岡崎体育の芸風のひとつ(日本語レシピを英語風に読む、などの芸)を生かして、笑えます。共演は、カナダ人兄弟と日本人二人のバンド(モンキーマジックMONKEY MAJIK)モンキーマジックは「まんぷく」でMP役を演じて体育と出会い共演して知り合いました。この、英語歌詞が空耳アワーのように日本語の意味に聞こえる。笑えます。

https://www.youtube.com/watch?v=lvEVP7NPklU

 ただ、心配なことひとつ。この曲の岡崎体育の稼ぎは、5分の1になるんでないの?
 もう5分の1でも十分に稼げるようになったってことなんでしょう。
 岡崎体育様。5分の1でも十分な稼ぎになって、おめでとう。留学生の曲の最後にてっちゃんに「モンキーマジックに5分の4渡しても、痛くない。バンドざまぁみろ、バンドざまぁみろ」と言わせてみたらよかったのになあ。

<おまけおわり>

ぽかぽか春庭「広川法子リサイタル」

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20190620
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記夢音楽(3)広川法子リサイタル

 6月15日、代々木上原のムジカーザで開催された広川法子ソプラノリサイタルに出かけました。

 広川法子ソプラノリサイタル "愛の調べ ~ 水無月によせて" ピアノ:高野京子


 曲目リスト
アーン : クロリスに, 私の詩に翼があれば
前田佳世子 : 六月のうた, やがて生まれてくる子のための子守唄
和泉耕二 : かたくりの花, 南十字星...戦死した父へ, いのちの鎖
ショパン : 幻想即興曲
トスティ : 夢, 今ひとたび
チマーラ : 海の詩
朝岡真木子 : なぎさ, レンコート, だまって

広川法子さんは、武蔵野音楽大学を卒業。ミュージカルへの出演などで活躍。日本女子体育大学非常勤講師などを経て、現在は、桜美林大学オープンカレッジ多摩校でオペラを指導しているソプラノ歌手です。

 ご本人は、「私は晴れ女で、これまでたいていの大事な時、晴れて来たんですが」とあいさつなさっていたけれど、6月15日土曜日は一日中強い雨でした。
 初めての会場なので、方向音痴の私は安全策をとって早めについたので、代々木上原駅に戻って時間をつぶす。
 会場の代々木上原ムジカーザは、120席の音楽ホール。ホールはすてきな空間でしたが、受付がやや狭いのが難点。

 こじんまりとした落ち着いた空間でした。


 開演6時30分には満席に。あちこちでお知り合いのご挨拶が聞こえてきます。たぶん120人ほとんどは広川法子さんと何らかの繋がりを持つ方々と思われます。私は法子さんにお目にかかったのはいちどだけで、受付で来賓にご挨拶しているご主人からお知らせをいただき、奥さまのリサイタルに駆けつけた次第。

 歌手として活躍なさる奥さまのことを度々うかがってきました。歌に打ち込んでいる奥さまのお話しきくたびに、愛妻家だなあと思って来ましたが、受付でお客様ご挨拶なさる様子もかいがいしく、自慢の奥さまなのだろうなと感じました。私と同年代の男性だと、「うちの愚妻が」などと言いがちですが、歌をなかだちにして、夫婦の絆が深いのだろうと拝察。

 曲目のうち三人の作曲者が会場にいらっしゃいました。前田佳世子、和泉耕二、朝岡真木子さん。

 南十字星という曲、南方の戦線で27歳で戦死したお父さんを思う子どもの心を歌っていました。私の父も南方の戦線でかろうじて生き延びた一人ですから、出征したまま、帰国することなく南方でなくなったお父さんを偲ぶ歌、心にしみました。

 アンコールは、「この道」と「忘れな草」。

 方向音痴なのに、来たときは珍しく道を間違えませんでした。しかしやっぱり。帰り道、代々木上原駅で失敗の巻。ホームを間違えたらしく、小田急線下りに乗ってしまいました。下北沢とか豪徳寺という駅名が耳に入っても下り線だと気づかず、祖師ヶ谷大蔵でようやく「これは下りだ」と気づきました。

 娘に「電車間違えたから帰宅遅れる」のメールしたら、娘息子は、科学博物館の「哺乳類展」を見て、館内の精養軒で晩ご飯を済ませたとの返信。
 ガチャガチャで取ったクジラの絵の小さなビニールポーチ「母へのおみやげ」だそう。最終日前日の土曜日ですから、めちゃ混みだったそうですが、ふたりが楽しめたならよかった。

 成城学園前で、上り線へ。
 成城学園前の駅の内外、見覚えあると思ったら、そのはず。2年前には、週1回通っていた駅でした。

🎵この道はいつかきた道、ああそうだよ、おかあさーまーがー出稼ぎにきたみーちー

ぽかぽか春庭「カンテレ&馬頭琴コンサート森と草原の響き」

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20190622
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記夢音楽(4)カンテレ&馬頭琴コンサート森と草原の響き

 6月16日日曜日。会場1時半開演2時。北区田端ふれあい館ホールで、カンテレ&馬頭琴コンサートを聞きました。私の好きな無料コンサート。北区文化振興財団の主催で、ボランティアが進行を務めます。めったに演奏を聞くことのない馬頭琴とカンテラのデュオというので、楽しみにして出かけました。

 田端ふれあい館ホール


 ラウマは、2009年に結成。フィンランドの伝統楽器カンテレ(木の胴に張った弦を、指でつま弾いて奏でます)と、モンゴルの馬頭琴のデュオユニットです。ラウマは、フィンランドの世界遺産都市Raumaから命名。 

 デュオ:ユニット・RAUMA(ラウマ)画像借り物
・嵯峨治彦:馬頭琴。
・あらひろこ:カンテレ


  嵯峨治彦さんは、1971年青森県生まれ。大学進学時1989年から北海道居住。北海道大学理学部物理学科修士課程修了。宇宙物理学を専攻した異色のミュージシャンです。モンゴルの伝統歌唱法ホーミーを習得し、馬頭琴は、2001年にゴビ在住の遊牧民馬頭琴奏者ヨンドン・ネルグイ(モンゴル国人間文化財・第一文化功労者)から後継指名を受けた本格派です。ホーミーは、喉歌と訳され、のどの奥で共鳴させてふたつの音を同時に発声する、独特の歌い方をします。

 あらひろこさんは、1990年に北海道フィンランド協会の事務局を手伝い始めたことをきっかけに、カンテレという楽器を知り、5弦カンテレを弾き始めました。
1994年からフィンランドの民族音楽の地として知られる中西部の町カウスティネン(Kansanmusiikkiinstituutti)に一ヶ月滞在。またヘルシンキのシベリウスアカデミーにて、ハンヌ・サハ、シニッカ・ヤルヴィネン(コンティオ)らにカンテレとフィンランド民族音楽を学びました。帰国後、北海道を拠点に各地で演奏活動とカンテレ演奏指導を行っています。

 2時開演の前に、あらさんは、20分くらいかけて調律を念入りに行っていました。同じような撥弦楽器「楊琴」を中国の楽器屋さんで買おうとしたとき、演奏も簡単ではないが、調律がとてもむずかしい、と聞いて購入をあきらめたことがありました。あらさんの調律の丹念さを見ていて、私には無理だったと納得。チェコのチター、中国の楊琴などの撥弦楽器、とても好きな音色だけれど。

 調律中のあらひろこさん


 曲目リスト
・サリーガーデン:アイルランド伝統曲
・イェプアの行進曲:フィンランド伝統曲
・ハールガ:嵯峨治彦
・夏は来ぬ:小山作之助
・蚊取り線香とスイカ:嵯峨治彦
・茶摘み:唱歌
・夏のワルツ:アレ・メッレレ(スウェーデン)
・深い海:モンゴル伝統曲
・カルダクハマル峠:トカ・サルチャク(トゥバ)
・小さな空:武満徹
・トナカイの子守歌:マルティ・ポケラ(フィンランド)
・赤い鳥青い鳥白い鳥:成田為三・フィンランド伝統曲
・ナイト・フラワー:あらひろこ

 マイクを通してはありましたが、私は一番前の席でたぶん生の音を耳にできたと思います。カンテレはとてもひそやかな音でした。
 おふたりで曲目の解説をしながらの演奏。私はトゥバの伝統楽器チャンズの音色をはじめて聞きました。

 トゥバは、モンゴルと国境を接するロシア連邦内の共和国です。中国の清時代には「タンヌ・ウリャンカイ(唐努烏梁海)」と呼ばれて中国領土に編入されていましたが、ロシアと中国のせめぎあい、侵略の歴史を経て、現在はロシア連邦トゥバ共和国。バイカル湖の西に位置します。共和国内の7割がトゥバ族、3割はロシア人。

 モンゴルや中国内モンゴルの喉歌ホーミーと同じ、のどを共鳴させて二つの音程を発声する歌い方フーメイ(ホーメイ)があり、伝統楽器のてっぺんに馬の首がついているところも似ています。

 馬頭琴とトゥバの伝統楽器チャンズ
 

 チャンズは、ハート形の胴に三本の弦。中国の三絃から伝わったものが、日本(琉球)では三線(サンシン)、モンゴルでは シャンズ、 ロシア・バイカル湖あたりの チャンザ(チャンズ)となってそれぞれの伝統楽器になりました。

 馬頭琴のてっぺんについている馬の飾り。馬の下は龍が口を開けて、楽器を咥えています。


 ラウマはデュオとしての初CD「深い海」を発売中で、演奏後にはサインを入れながらCDを手売りしていました。私はCDを買わなかったのに、「馬頭琴を撮影してもいいですか」とお尋ねしたら、どうぞどうぞと撮らせてもらいました。

 フィンランドの夏の風、モンゴルやトゥバを渡る草原の音を感じられるようなすてきなコンサートでした。

 ひとつだけ残念なこと。わたしの右隣のおばさんは、嵯峨さんが曲の説明をはじめると、眼鏡ケースに入れてあったボールペンを取り出し、プログラムにメモを書き込む。それはいい。曲が始まって、カッチンという強い音をたててボールペンのふたをする。それからパッチンという音を立てて眼鏡ケースにボールペンをしまう。

 曲の説明のたびにメモ。そしてパッチン。私が隣だから気になるのだろうと思って我慢していましたが、コンサートが終わってから、私の左となりのふたりのおばさんが、「あの方、ひどかったわね。ご自分がすごい音だしているのは気にならないのでしょうけど、小さい子がちょっと声をだしたら、すごい顔でうしろ向いてにらみつけていたの」と、話し合っていました。ああ、あのパッチンが気になった人、私だけじゃなかったんだ。
 でも、幸いなことに、第2部がはじまったあと、パッチンのおばさんは気持ちよさそうに寝ていましたから、パッチンは、最初の一曲だけ。2部でもパッチンが続くようなら、ひとこと言ってしまうところでした。

 無料コンサートだから、いろんな人が聞きにくる。がまんも必要と思いましたが、次にこのパッチンおばさんを「まちかどコンサート」でみかけたら、近くに座らないように気をつけます。

<つづく>

ぽかぽか春庭「あじさい2019」

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 飛鳥山のあじさい

20190623
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記梅雨の晴れ間(1)あじさい2019

 6月16日。ひさしぶりに、飛鳥山公園とJR線路の間につづく「飛鳥の小径」を歩きました。

 私は、飛鳥山公園の自転車置き場に自転車を止めて、公園の崖をくだり、飛鳥の小径を往復しました。
 数年前にJR線路と飛鳥山公園の間にあった「戦後闇市」からそのままになっていた飲食店街が火事で焼け、残されている飲食店は数軒のみ。その先はずっと小さな路が続いています。JRの線路と公園の崖に挟まれた狭い道ですが、大勢のあじさい見物客でにぎわっていました。

 数年前とは様変わりの飛鳥の小径。なにが違ったかというと。日曜日の午後、歩いている人の半分以上が中国語を話していました。たぶん、インターネットか中国語の観光ガイド誌かなにかで紹介があったのだと思います。
 日本人観光客との写真の撮り方がちがうので、そばによってみると中国語会話が聞こえる、という具合。どう違うかというと。中国語の人で、花だけ撮影している人はほとんどいません。たいてい「美しい花とうつくしい私」という花に顔を寄せてポーズをとっている。

 自撮り棒やらスマホで撮りっこしているふたり組。


 お母さんと息子で来ていた中国人母子。お母さんは「美しい花と美しい私」の撮影に夢中で、息子が「まーま」と呼んでいるのを制して撮影を続けていました。

 さまざまな色合いのあじさい

 
 浴衣を着たモデルさんとあじさいを撮影している人も何組かいました。撮影会も開催されたようで、浴衣モデルさん3人のうち、ひとりだけ撮影を望まれていない人がいて、その人は腕組みをして退屈そうにしているので、ちょっと気の毒に思いました。

 すっごく露骨に言うと。退屈さんは、他のふたりに比べて美人じゃなかった。セクハラだとか職場のブス差別だとかいろいろあるだろうけれど、撮影会でのこのような露骨な差別を目にして、まあ、お金もらってモデルをしているのだろうから、これは差別とは言えないのか、と思いましたが。モデルもつらいね。

 撮影されていたほうのひとり


 いろんな人がいろんな眺め方であじさいを楽しんでいるようす。私も見ていて楽しかったです。
 女の子二人組が、あじさいの説明版を読んでいました。
「え~、ガクアジサイが日本古来種って聞いていたけど、このまるまっこい花のあじさいは、シーボルトが日本からヨーロッパに持ち帰った種を改良したものを、ヨーロッパから逆輸入したあじさい、だって。」「えっ、あじさいって、帰国子女だったのかあ」
 帰国子女という表現がおもしろいので、笑ってしまいました。

 原種のがくあじさい


 土曜日の強い雨があがったあとの日曜日の露の晴れ間。気持ちのよい公園の夕暮れでした。
 JR電車とあじさい


 飛鳥山公園からながめるタワーマンションと青空


 美しくない私も、「アジサイと私」を一枚。はじっこのほうで遠慮しているところがおくゆかしい、、、、、って、自分もうつりたがるのは、いつものことです。


 たびたびセルフコピーしているあじさゐについての春庭コラム。ぐぐってやってくる人が多い春庭コラムの中のひとつが、あじさゐの漢字表記について。
 何度目かのコピーをしようと思ったのですが、3度目か4度目になるので、さすがに何人かは記事を覚えていると思うので、読みたい方は下記URLをどうぞ。

 あじさゐの漢字表記がなぜ「紫陽花」になったのか、についての漢字考察です。

あじさゐその1
https://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/f55237cae23d3b8ac9930b66b9368e58
あじさゐその1
https://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/c8b35179bf36be8e454fb12e59ededf0

 <つづく>

ぽかぽか春庭「七十二侯・蚕起食桑」

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20190629
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>本朝七十二侯小満(4)蚕起食桑

 二十四節気ですと、1年を24に区切って季節を表しています。5月には立夏と小満のふたつの季節があります。6月には芒種と夏至。

 さらに、二十四節気をそれぞれ5日ずつ、1年を72に分けて季節を分類したものが七十二侯。中国から伝わったものですが、江戸中期の天文学者渋川春海らが改訂し、日本の季節と合わせた「本朝七十二侯」をまとめました。

 二十四節気の小満。七十二侯小満初侯は「蚕起食桑(かいこおきてくわをはむ)」です。
 中国の七十二侯では、初侯は「苦菜秀にがながよく茂る」ですから、これも渋川春海が本朝七十二侯を制定するにあたって、日本の風土をよく調べて決めたのだろうと思います。

 中国では紀元前3000年の大昔の遺跡からも、絹が出土しています。しかし、中国は養蚕技術を国外に持ち出すことを各王朝が固く禁止し、ことに秦の始皇帝は厳しく管理を行いました。しかし、日本へは、すでに弥生時代に養蚕技術がもちこまれていました。紀元前200年ころの遺跡から絹が出土しています。この絹は、中国製とは織り方が異なるので、日本でも養蚕がすでに行われ、絹織物が生産されていたと考えられます。

 桑を食むおこさま。(以下画像借り物)


 AD195年には百済から蚕種がもたらされされたことが記録されており、283年には渡来人、秦氏が養蚕と絹織物の技術をもって朝廷に仕えました。昨年、京都に滞在したとき、最終日程で松尾大社に参拝しました。秦氏が酒造り、土木、など新技術を日本に伝え、一種の文化大革命を起こしていたことをより深く知ることができました。養蚕においても、画期的な新技術がもたらされたことと思います。

 「日本書紀」の雄略天皇(5世紀後半)の巻に,「雄略天皇は后妃に自ら桑を摘ませ,養蚕を勧めようと思われ,国内の蚕を集めさせた」という記載があります。今から約1500年前に,天皇家が養蚕に関わっていたことがわかります。雄略天皇の記事が伝説の範囲であるとしても、古代より天皇家は養蚕に携わり、衰退期はあっても、明治時代の昭憲皇后、大正の貞明皇后、昭和の香淳皇后が養蚕を伝統として伝えてきました。

 ことに平成時代、美智子皇后(現・上皇后)は、養蚕に思いが深く、市場では生産されなくなった小石丸という蚕種を育て、正倉院御物の修復用絹糸として唯一のものとして利用されたことが知られています。(その後、小石丸を復活している養蚕農家も出てきました)
 蚕は5齢の脱皮が終わると上蔟します。上蔟とは、熟蚕(成熟した蚕)を集めて藁製の蔟(まぶし)に移すこと。蚕は48時間糸を吐き続け、さなぎになるために繭を作ります。

 ときに、繭の中にいる蚕が糸を吐く動作を中断することもあります。
 美智子上皇后の御歌
 時折に糸吐かずをり薄き繭の中なる蚕疲れしならむ
 繭の中で蚕が疲れているのではないかと気遣う、なんと繊細な心をお持ちの方であろうか。

 江戸時代には、養蚕は藩の財政改革のために日本各地で奨励されました。養蚕技術の改革もあり、幕末には、日本から西欧への主要輸出産業のひとつになりました。

 群馬県では江戸時代から、養蚕を担う働き手として女性が活躍し、夫は「うちのかかあは天下一」と、自慢し合いました。

 明治5年に富岡製糸場が創業したあとも、農家の女性たちは、繭から糸を繰り出す技術(座繰り繰糸)技術向上をめざしました。また、永井いと(1836-1904)らが永井流養蚕法伝習所を設立し、養蚕技術の普及につとめました。
 いとの指導のひとつに「農家の財布の紐はかかあが握るべし」という教えがあります。繭や絹糸を業者に販売する場も女性がとりしきり、女性が現金収入を得ていた風土が生み出したことばです。「かかあ天下」というのは、夫が妻を誉めるという以上に、女性が仕事を持ち現金収入を持つという風土によることばなのです。

 群馬県は最近の統計でも、全国の養蚕農家数の4割、生産数の3割を占める養蚕県ですが、出荷数も養蚕農家も、年ごとに減っています。後継者不足はどの農業も同じ。

 最盛期1930年代日本の繭生産量は、40万トン、世界一の量でした。しかし、現在の国内繭出荷量は、農水省2015年の統計で、年間130トン。養蚕農家の数は、2016年に349軒。

 往時の一面桑畑、という光景を知る者にとっては、2016年には全国の養蚕農家数は349戸という養蚕の衰退は、残念なことですが、これも時代の変化でしょう。

 かっては一面の桑畑が広がっていた上州。
 上州の広い桑畑画像みつからず、↓は、九州の桑畑写真をお借りしました。


 群馬県の地図、私が子供のころは、上州の地図に広がっていたこのマーク。

 桑畑の地図記号です。今は、このマークで示さなければならないほど桑畑が一面に広がっている土地はないみたい。で、古戦場、牧場、塩田などとともに、2万5千分の一地図からは消えています。

 しかし、「上州安中座繰製糸所・蚕絲館」のように、上質の絹生産すべく養蚕を続けている人もいます。手作業の養蚕製糸は、手間がかかる割に収入は少ないですが、志ある人が養蚕を続けているのは、うれしいことです。
 蚕絲館は、和歌山出身の東宣江さんが運営しています。染色を学んでいた東さんが、2005年から15年、群馬の地で養蚕製糸を行っている製糸所、養蚕ワークショップもやっているということなので、次回安中に行ったら見学したいです。

 私が女子高クラスメートやっちゃんの案内で、群馬県の養蚕製糸産業の地を巡ったのは、2015年のこと。

絹産業近代化遺産・田島弥平旧宅
https://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/dc5b551d9336aecb4c68a20b5b982a13
絹産業近代化遺産・田島武平家&高山社跡
https://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/2423bb063b25dd82d7617e075cc404e8

 目的地であった富岡製糸場にはまだいけていないので、そのうち、またやっちゃんと。

 絹をとるための蚕。「はるご」「なつご」と「あきご」の3回。一般的農家では、はるごとあきごの2回、養蚕が行われます。
 渋川春海が小満の初侯に「蚕起食桑」をあてたのは、もっとも良質の絹がとれる「はるご」が桑を食べ始める時期が新暦の5月初旬であったからです。

 母の実家が、1950年代までは養蚕をしていました。おばあちゃんの家に行くと、家の中で蚕が飼われているのを見ることができました。養蚕を日常作業として見ることができた最後の世代です。おばあちゃんが亡くなると、鉄道員をしていた叔父の奥さんは、重労働であった養蚕をやめました。
 蚕が桑をはむ音は、さわさわと静かな音の中にも盛んな生命力を感じさせる、私にとって「生涯で味わったよい音」のひとつです。

 さて、蚕は、他の家畜と大いに異なる点があります。馬や牛は、草があるところに放たれれば、野生化して生きていくことができ、子孫も増やします。
 しかし、蚕は完全に人間の手による飼育下で開発した生き物であり、自然下では生き伸びることができないのです。蚕を桑畑に放して、桑の葉の上にのせてやったとしても、桑の枝を移動できず、一枚の葉っぱを食べつくせば、他の桑の葉を食べることができないので、数日後には全滅。人間が手厚く保護をしてやらなければ、生きることができない昆虫なのです。
 養蚕という産業は、自然相手の仕事のように見えて、実は人工の農業です。野菜工場で人工的に水耕や人工照明によってトマトやレタスを育てるのと似ています。

 「蚕起食桑」という季節のことば。実は自然を描写したのではなく、人間の営みを表した季節の語です。「麦秋至」も、人が野生の麦を改良しながら五穀として大切にしてきた麦を人の手が収穫するとき。
 人は自然の中にいたいと願うことが多いですが、その「自然」の多くは、「人が作り上げてきた自然」という部分も多いことを、養蚕のことから考えました。

 自然とは、人がその中でリラックスしたり楽しみを得ることのできるヤワなものではありませんでした。自然を相手に闘い続けなければならない、というのが現生人類5万年の営みであり、「自然を楽しむ」なんてことが庶民にできるようになったのは、たかだかここ100年ほどのことじゃないかと思います。

 二十四節気の小満。小満を3侯に分けた本朝七十二侯の「蚕起食桑」「紅花栄」「麦秋至」について、思いめぐらしました。
 俳句の季語とも違う、七十二侯の季節感。これからも折にふれて七十二侯のことばをめぐってみるのも楽しいと思います。

<つづく>

ぽかぽか春庭「本朝七十二侯・紅い花」

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20190627
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>本朝七十二侯小満(2)紅い花

 季節のことば。
 二十四節気、5月は立夏と小満のふたつの季節があり、本朝七十二侯でさらに分けられること、前回お話ししました。
 小満は「蚕起食桑=蚕が桑をはむ」「紅花栄=べにばなさかう」「麦秋至=むぎのとき至る」の3季に分かれます。それぞれ5日ずつ。

 蚕は、盛んに桑を食べる時期であるし、麦は実りのとき。しかし、紅花が咲き誇る、というのは、少々季節はずれと思います。

 江戸時代にできた本朝七十二侯ですと「紅花」は、コウカと読まれており、「べにばな」という読みになったのは、明治以降なのだそうです。
 ベニバナと解釈すると、季節が合わなくなります。

 日本で染料として使われてきた紅花は、6月中旬以後、7月の暑い時期に花が盛りとなります。エジプト原産の花ですから、暑い季節が好きなのです。

 江戸時代、ベニバナ最大の産地は山形県です。(現在も)
 ベニバナの咲き初めは7月はじめ、半夏生のころに、一つ目の花がようやく咲き出すというところでした。
 二番目の産地桶川宿の「桶川臙脂」の花は、山形より暖かいので半月早く6月中旬には咲き出します。花の盛りは


 明治時代に一度すたれ、ここ10年で町おこしブランドとして復活した桶川のベニバナ。現在桶川市が実施している桶川ベニバナ祭りは6月下旬です。花が咲く時期が早いという桶川でも満開は6月下旬と言うことから考えても、5月中旬の「紅花栄」には当てはまりません。
 桶川のベニバナ畑(画像借り物)


 「紅花栄」を小満次候に設定したのは、「本朝七十二侯」編纂を主導した渋川春海です。岡田准一が春海を演じた「天地明察」でも、春海は几帳面にまじめに天文と向き合っていましたから、もし、紅花を染料につかう黄色い花をつける植物だと知っていたなら、5月の気候に当てはめないでしょう。それとも春海は紅花を知らなかったか。彼なら、それこそ紅花の産地まで出向いて真実を追おうとしたことでしょう。

 江戸時代桶川宿はベニバナ産地として知られていました。桶川のベニバナ栽培は1795年から。渋川春海(1639-1715)の没後のことですから、春海が紅花を知るには山形まで足を延ばさなければなりませんが、暦の正確さを求めて歩いた春海の脚なら江戸から遠い山形まで出かけたのではないか。山形で実際に紅花を見たのなら、「紅花栄」を5月初旬にはしていないはず。

 江戸は元禄時代、奥の細道を歩いた芭蕉(1644-1694)が「もがみにて紅粉(べに)の花の咲きわたるをみて」という前ことばで読んだ一句
  眉はきをおもかげにして紅粉の花
 
 曽良の克明な記録によれば、この句が読まれたのは元禄2年(1689)の旧暦5月27~28日。この年のこの日を現在の暦に換算すると、7月13~14日にあたります。
 現在と同じく、江戸元禄のころも紅花は7月の暑い時期に咲いていたんです。もし渋川春海が紅花を実見していないとしても、「紅粉(べに)の花」について博物学的知識を持っていたと思われます。
 渋川春海が、紅花の咲く時期を知らずに「紅花栄」という季節の言葉を太陽暦の5月(旧暦だと6月ごろ)に使ったとは考えにくいです。

 春海が「コウカ」と音読みにしたところから考えて、漢方薬につかう「紅花=コウカ」とは考えられないか。いやいや、本朝七十二侯のほかの季節は、それぞれぴったりの時期の動植物が使われており、ここだけ漢方薬というのも不自然です。

 春海は、立春(太陽暦2月旧暦1月)の次侯を「黄鶯睍睆うぐいすなく」としています。中国の七十二侯では「蟄虫始振こもっていた虫が動き出す」となっており、日本の自然とあわないからです。春海は3月啓蟄の初侯に「蟄虫啓戸すごもりむし戸をひらく」としています。春海は、日本の自然をよく観察し、実際の気候と暦が合うよう工夫して日本の七十二侯を編集しました。

 残るは、「紅花」を染料や漢方薬に使うベニバナではなく「紅い花」という意味で使ったのではないか、という考え方。

 ベニバナは、万葉集が編纂される少し前に遣隋使などによって日本にもたらされました。
 万葉集に「紅い花」を詠んだ短歌長歌があります。

・(万葉仮名)外耳 見筒戀牟 紅乃 末採花之 色不出友 (巻十 詠人知らず)
外(よそ)のみに見つつ恋ひなむ紅の、末摘花(すえつむはな)の色に出(い)でずとも

 この末摘花は紅花のことだと解されています。

しかし。
・(万葉仮名)桃花 紅色尓 々保比多流 面輪乃宇知尓 青柳乃 細眉根乎 咲麻我理、、、、 (巻十九 詠人知らず 長歌の冒頭部分)
桃の花、紅色ににほひたる、面輪(おもわ)のうちに青柳の、細き眉根(まよね)を咲みまがり

 桃の花。現在では、桃色といえばピンク色のイメージが強いですが、真っ赤に近い花が咲くモモの花もあります。万葉集の時代、どんな色の桃が咲いていたのか調査行き届きませんが、少なくとも巻十九の「桃の花」に「紅色に匂いたる」と使われているのは上記のとおりで、紅色の花=紅花というわけではなかったことがわかります。

 で、渋川春海は、どの花をさして5月に咲く花を「紅花=コウカ」と呼んだのか。一説にはツツジです。5月、江戸時代に町にも山にも赤く輝いて咲いていたのは、ツツジの花。

 小石川植物園5月のつつじ


 むろん、さまざまな説があってよい。春海が「ベニバナは5月に咲く」と思い込んでの七十二侯だったという説もありかもしれないし。
 わからないけど、知りたい。 
 わからぬことを知りたいと思う気持ち、脳活です。

 こんな脳活できたのも、息子が上野公園散歩したとき、衝動買いでサツキの花を買ってきたからです。
 さつきフェスティバルが開催されていたのだそうです。これまで「植物を買うなどということを自分でしたことのない歴30年」の息子です。小学生の夏休みの宿題「朝顔」だって枯らしてしまった、植物縁のない息子でしたから、びっくり。

 息子、ベランダに鉢を置きました。「買ったとき、日がよく当たる場所に置け、って言われた」と。
 今年になって毎月2回ディズニーリゾートに泊まりに出かけている娘息子。6月も一泊二日と二泊三日のお泊まり。お泊りしている息子からのお願いメールが来ました。
 めったにメールよこさない息子なので何事かと思えば、「花に水やってください」とのこと。はいはい、息子の大事なお花様、ちゃんと母の愛を注ぎます。

 「ぽかぽか春庭 紅花」でぐぐってみたけど、出てこなかったので、ベニバナについて書いたのは初めてかと思っていたら、2016年に書いていました。書いても即効忘れるんです。「ぽかぽか春庭 ベニバナ」で出てきました。

https://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/404e566a6c09907de5106a9f19a06688

(おわり)

ぽかぽか春庭「七十二侯・麦秋」

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20190629
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>七十二侯小満(3)麦秋

  二十四節気ですと、1年を24に区切って季節を表しています。5月には立夏と小満のふたつの季節があります。6月には芒種と夏至。

 さらに、二十四節気をそれぞれ5日ずつ、1年を72に分けて季節を分類したものが七十二侯。中国から伝わったものですが、江戸中期の天文学者渋川春海らが改訂し、日本の季節と合わせた「本朝七十二侯」をまとめました。

 本朝七十二侯ですと、小満は「蚕起食桑=蚕が桑をはむ」「紅花栄=べにばなさかう」「麦秋至むぎのとき至る」の3季に分かれます。 小満。蚕は、盛んに桑を食べる時期であるし、麦は実りのとき。
 どちらも、特別に心掛けていないと、日常の風景としては縁遠い季節の言葉になっています。第一、二十四節気や本朝七十二侯の季節のことば、小満も芒種も、さて、これらの語を意識して季節を感じている人、現代ではどれほどいるのやら。

 「麦秋」というと、小津映画のタイトルが思い浮かびます。(菅井一郎東山千栄子の老夫妻が、末娘紀子(原せつ子)の結婚話が一段落して、故郷の大和に帰ったラストシーン。老夫婦がしみじみ語り合うその前には、豊かに実った麦の穂が広がっています。

・原節子小津安二郎麦の秋>吉田汀史 
 固有名詞並べただけやん!の俳句ですが、ちゃんと季語が入って、ある世界をイメージさせるのですから、五七五の世界は強い。

 テレビの旅番組を見ていたら、群馬県の麦畑が写されていました。火野正平が館林の多多良沼へ自転車で向かう途中にも、一面の黄金色の麦畑が映りました。火野正平さん、私より少し早く、この5月に古希に。
 群馬県は典型的な二毛作地帯。田植えの前には麦が黄金色に広がるのが、私の原風景です。コメもとれないことはないけれど、日常の食事に小麦のうどんは欠かせませんでした。 
 私の中には「麦秋」は原景として残されていますが、娘息子にとっては、「麦秋」は、国語のテストで季語の季節を選ぶ問題、小春日と麦秋が「ひっかけ」季語だということ以外に実感のないことばになってしまっています。(小春日和、小春日は冬、麦秋は初夏)

・麦秋を俯向き通る故郷かな>永田耕衣 
 今年もふるさとの女子高クラス会に出席できませんでした。みなで古希を祝おうという案内状がひさえちゃんから来ていましたが。俯くこともないけれど、着ていく服もない。

 赤城山のふもとの麦秋(画像借り物)


 以下、江戸明治大正昭和の麦秋。ばくしゅうだと4音節なので、切字がつくことが多く、麦の秋だと5音節でおさまりがいい。

・深山路を出抜てあかし麦の秋>炭太祇(1709-1771)

・麦秋のくたびれ声や念仏講>高井几董(1741-1789)

・麦秋や子を負ながらいはし売>小林一茶

・麦の秋さびしき貌の狂女かな>与謝野蕪村

・麦秋や中国下る旅役者>正岡子規

・鞭鳴す馬車の埃や麦の秋>夏目漱石

・麦秋や麦にかくるる草苺>芥川龍之介

・古着屋のうらに乏しき麦の秋>三好達治 
 猫の額ほどの庭でも実れば足しになる

・麦秋の雨のやうなる夜風かな>田中冬あ二  
 夜更けに麦畑を渡る風を聞いていると、さわさわと、雨の音のように聞こえたことを思い出します。

・麦秋や若者の髪炎なす>西東三鬼
 三鬼が生きていたころは、まだ町中に炎の色の髪をした若者はそうはいなかったと思うので、この「炎なす」は、若者の燃え立つ若さの髪でしょうか。

・はるかなる丘に狂院麦の秋>山口青邨 
 気ちがい病院、癲狂院,脳病院、呼び方は変われど、自分たちとは異なる世界と思われていた場所をはるかにのぞむ。

・麦秋の日陰流れて軒の旗>内田百間

・麦秋の狐独地獄を現じけり>安住敦 

・麦秋の中なるが悲し聖廃墟>水原秋櫻子 
 浦上天主堂を見ての句。

・麦秋やここなる王は父殺し>有馬朗人 
 シェークスピア劇でもあろうか。

 「麦秋」の一語でさまざまなイメージが去来します。 
 さて、毎年同じことを言いますが、あっと言う間に2019年も半分終わり、来週からは後半です。後半も、毎年同じ「暑いあつい」と言って後半初めの2ヶ月はすぎてしまいますが、涼しくなるまで、春庭コラムは漢字についての再録シリーズとなります。
 暑いあいだも春庭、しっかり働いております。

<つづく>
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