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Channel: 春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典
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ぽかぽか春庭「天の祭・銀盤に咲く花」

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2014/02/16
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記2月光の春(1)天の祭・銀盤に咲く花

 「雪」   堀口大學
雪はふる! 雪はふる!
見よかし、天の祭なり!

空なる神の殿堂に 冬の祭ぞ酣(たけなわ)なる!
たえまなく雪はふる、をどれかし、鶫等(つぐみら)よ!
うたへかし、鵯等(ひよどりら)!ふる雪の白さの中にて!

いと聖(きよ)く雪はふる、
沈黙の中(うち)に散る花瓣(くわべん)!
雪はしとやかに 踊りつつ地上に来(きた)る。

雪はふる! 雪はふる!
白き翼の聖天使!

われ等が庭に身のまはりに ささやき歌ひ雪はふる!
ふり来(く)るは恵(めぐみ)の麺麭(パン)なり!小さく白き雪の足!

地上にも屋根の上にも いと白く雪はふる。

冬の花瓣の雪はふる!
地上の子等の祭なり!

 東京に「冬の花弁」の雪が降る中、ソチでは見事、金色の花が咲きました。羽生選手、堀口大學がうたう「白き翼の聖天使」のようでした。

 2月15日午前1時から4時まで、テレビ観戦。東京しんしんと雪。
 羽生結弦選手の金メダル、すばらしかったです。町田選手5位高橋選手6位入賞も立派な成績だと思います。特に高橋大輔は、右膝に故障を抱えての挑戦でした。完全に怪我を治してからの演技を披露したかったことでしょう。

 フィギュアスケートは、昨年9月のグランプリシリーズ開始から、放映された全試合全選手の演技をすべて見て、徹底応援。娘と息子は、テレビにはなかなか演技を写してもらえない世界の選手までよく知っています。私は昨年末の日本選手権をさいたまスーパーアリーナで観戦できたので、出場選手表をもらって、30位くらいまでの選手の名を知りましたが、世界ランキング30位は誰?と聞かれてもわかりません。世界フィギュア男子の30位あたりというと、なかなかテレビで演技を放送してくれないからです。

 私はこれまでテレビでも見たことがなかったのですが、今回のソチオリンピックでがぜん注目したのが、ミーシャ・ジー(Misha Ge、ウズベキスタン)です。合計203.26点で17位と、検討しました。派手な衣装とボイス入りの音楽(これまでの試合ではマイナス1点となっていたけれど、今回のソチでは歌詞ボイスではないと判断され、マイナスはなし)を使った自身の振り付けによる個性的な演技がとても目立ちました。

 中国韓国の血も混ざっているロシア生まれですが、現在はウズベキスタン選手として登録されています。ソチでは黒髪を紫がかった赤に染めて登場。「オリンピックは競技なのだから、派手なことがやりたければ、アイスショウでやったらいい」という批判もあるそうですが、私は、ジーの個性、いいなあと思います。真面目に技術を磨く個性があってもいいし、ジーのように「減点されてもかまわないから、ボイス入りの曲が気に入ったのだから、それを使う」という個性も好き。

 私は、演技全体の雰囲気や美しさを楽しむ、芸術点本位に見るだけなので、ジーの派手な演技、おもしろいと思いましたが、スケートを競技として見る娘と息子は、技術点などをチェックし、「あ〜あ、ここがアンダーローテーション取られなくて、クリアに着氷できていれば3点UPして、メダルに届いていたのに」なんぞと評しながら見ています。私にはサルコーやルッツなどの種類の別も定かではないけれど、回転に入る構えの姿勢だけで、どの種類を飛ぼうとしているのか、わかる娘と息子に技術面のことを教わりながら応援しています。

 今回一番残念な人は、「のぶなりっていたフェルナンデス」だって。フェルナンデスは、演技構成を変えて4回転を回避したのに、同じ3回転サルコーを2度飛んでしまったために、最後の回転は0点になりました。そのため、3位のデニス・テンには1.18点及ばず4位。
 同じジャンプを跳んでしまうミスは、かって織田信成がよくやったので、我が家ではこのミスのことを「のぶなる」と呼んでいるのです。

 悔いの残る人、力を出し切って自己ベストを更新し大喜びしている選手、それぞれの思いはあるでしょうが、それぞれが自分の色の花を咲かせてほしい。女子フィギュアも応援します。徹夜で。

<つづく>

私の好きなタレパンダ・春眠に限らず暁を覚えず

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2014/02/18
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記2月光の春(2)私の好きなタレパンダ・春眠に限らず暁を覚えず

 41歳の葛西選手、ジャンプ銀メダル、すごい!
 7度目のオリンピックというだけでもすごいと思っていたのですが、銀メダル獲得とは、ほんとうにすばらしい。「次は金を狙う」という葛西選手のコメント、何もしないうちに「もう年だし」と諦めている私にカツを入れてくれました。

 とは、言っても、明日からがんばりますから、今日のところは、だらっとタレていたいと思います。
 だらっとタレているパンダも好きなんです。

上野動物園のパンダ。↓のたれているパンダ、メスのシンシンだったかオスのリーリーだったか、忘れてしまいました。上野動物園、美術館散歩のついでにふらっと立ち寄ります。美術館入館割引の「ぐるっとパス」に上野動物園の入場券も含まれているので、どうせならチケットを使わないと損、といういじましい精神で、ひとり動物園見物をよくするのです。

 美術館を見終わって、まだちょっと時間がある、というとき閉館間際の動物園に飛び込みます。閉館間近に寄ると、人気のパンダ舎にも行列はいなくなって、ゆっくり見ていられます。


 ウェブ友くちかずこさんの作品、シャドウボックスの「タレパンダ・春眠に限らず暁を覚えず」です。
 

 春庭も春眠に限らず、「毎日が暁を覚えず」のタレHAL生活ですけれど、でも、パンダのタレぐあいを見ていると、うん、こんなふうにタレているのもまた良きかな、と、安心気分。
 伝説のジャンプの鉄人「レジェンド・カサイ」もすごいけれど、私はやっぱり春眠に限らず暁を覚えない生活が似合っているかな?

 16日日曜日は、くちかずこさんとのOff会、楽しい一日を過ごしました。三菱一号館でのオフ会報告はまたのちほど。
 シャドウボックス教室の先生でもあるくちかずこさんの傑作の数々はブログ「しろつめ楚々くちかずこ姫のお部屋」でも拝見してきたのですが、そのうちのひとつをいただきました。感謝!みていると心なごんでくる作品です。

 春庭ヘタレ生活、女子フィギュアも生中継応援するし、当分「暁まで眠らずテレビ応援」の日々が続きます。

<つづく>

ぽかぽか春庭「東京の大雪」

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2014/02/18
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記2月光の春(3)東京の大雪

 2月毎週毎週、雪が降り14日15日は記録的な大雪。被害も相次ぎました。
 まだ2月8日土曜日の大雪では、久しぶりの大雪に、足元を心配しつつもみなが雪に浮かれている気分もありました。



 私も、10日朝、キャンパスの中の芝生の上、まだ足跡のついていないあたりを踏みしめて足跡をつけながら歩いてみました。凍った道だと危なくて歩くにも慎重にしんちょうにとなりますが、芝生の上の雪なら転んでも骨折にまで至らないだろうと思っての浮かれ歩き、長靴ではなくいつものウォーキング用スニーカーだったので、足が濡れました。でも、楽しかったです。雪合戦に興じた子供時代も、息子娘に小さな雪うさぎを作ってあげた子育て時代も遠くになりましたが、雪がうれしい気持ちがはまだまだ残っています。

 8日の雪には、まだ「大はしゃぎ」の気分だったのですが、14日金曜日から15日の朝にかけての大雪には、もはや「降り振りすぎだよ」という気分。

 線路も雪におおわれて


 雪国の人は「この程度で首都機能がマヒするなんて、弱っちい」とおもうでしょうが、ほんとうに雪が降るとすぐに高速は渋滞、新幹線は止まる。
 雪でブレーキがきかず、東急線で電車追突事故。湿った雪の重みで体育館の屋根が崩落するという事故も起きました。

 15日、町内ひとめぐり。町内の雪かき状況はというと。お店や一戸建て住宅の前は、みなが雪かきに励んでいました。「あの家の前の雪かきがしてなかったから、ころんで大怪我をした」なんてご近所のうわさになるといやだから、みなせっせと雪をどけていました。しかし、マンション裏とか、だれがこの雪の責任を負うのかというのがはっきりしていない道では、だれも雪かきなどしていない。都会というのはそんなもんだろうと思います。

 都会の雪をみながら、中原中也の詩を一篇。「汚れっちまった悲しみに」   

汚れっちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れっちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる

汚れっちまった悲しみは
たとえば狐の皮裘(かわごろも)
汚れっちまった悲しみは
小雪のかかってちぢこまる

汚れっちまった悲しみは
なにのぞむなくねがうなく
汚れっちまった悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢む

汚れっちまった悲しみに
いたいたしくも怖気づき
汚れっちまった悲しみに
なすところもなく日は暮れる

東京都下のキャンパスに残った雪


<つづく>

ぽかぽか春庭「ハッピーバースデイ89回目」

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2014/02/19
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記2月光の春(4)ハッピーバースデイ89回目

 2月4日節分の日は、姑の89歳誕生日を祝ってお食事会。姑の誕生日は7日なのですが、7日は私が仕事に出る日なので、4日に前倒し。ランチを食べてお祝いしました。
 姑希望の駅前フレンチの店へ。姑があまり和食好きでないのを知っていて、これまでお祝いごとには中華の店を選ぶことが多かったのですが、一度駅前フレンチの小さな店に入ったら、すっかり気に入ってしまい、「お誕生日もあそこがいい」というので、食べに行きました。2階の店へ入るのに、エレベーターがなく、足元が弱っている姑を連れて上がるのが一苦労ですが、娘息子が介護して席につきました。

 誕生日プレートに「Happy biruthday ゆきこさん」とチョコで書いてもらいました。メインは各自好きなものを頼むというコースで、デザートのピスタチオクリームのロールケーキもおいしかったです。

前菜

ポタージュ
姑のメインはお肉、私のメインは魚
デザート

 2月11日、夕方姑の家へ。3時ごろまで姑とすごした夫とすれ違い交代。大根人参こんにゃくの煮物と、ブロッコリーとトマトのサラダを作って帰る。私が行けるのは休日しかないけれど、姑は病院通い歯医者通いをしながらも、一人暮らしを続けています。
 寒いさむいと言って、雪だるまのように着膨れしている姑。エアコンやガスストーブは嫌いで、一番好きな暖房は昔ながらのこたつ。年をとればとるほど、新しいものは受け付けなくなっていて、昔風の生き方を続けたがります。
 「こたつで昼寝」が一日のうちの一番大きな仕事です。

 料理はすきじゃないHALですが、2月18日には豚肉の煮物を作りました。「冷蔵庫の中のタッパにまだ入っていますから明日も食べてね」と、いうのですが、姑は、冷蔵庫の中に入っていることを忘れてしまうこともあるのです。

 少量の服でも一日に2回も3回も洗濯機を回すのですが、どうしても昔ながらの手動二層式洗濯機を使い続けたいと言うのです。「全自動に変えたほうが水が節約できるから」という意見を受け入れません。そして、すすぎ水を流していることを忘れてしまうので、一晩中、水を流しっぱなしにして、水道代が一ヶ月に4万円とか5万円になって、一昨年の夏以来、全自動洗濯機の数台買えるくらいの水の無駄遣いをしています。

 それでも「死ぬ前には食欲が衰えるって聞いたけれど、私、すぐおなかがすいていくらでも食べられるから、まだ死なないわね」といいながら、豚肉の煮物で夕食を食べたあと、夫が来たら「いっしょに焼きおにぎり食べよう」と言って、もういちど夕御飯を食べていました。まあ、息子といっしょに食べたいのでしょうけれど。

 娘がいうには、「毎回病院の行き帰りに付き添って介護しているのは私なのに、おばあちゃんはお父さんが一番かわいいみたい。お父さん、薬の管理をするだけで、あとはなんにもしてくれないのに。世の年寄りって、子供よりも孫をベタ可愛がりするって聞くのに、うちのおばあちゃんは、孫を猫可愛がりするってことがなかったね」

 足が弱ってからは、習いに通っていた書道教室も童謡を歌う会も詩吟もみなやめてしまって、病院通いとデイサービスの体操教室のほかは出歩かなくなってしまいました。ああ、年寄りはこうやってひとつずつ社会との接点を失っていくのかと、これからの老いの行くすえの参考になりますが、洗濯機のこともそうですが、いっさい新しい物、新しい考え方を受け付けなくなってくるようすを見ていると、年を取るって寂しいことだなあという気になります。

 70歳からスキューバダイビングをはじめたれに・リーフェンシュタールとか90歳から詩を書き始めた柴田トヨさんはやはり例外なのでしょうか。
 私は、毎年何かしら新しいことに挑戦していきたいと今は思っているのですが、心身気力衰えればそうも言っていられなくなるのかも。少なくとも、89歳の姑が、最後まで「私は、家族に恵まれて幸せだ」と言うのを聞いていたいと思います。

<つづく>

ポカポカ春庭「如月の空」

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2014/02/22
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記2月光の春(5)如月の空

 国立大学の授業も全部終わったけれど、日本語教科書改訂作業が残っています。中国で使用する中国語版の日本語初級教科書と、日本で使う「アカデミックジャパニーズ」というのと、2冊同時進行なので、ちょっときつい。仕事がきつい日程でも遊び回りたいし、テレビは見たいし。

 フィギュア女子の応援をしながら、教科書を執筆し、その下書きをまおちゃんのショートが終わった4時半にメール添付で送ったら、「徹夜で仕事なさったのですか、すみません」という返信をもらいました。こちらこそ、フィギュアの合間の日本語教科書で、すみません。

 まおちゃん、フリーの最後まで、せいいっぱい応援しました。バンクーバー以来、浅田選手がどれほどの努力を重ねてきたかを4年間ずっと見続けたファンとしては、「あの子は大事なところで必ずころぶ」なんてことを言う、アホ元首相の首を絞めてやりたい。選手の心を汲み取れない人にオリンピックに関わってほしくない。

 ジュニア選手の時代からずっと見てきた浅田真央選手。まおちゃんの努力する姿から、たくさんのすばらしい宝物をいただきました。21日午前のまおちゃんのフリーの演技、終了して娘も息子も涙ぐんで、自己ベストの演技をたたえました。ありがとう、まおちゃん。これからも応援するよ。

如月のロシアの空に燃える火を飛べ跳べ翔べと祈りつつ見る(春庭)

 ソチオリンピックの月。我が家、メインはフィギュアスケートですが、娘息子はジャンプもスキーもスノボも複合も全部応援しています。
 深夜、息子娘といっしょになって開会式前のフィギュアスケート団体戦の応援からはじまり、開会式もリアルタイムで全部みました。3時までテレビ見ていて、5時には起きて6時半には家を出て仕事へ、そりゃ一日中眠いはずですよね。午前中の授業を終え、午後、学生が提出した宿題のチェックをしながら居眠りしてました。何やってんだか。ま、授業はなんとか終わったし。

 19日は、竹内智香選手のスノーボードパラレル大回転を応援。見事銀メダルを獲得。ジャンプ団体銅メダル、スキーフリースタイルハーフパイプで小野塚選手銅、など、つぎつぎにメダリスト誕生。みなよくがんばっていると思います。

 フィギュア団体はよく健闘して5位。高橋成美木原龍一組、ペア結成1年でよくここまで成長できたと思います。ジャンプの高梨沙羅選手は惜しくも4位、スケートボードハーフパイプの平野歩夢選手銀メダル平岡卓選手が銅メダルなど若い選手が活躍していて、テレビ観戦に力が入りました。カーリングも5位。よい試合でした。

 メダルに届かなかった選手もそれぞれに健闘してきたのです。それぞれの努力に対し、敬意を表し、選手をせいいっぱいたたえたいと思います。

 国民をあきれさせて首相をやめた過去を持つあの方、今後も失言を繰り返すであろうことは想像にかたくない。国際社会で恥をかかないうちにオリンピック委員長なんぞはやめてもらいたい。

<つづく>

ぽかぽか春庭「東京駅オフ会ビジョ×2」

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2014/02/23
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記2月光の春(6)東京駅オフ会ビジョ×2

 私のサイト、そもそも読んでくださる方はごく限られた人たちですし、みなそれぞれの事情を抱えているので、なかなか「オフ会」という機会もなかったのですが、くちかずこさんとのオフ会が実現しました。
 くちかずこさんの娘さんも長男さん次男さんも東京方面にいらっしゃるので、何かと東京に出てくる機会が多くなったとブログでは在京日記を拝見していましたので、次に上京なさる折、お目に掛かりたいと思っていたら、「思っていれば願いはかなう」です。

 しかし、ちょっとためらいもありました。日頃知ったかぶりで書き散らしていても、実際に会ってみれば、私の浅薄非才パープリンはたちまちバレるので、会ってのち「なんて馬鹿なやつだ」と思われたらどうしようと。おまけにこの体型このご面相。美女と出会うには勇気がいります。

 くちかずこさんのお顔は、ご自身の写真も娘さんとのツーショットだったり、ご主人とのラブラブ写真だったり、西の美女ここにあり、と知っていました。私は「夜目遠目」の写真公開しかしていないので、私がくちかずこさんを見つけるという約束だったのですが、東京駅のホームでもたもたしているうち、「春庭さ〜ん」と、声をかけていただきました。

 そして、会ってみれば、たちまち十年来の知己のごとし。
 30年も隣に住んでいるおとなりさん、未だに趣味など知らぬ朝夕の挨拶するだけのおつきあいという団地に住んでいるので、私にとっては、ブログを通じて家族の事情から趣味、どこに旅行に行ったか、何を食べたかまで、逐一知っているブログ友達のほうが、親しいトモであるのです。

 いっしょに2012年に復元成った東京駅の見物をしました。
丸の内南口側


 1914(大正3)年、辰野金吾設計の東京駅、今年は「東京の顔」の駅舎ができてから百年目。1945年5月の戦災で焼け落ちた部分を不完全な形で再建して、戦後60年以上そのまま利用されてきました。GHQ命令による応急処置的な再建だったということですが、60年もそのままになったとは。
 2012年の秋に、ようやくもとの形への復元が完成しました。復元といっても、免震構造などをとりいれた新しい工法で工事され、地震に強くなりました。復元なった左右対称のドームを持つ姿は、とても美しいです。

 外観は復元工事中から何度か見て、完成を楽しみにしていました。完成後も何度か外観とドームは見てきました。
 ドーム下を通過して丸の内側へ出るとき、ドーム2階の回廊を歩いている人がいるのに気づいていました。今回はステーションギャラリーから入って、この回廊を歩いたのです。

北口ドーム


 天井ホールには、、辰野金吾が十二支ののレリーフを装飾しているのですが、そのうち、10の動物だけがある、というので、4つ不足している動物は何なだろうと、ぐるりと見上げながら探索しました。遠目なのでよくわかりませんでした。
 テレビの番組、『東京駅百年の謎ー近代建築の父辰野金吾』というドキュメンタリーで菊川怜たちが謎を解いていました。クイズの答えは、次回、東京駅を訪問するとき探してみます。

北口ドームの天井を真下から見上げる


 東京駅丸の内側北口にあるステーションギャラリーの中に、初めて入りました。
 北口ドームを見下ろすことができるギャラリーです。





 ブリティッシュカウンシルの所蔵現代美術展をやっていたのですが、現代美術はささっと見て、今回のウォッチングは復元駅ビルをしげしげと眺めること。レンガの壁や階段室などを見て歩きました。

ステーションギャラリー開設時にあつらえたという照明

レンガの壁




階段室

 東京駅ウォッチングの次は、コンドル設計の三菱一号館。



まずは、ランチ。入店してから席に着くまで30分待ちましたが、ちょうどいいおしゃべりタイムになりました。家族のこと、趣味のこと、いろいろお話していただきました。春庭も、ブログでは書けない上司の悪口なども遠慮なく。

 三菱一号館、こちらも東京駅と同じく、復元です。保存しておいた昔の建材をそっくり同じように造り、昔の設計図の通りに復元した、という記録、前回三菱一号館を見学した時に資料室のビデオで見ました。

 今回は、「ザ・ビューティフル」と名付けられた英国唯美主義の画家たちの作品展。美女ビジョふたりにふさわしい展覧会でした!!

「ザビューティフル」ポスターになっている目玉の絵。アルバート・ムーア 《真夏》 1887年



 くちかずこさんからのいただきもの。もみじまんじゅう、おいしゅうございました。私のほかに食べたのは、姑と、去年の教え子留学生とその両親。半年だけで帰国したのですが、チェコから両親を連れて日本を再訪し、姑宅で会いました。 


<つづく>

ぽかぽか春庭「恐竜博2014in科博」

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2014/02/25
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記2月光の春(7)恐竜展2014in科博

 東京では、毎年何らかの恐竜展が開催されます。幕張メッセが会場だったり、科学博物館だったりしますが、週末にはちびっこよい子の恐竜ファンが押し寄せて、どの恐竜博も大賑わいになります。こんなに恐竜大好きな子供がいる国ってほかにもあるのかしら、って思います。

 今回の東京科博の「大恐竜展」。行こうかやめておこうかギリギリまで迷っていましたが、ついに会期終了前日になって「うん、やっぱり見ておこう」ということになりました。迷っていた原因は、招待券が手に入らず、大人1500円の入場料金は高いなあと感じていたからです。

 娘と息子は、小学生のころから毎年「化石掘りツアー」に参加して、貝化石などを掘り出す体験をしてきました。それも「いつか恐竜の化石を掘りに行きたい」というのが娘の夢だったからです。娘は地学や古生物学を専攻したいところなのに、物理や化学が苦手で入試突破は無理とわかって、自然地理学専攻に変え「神津島の黒曜石分布」調査を卒論にしました。地理学にも地学にも縁遠くなった今も、恐竜大好きは変わりありません。

 今年の科博恐竜博は、「大恐竜展−ゴビ砂漠の驚異」というタイトルです。世界の恐竜発掘史の中でも、保存状態のいい、価値ある化石がつぎつぎに見つかったモンゴルのゴビ砂漠での発掘成果を中心に展示されていました。



 ゴビ砂漠の発掘成果を最初に世界にアピールしたのは、アメリカのアンドリュース調査隊です。アンドリュースたちは、1922年から1930年にかけてゴビ漠を探索し、砂漠の岩と砂の中から、数々の恐竜化石や恐竜の卵化石を発掘しました。
 ロイ・チャップマン・アンドリュース(Roy Chapman Andrews、1884 - 1960)は、インディ・ジョーンズのモデルの一人として知られた、アメリカ自然史博物館の館長だった古生物学者です。
 今回の恐竜博の一番最初の展示は、アンドリュースの使用した「探検用品」でした。

 アンドリュースのあと、モンゴルの地質学者、日本の古生物学者、さまざまな調査隊が砂漠に入り、貴重な発見を続けました。
 他種の巣穴に入って卵を盗んでいた、として「卵どろぼう=オビラプトル」と名付けられてしまった恐竜、実は自分の巣穴で自分の卵を温めていたのだ、などの新発見も相次ぎ、恐竜ファンにとっては、目が離せないゴビ砂漠。

 大型植物食恐竜「サウロロフス」の全身骨格、アジア最大の肉食恐竜「タルボサウルス」全身骨格と、タルボサウルスの子どもの頭骨など、「本物!」がずらりと展示されています。
 レプリカが少なくて、90%が実物化石、というのが、今回の展示のウリになっているのですが、ガラスケースの中の実物を眺める感激もいいけれど、レプリカによってもっと身近に「わあ、でかい!」というのを実感させるのも、子供にとってはいいんじゃないかしら。
 私、子供が見学する展示を別仕立てにして、レプリカ展示でいいから、子供がさわれるようにしてほしい、という意見です。「恐竜の化石にさわろう」というコーナーもあったのですが、子供コーナーに全身骨格のレプリカを展示し、触らせてやったらいいと思うのです。



 大人の恐竜ファンにとって、学術的に有意義なのは、ホロタイプの展示です。発見された新しい化石がどの種に属するのか、ということを決定する基となる「ホロタイプ標本」が約10点展示されていました。
 どこかで新しい化石の骨が見つかったとき、このホロタイプと比較することで、これまでに見つかった種に属するのか、それともそれらとは別の新しい種類の恐竜であるのかがわかるのだそうです。

 以前読んでおもしろかった巽孝之『恐竜のアメリカ』。
 なぜ恐竜に惹かれるのか。『ジュラシックパーク』など、恐竜が登場する作品がつぎつぎに生み出されてくるのはなぜか、ということを考察していました。
 巽の考察では「かつて地球を席巻した巨大生物を圧倒したのは人類である。人類は、自分の生存圏を拡大して現在の繁栄に至った、というアメリカの「We are the champions」的な開拓者精神、征服者的冒険精神の延長上に、アメリカにおける恐竜人気がある、としています。

 私は、日本の恐竜人気は巽の考えとは異なる面もあるのではないか、と思うことがあります。
 圧倒的な自然の力を確認する喜び、みたいな。草木虫魚に魂が宿り山川草木が神である日本の自然であるならば、恐竜は人間にとって圧倒的な自然力の象徴とも受け取れるのではないか。6000万年まで大繁栄を謳歌していた恐竜がいっせいに滅んだ原因が、たった1個の「地球に激突した巨大隕石」であるのなら、人類の力なんてほんとうにちっぽけなもの。そもそも人間が地球の王者のような顔をするのさえおこがましい。
 もっともっと謙虚に、地球の自然を畏敬し、地球の片隅で生かしてもらうために、恐竜の巨大な姿をながめて、「わあ、大きい」と感嘆することが、我々に必要なのです。

 今、思いついたのですが。
 正月に獅子舞を見たあと、獅子の口で噛んでもらう風習があります。人の邪気を払い、ご利益を得るという意味があるという。わあわあ泣き叫ぶ幼い子供を獅子の前に押し出して、獅子の大きなくちで噛んでもらい「獅子の強さを注入してもらったこの子は、今年1年丈夫に育つ」と考える、あの信仰。あれって、私が「巨大な恐竜の前で人間の小ささを確認する」というのと通じているなあと思うのです。

 恐竜が滅んでから6000万年の間に、王者の足元でちょろちょろと逃げ回っていた哺乳類の中からホモサピエンスが誕生し、600万年の間に、地球を痛めつける力を持つまでに脳が巨大化しました。人類にとって「たった1個の巨大隕石」はなんでしょうか。願わくは、この隕石を自ら呼び寄せることのないように。


 人間の力の限界まで生身のからだで挑戦するスポーツ選手にも、過去の地球の姿を明らかにすべく、砂漠でこつこつと発掘を続ける学者にも、私はただただ敬服いたします。
 恐竜をみれば、ただただ「わあ、大きい」と見上げているだけの恐竜ファンにすぎないですけれど、人類は地球を守っていける大きさを獲得しているのだと、信じています。
 放射能垂れ流しのまま、利益優先させている人たちへ。地球を壊さないでほしい。

<つづく>

ぽかぽか春庭「学習院地学標本室見学」

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2014/02/26
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記2月光の春(8)学習院地学標本室見学

  2月23日、学習院見学会に参加しました。
 娘息子が化石掘りツアーに参加するため入会した「地学ハイキング(地ハイ)」の2014年最初の例会が、「学習院地学標本室見学」でした。私は、子供たちが「化石掘りツアー」から卒業してしまったあとも、「地ハイ」にひとり参加しています。

 「学習院中高等科地学教諭にして地学研究会顧問」であった先生、教諭定年退職のあとも嘱託非常勤講師として生徒の指導にあたってこられたのですが、この3月に嘱託職からも引退されるというので、最後に地学標本室を見せてくださることになったのです。

 地ハイを主催している地学研究会の先生たち、それぞれが自分の分野の研究をこつこつと続けている、という人たちで、私の好きな「もうかりもしないことをこつこつと」という人々が集まっています。
 2009年のI先生の発表論文タイトルは、「ドイツジュラ系産ヒトデ・クモヒトデ類の生痕化石ー現生ヒトデ・クモヒトデ類の行動との比較」
 そんな立派な研究をしている先生が、23日の地ハイ例会では、お弁当タイムにおしるこをふるまってくださり、「おはし、無い方いませんか」などとお世話してくださるのです。おしるこ、おいしゅうございました。

 地学講義室実験室は校舎の5階ですが、標本室は地下1階。乃木希典院長以来の「質実剛健」を旨とする校風ゆえか、エレベーターは中高等科校舎にひとつしかありません。生徒は日頃は5階の地学教室まで階段を使って上り下りしているのでしょう。「お元気な方はどうぞ階段で」という説明があったけれど、やわな私はむろんエレベーター利用です。おしるこ食べた分しっかりと階段上り下りする気になればやせるのでしょうが、そういう気にならないので、おしるこ分はすべて体に蓄えました。

 地階の標本室には、明治時代の学習院開校以来の収集標本が保存されています。ここが貴重なのは、よその新しい博物館と異なり、100年前に購入したり寄贈されたりした古い標本が残されていることだそうです。

 「デーナ氏岩石標本」というタイトルの棚。


 明治の帝室博物館が国立博物館に変わるとき、歴史や美術専門の博物館に組織替えされ、それまでに収集された科学関連の標本などは、ほとんどが東京科学博物館へ。一部が東京大学理学部と学習院に分納されました。
 学習院にも収納されたのは、よその国から皇室への寄贈品などがあったからではないかと想像しています。

 現在、東京大学の標本は、東大総合博物館などで見ることができますし、科博の標本もさまざまな方法で展示されていると思うのですが、学習院標本室に入ったものは、地下1階にひっそり収蔵されているままです。学習院の生徒しか見ないのでは、もったいない気がします。

 古い標本箱


 標本室の入口には、この標本類のなかで、キウイ剥製と肺魚剥製が貴重なものである、という説明書きがありました。
  ニュージーランドの飛べない鳥、キウイの剥製標本がありました。キウイという鳥の餌になるのでキウイフルーツと名付けられた緑色の果物。私が子供の頃果物屋で見たことなかったですが、今では日常の食生活になじみになりました。フルーツほどなじみはないものの、キウイのほうはニュージーランドに行くか動物園に行けば生きた鳥を見ることはできます。私はNHKの番組「ダーウィンがきた」で、ちょうどキウイの生態記録を見たところだったので、キウイの姿をすぐ目の前に見ることができて、よかったです。

 学習院標本室に保存されている剥製は100年も前のものですから、専門家が見れば、現在の鳥と比較して何らかの知見が得られることもあるのではないかと思います。

 2月22日に東京科博で恐竜展のあと、出口へ回るついでに、ミニ企画展「ダーウィンフィンチ」展を見ました。
 このミニ企画展では、アメリカの自然史博物館から借用している14種のフィンチの剥製が展示されていました。ダーウィンが進化論を思いついた各島ごとに別々の発達を遂げた小鳥フィンチが、今もなお少しずつ島ごとに変化していることがわかるのだそうです。14種のフィンチそれぞれの嘴や羽の違いがわかるように展示されていて、専門家が見ればきっといろいろな発見があるのでしょう。
 ガラパゴス諸島から動植物を持ち出すことは禁じられているため、たいへん貴重な剥製であり、展示期間が終わったら、アメリカに返却されます。科博は、剥製をもとにバードカービング(木製の鳥彫刻)でフィンチの姿を残して展示するのだそうです。

 100年前のキウイ剥製が日本に保存されているという事実、動物学者なら知っているのかもしれませんが、とにかく私ははじめて見ました。将来の研究に生かしていければいいのに、と思います。秋篠宮は家禽にわとりの研究で博士号を得ていますから、きっとこのキウイのこともご存知だったでしょうけれど。

 帝室博物館から学習院に移譲された標本のひとつ。中生代クスの植物化石と大楢の化石。「明治37年購入75銭」と値段がかき入れらています。



 東京大学の理学系の実験室などで埃をかぶってほったらかされていた古い実験道具や標本が「驚異の部屋」というタイトルで立派な博物館展示に蘇りました。
 学習院も一般の人も見ることができるような設備を儲けて、標本類などを整理展示してくれたらいいのになあと思います。棚の中、古い天秤量に「ハイキ」とマジックで書かれ、ほこりにまみれていました。こんな道具も整理整頓して、明治時代の顕微鏡などとともに展示してあれば、立派な博物学の道具展示です。


 後ろの木箱には明治時代の顕微鏡が収蔵されています。手前の天秤量には「ハイキ」と記されています。


 こちらの道具には、寄贈者の名が記されているので、ハイキされることはないでしょう。今上天皇が中学卒業記念に学年記念品として寄贈したものです。


<つづく>

ぽかぽか春庭「学習院散歩」

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2014/02/27
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記2月光の春(9)学習院散歩

 2月23日午後からは、ウェブ友yokoちゃんも参加しての学習院たてもの&構内見学。
 山手線内の私立大学では最大の敷地だ、と学習院の先生が説明していました。都下の大学では三鷹のICUなど、広い敷地の大学はありますが、山手線内にうっそうと木が茂る林や目白崖線からの湧水をたたえる池、馬場などを備えた大学、さすがに贅沢な作りだとおもいました。私は学習院大学内に馬場があるということも知りませんでした。

 目白崖線の崖側に広がる林によって、隣接のビル群と隔てられています。


 構内の池は、通称「血洗いの池」。
 赤穂浪士47士のうち、随一の剣術使い堀部又兵衛が高田馬場で叔父の敵討ちをした際、この池で刀を洗ったという伝説により「血洗いの池」と名付けられたという話があります。これは作り話で、学習院高等科の生徒が毎年下級生に伝える習わしになり、みなが信じるようになったということです。高田馬場から目白まで刀を洗いにわざわざ来るというのもおかしな話なのに、大正時代の先輩からつぎつぎに伝えられ、昭和になると伝説が出来上がっていた、ということらしいです。
 平成の現在では、そもそも堀部安兵衛を知っている学生が少ない。

血洗いの池 


 思えば弘法大師伝説なども、全国津々浦々、空海が足を踏み入れたことのない地方はないというくらいにさまざまな「弘法様」の事跡が伝わったのも、こういう仕組みだったのだろうと思います。日本中に弘法様が農業用水や溜池を作って、人々の尊敬を受けていますが、果たして実際に空海の仕事であったのはどこらなのだろうと思います。
 今、『空海の風景』を読んでいるところなので。

 乃木院長が学生とともに寝泊りしていた寄宿舎「乃木館」や旧皇族寄宿舎などを見ました。建物紹介はまたのちほど。

 地ハイが14時に早めに解散になり、その後yokoちゃんと地ハイの見学コースからは省略された厩舎見学に行きました。青学vs学習院対抗馬術試合がおわったところということで、馬をトラックに乗せて運ぶところでした。今日の試合では青学勝利。アウェイでの勝利に、部員たちは嬉しそうでした。

厩舎に戻ったお馬さんたち。
  

馬場


 yokoちゃんは、私の最初の大学の後輩です。おとなりさんと言えるくらいの所にあるキャンパスなのに、文学部キャンパスと本部キャンパスを合わせても、こんなふうにキャンパス内に林や池や馬場がある環境とは大違い。スロープ下の学生食堂の安かろうまずかろうだったという話などしながら、環境抜群の学習院の構内を歩きました。

 たてもの見学の部は、日曜日で校舎内に入れなかったのがちょっと残念。内部もいつか見学し、先生が「おいしい」と自慢していたキャンパス内の「松本楼学習院支店」でランチを食べてみたいと思います。

 yokoちゃんとの散歩は、このあと、豊島区宣教師館マッケレーブ邸や護国寺墓地などへ足を運びました。漱石、荷風のお墓にお参りもできて、一日18000歩の散歩になりました。yokoちゃん、おつきあいありがとう。これからも元気に歩き回りたいですね。 

<おわり>

2014年2月 目次

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2014年2月 目次

02/01 ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>早春賦−春の言葉集め(1)春隣の御所車
02/02 早春賦−春の言葉集め(2)アルプスの乙女とピンクレディ
02/04 早春賦−春の言葉集め(3)光の春と霾ふる日

02/05 ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(12)旧前田侯爵家駒場本邸
02/06 明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(13)ワイン王・神谷傳兵衛稲毛別荘
02/08 明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(14)旧福本邸、江戸東京博物館
02/09 明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(15)山本記念館(旧山本有三邸)
02/11 明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(16)番外、建物の写真撮影について
02/13 明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(18)飛鳥山の渋沢栄一邸
02/15 明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(19)番外・スタジオジブリ社屋

02/16 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記2月光の春(1)天の祭・銀盤に咲く花
02/18 十四事日記2月光の春(2)私の好きなタレパンダ・春眠に限らず暁を覚えず
02/18 十四事日記2月光の春(3)東京の大雪
02/20 十四事日記2月光の春(4)ハッピーバースデイ89回目
02/22 十四事日記2月光の春(5)如月の空
02/23 十四事日記2月光の春(6)東京駅オフ会ビジョ×2
02/25 十四事日記2月光の春(7)恐竜展2014in科博
02/26 十四事日記2月光の春(8)学習院地学標本室見学
02/27 十四事日記2月光の春(9)学習院散歩

ぽかぽか春庭「横浜、外交官の家」

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2014/03/02
ぽかぽか春庭@アート散歩>横浜鎌倉洋館散歩(1)外交官の家

 1月17日、横浜美術館の下村観山展を見に行きました。美術館に入る前に、「横浜洋館めぐり」を楽しみました。一日天気もよくて、冬の散歩もなかなか楽しいものでした。うれしいことに、横浜市は太っ腹。横浜市所有の西洋館は、すべて見学無料です。

 東京で、お金持ち私有のお屋敷見学には、入館料を払わねばなりません。例えば文京区音羽の音羽御殿、鳩山会館(元鳩山一郎邸)は、入場料金500円です。結婚式場運営などで儲けているのだし、去年亡くなったママは、政治家兄弟にポンと選挙資金おこずかい数億円をあげるくらいお金持ちです。実家の石橋家からの相続財産100億円。鳩山家からの相続150億円。ブリヂストン株の配当金だけでも年間3億。由紀夫邦夫への相続はどうなったのやら。見学料くらい無料にしたらいいのに。なんてぶつくさ言いながら、横浜へ。

 JR石川町駅のホームから、前方の高台に洋館が見えます。駅で洋館めぐりの地図がもらえます。(インターネットダウンロードもできます。)

 ホームからは近くに見えますが、あれだけの高台だとかなりの登りになるだろうからゆっくり歩くことにして、ゆるゆると坂道を上っていきました。

 横浜山手地区の高台には、イタリア山アメリカ山などの名がつけれれています。イタリア山には、「外交官の家」と「ブラフ18番館」があります。駅のホームから見えたのは、「外交官の家」でした。



 内田定槌(うちださだつち1865-1942)は、ブラジル移民事業などに力を尽くした明治・大正時代の外交官です。福岡県(豊前国)小倉に生まれ、帝大法科卒業後、外務省に勤務してブラジル公使トルコ大使などを歴任しました。
 親交があったJ・M・ガーディナーに私邸の設計を依頼して、1910(明治43)年に、渋谷区南平台に洋館が完成。アメリカン・ヴィクトリアン様式にアールヌーボーやアールデコなどの意匠をとりいれた家です。

外交官の家、南面


 最初の任地がニューヨークだった定槌と陽子夫人にとって、居心地のいい家となり、1924(大正13)に職を辞してから1942年に亡くなるまで住み続けました。
暖炉

 渋谷周辺が東京大空襲で焼けた際も運良く火災にあわなかったため、戦後は例によってGHQによって接収され、米軍将校の住まいに。
 米軍から返還後、内田定槌の孫、久子が相続しました。(久子は宮入進と結婚)
 老朽化した家を取り壊してマンションを建てる計画が進んでいたとき、建築史家の陣内秀信と出会い、横浜市への寄贈が実現しました。

 イタリア山への移築復元後、ガーディナー設計の個人住宅として重要文化財の指定を受けました。貴重な建物が壊されてしまわずに、ほんとうによかったです。陣内さんと宮入久子さんの出会いは偶然のこと。
 陣内さんが建物探訪散歩をしていたら、入り口でばったり家の持ち主と出あったのだそうです。建築史にとっては幸運な偶然の出会いでした。



ドアの模様もすてきです。 

 老朽化して住むには適さなくなっていた家でしたが、資料に基づいて新築当時そのままに復元されています。また、アーツ&クラフツの影響があったという家具調度品も復元展示されていて、ひととき「明治大正の外交官の生活」をしのびました。

階段室

駅のホームからみえる丸い部分の内側は、

明るい談話コーナーです。


<つづく>

ぽかぽか春庭「横浜・ブラフ18番館」

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2014/03/04
ぽかぽか春庭@アート散歩>横浜鎌倉洋館散歩(2)ブラフ18番館

 ブラフ18番館は、外交官の家の横に移築復元されています。ブラフとは、「切り立った岬」という意味で、横浜山手が外人居留地だったころに、山手地区をブラフと呼んだことにちなむそうです。

 1923年の関東大震災で、居留地時代から横浜に住んできた西洋人の家は、ほとんどが倒壊、または火災で消失してしまいました。そんな中、山手町45番に住んでいたR.C・バウデンは、倒壊した材木の中から使用できるものを選んで、新しく家を建て直しました。バウデンはオーストラリア人貿易商として、活躍したそうですが、館が完成してまもなく母国へ帰ってしまいました。そのため、正確な竣工年や設計者施工者が誰であったかなどの記録が失われてしまっています。
 震災前の古い木材が再利用されていた、ということも、横浜市が復元のために行った解体作業の過程で判明したということでした。



 オーストラリアにバウデンの孫夫妻が住んでいて、このブラフ18番館に来訪したことがあるということなので、もしかしたらオーストラリアに、設計図などの記録が残されているのかもしれません。




  
食堂

 戦後は、現カトリック横浜司教区の所有となり、教会の司祭館として使われてきました。イタリア山に復元後は、「横浜外国人の暮らし」を再現する展示となっており、横浜に集まっていた「西洋家具職人」たちが制作した「横浜家具」のテーブルと椅子、箪笥などが室内に配置されています。
 復元された横浜家具

 赤い屋根に緑の窓。横浜に「異人さん」たちが住んで西洋の生活スタイルを見せていた頃、それを近隣で見ていた人にとって、どれほどの驚きであり、魅力的な光景に思えたことでしょうか。風に窓の白いカーテンがゆらめく。そんな光景を遠くから見ただけで、自分たちとは異質な世界に胸ときめいた人もいたのではないかと思います。

 世界は近くなり、飛行機に乗ればあっというまに世界中のどこにでも行ける時代になった現代ですが、「自分とは異なる世界へのあこがれ」を持ち、「どこかここではない場所」を夢見ることができた人たちは、それだけでもしあわせだったのではないかと思います。

<つづく>

ぽかぽか春庭「横浜・ベーリックホール」

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2014/03/05
ぽかぽか春庭@アート散歩>横浜鎌倉洋館散歩(3)ベーリックホール

 イタリア山から山手本通りを歩き、代官坂上に出ると、横浜洋館の中で最大のベーリックホールがあります。イギリス人貿易商B.R.ベリック(1878生まれ)氏の邸宅として建てられたスパニッシュ様式の邸宅です。
 J.H.モーガン(Jay Hill Morgan 1873- 1937)の設計により、1930(昭和4)年に建築。

 ベリック氏は52歳から8年間この家に住みました。1938年にカナダに移住。
 戦後は、GHQ接収、米軍将校の住まいとなりました。米軍より返還後、遺族から1956年に宗教法人カトリック・マリア会に寄付されました。2000年までセント・ジョセフ・インターナショナル・スクールの寄宿舎として使用されてきました。壁には寄宿舎時代の記念写真なども資料として飾られていました

玄関

 ベリック邸設計者のモーガンは、アメリカ出身の建築家。1920(大正9)年に来日して以来、横浜を中心に建築の仕事をつづけました。存続の危機にあるという横浜外人墓地の入口正門もモーガンの設計によります。モーガン自身もこの墓地の中に眠っています。

モーガン作の横浜外人墓地正門


夫人の寝室



浴室

 2001年横浜市が元町公園の拡張区域として土地を買収し、カトリック・マリア会から寄贈された建物は、横浜市が復元・改修工事を行いました。2002年から建物と庭園を公開、建物は、コンサートなどのイベント会場や結婚式場やなどとして使われています。

食堂

 私が見学したおりには、ピアノの演奏が行われていました。これから先のコンサートのリハーサルかと思って係員に尋ねたら、ピアノは弾かないでいると悪くなるので、定期的にボランティアが来て演奏をしているのだそうです。

天井の木組み。部屋の奥のピアノ、演奏中




 すてきな音色をバックに見学できて、洋館めぐりもいっそう気分良く、1階2階を見物してきました。

階段



 広い居間の北側に『パームルーム』と呼ばれる部屋があります。壁面に水が流れ落ちる壁泉があり、ライオンの口から水が出るようにしつらえてあります。

ライオンの壁泉

バームルーム


<つづく>

ぽかぽか春庭「横浜・エリスマン邸」

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2014/03/05
ぽかぽか春庭@アート散歩>横浜鎌倉洋館散歩(4)エリスマン邸


 エリスマン邸は、スイス人F・エリスマン(Fritz Errismann:1867〜1940)の私邸として1926(大正15)年に建てられました。
 エリスマンは1967年、スイスチューリヒに生まれ、1888(明治21)年、21歳のとき来日。シルクタウンとして生糸貿易の拠点だった横浜の生糸貿易商社「シーベル・ヘグナー商会」横浜支配人格として働きました。
 1940(昭和15)年に亡くなり、山手の外国人墓地に埋葬されました。

 チェコ生まれの建築家アントニン・レイモンド(Antonin Raymond, 1888 - 1976)設計で、洋館と和館が併設されていました。和館は妻となった日本人女性が使用し、洋館はエリスマンの居間や客間として使用されていた、ということです。

 エリスマンが亡くなったあと、すぐに人手に渡ってしまったのか、40年間は家族が暮らしていたのか、調べていませんが、和館洋館の建っていた土地は1982(昭和57)年にマンション分譲会社の手に渡り、マンション建設が始められました。和館は解体。洋館は近隣の人々の保存運動によって、解体後すべての建築部材が横浜市に寄贈されました。



 1988(昭和63)年に、現在の地に移築復元されました。
 エリスマン邸は横浜市が「解体された洋館の部材」を使って復元建築を行った最初の建物で、その後、洋館移築復元が続き、横浜の新名所となっています。




 このことは、建物見物趣味の者にとってたいへんありがたいことなのですが、欲を言うなら。
 新築当時の資料を元に復元されているので、復元建築物はどこもぴっかぴかなのです。建物ファンは、100年前の建物は百年分古びたようすで目にしたいのが本音。移築復元とわかっていても、あまりに新築然としているより、ちょっとペンキなんぞ禿げていたほうが趣のある洋館ぽい気がするのです。勝手な思いであることはわかっているのですが。

 久しくだれも住んでいない、古びた洋館、というだけでなんだか物語ができそうです。古い和館と洋館が並びたち、和館には老婦人がひっそりと住んでいます。洋館はかって老婦人の夫が貿易商として活躍していたときのそのままにしておかれ、ときに婦人は足音もひそやかに夫の書斎、寝室をめぐります。かっては夫が招いた客とともに談笑し、ときにダンスに興じた居間。老婦人はそっとカーテンを腕にとらえてステップを踏んでみる。
 夫が亡くなってから、もう40年もの年月が過ぎ去った。やがてこの身も夫のもとへいくであろうけれど、ついに来るその日までは、夫の使ったタイプライターも、夫のパイプケースも、そのままにしておきたい、、、、

 なんてね。妄想しながら見学し、そっか、新築当時に復元されたとはいっても、それからすでに25年は経っているのだなあと計算してみる。法隆寺が建てられてから1300年経っているのに比べれば25年というのは、建物の寿命からいけばまだまだ若造なのだろうけれど。

<つづく>

ぽかぽか春庭「横浜・えのき亭&山手234番館、山手資料館」

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山手234番館

2014/03/09
ぽかぽか春庭@アート散歩>横浜鎌倉洋館散歩(4)えのき亭&山手234番館、山手資料館

 横浜山手地区の洋館めぐり。
 市の所管になっている建物のほかにも、横浜開港当時からのさまざまな建築物が市内各所にあります。1月17日は「個人の邸宅」を中心にめぐったのですが、
外観を見るだけで中に入る時間がなくてちょっと残念だったところがあります。

 えの木亭本店。
 1927(昭和2)年建設の洋館を利用したカフェレストランです。
 現在の所有者は、自宅用として1970年に買い取ったあと、1979年にスイーツ&カフェの店としてオープンしました。


 お店サイトの建物説明では、となりに建つ山手234番館と同じく朝香吉蔵の設計で、アメリカ人検事の家だったとのこと。



 山手234番館は、朝香吉蔵の設計により、1927年頃に建築された外国人向けのアパートメントハウスでした。戦後の米軍による接収を経て、1980年頃までアパートメントとして居住されてきました。1棟の建物の中が、右と左に1戸ずつ、上下1階と2階。計4戸の共同住宅でした。1989(平成1)年に横浜市が買収。1999(平成11)年から一般公開されています。現在は、市民サークル活動などに利用されているそうです。







 朝香吉蔵(1889 - 1947)は、1907(明治40)年、山形県立米沢工業学校建築家を卒業し、岐阜県富山県の営繕課、横須賀海軍などの勤務を経て1923(大正12)年に独立。作品は、この山手234番館、山手89番館(現・えの木亭)のほかは、知られていません。(求む情報!)

 外人墓地の手前に山手資料館があります。旧中澤兼吉邸です。


 中澤家は、兼吉の父親・中澤源蔵が始めた居留地外国人相手の牛乳販売が大成功して以来、資産家となりました。源蔵は、横浜市諏訪町11番地に、中澤牧場を開設しました。



 次男の兼吉は、父の始めた牧場から事業を拡大していきました。牛の繁殖業、食肉処理場をはじめ、牛肉保存のために冷凍工場(横浜冷凍の前身)、アメリカからホルスタイン種の乳牛の輸入し日本各地に転売し、三宅島酪農組合に協力して三宅島バターの生産をする、など食肉に関する事業のほか、それらの事業のための工場を建てることから、学校から橋梁までの建設工事と発展しました。

 1909(明治42)年、横浜市本郷町(本牧上台57番地)に広大な邸宅を建設。諏訪町の牧場が市街化によって動物飼育に適さなくなると、大正年間に牧場をやめ、1929(昭和4)年、諏訪町に邸宅を移築しました。
 戦後の中澤家は、不動産業を事業の核とし1975年に、山手に外人用マンション「山手ハウス」を建設。現在も中澤事務所は不動産管理業を主な事業にしています。

 1月17日の横浜散歩、帰り際に「クリーニング発祥の地」という記念碑を見ました。
 横浜は、江戸時代まで日本にはなかったさまざまな新事業が始められた町です。外人相手の洋裁店もクリーニング店も横浜からはじまり、外国人の食生活のために、食肉や牛乳、バターなどの生産も横浜の新事業となりました。中澤兼吉も外国人相手の事業を成功させた人物のひとりであったのです。

 1899(明治32)の条約改正によて、諏訪町を含む山手地区は外国人居留地ではなくなりましたが、多くの外国人が山手地区に住み続けました。

 山手資料館になっている建物は、兼吉が明治年間に地元の大工(戸部村在住)に建てさせた、いわゆる「擬洋風建築」のひとつです。大工の名などは記録も残されていないようです。(求む情報!)



 1月17日は、内部を見ることができませんでした。(美術館にまわる時間が迫っていたので)また横浜巡りをするときは、山手資料館のとなりの山手十番館でランチ、えの木亭でケーキ&お茶。優雅な一日を過ごしたいです。

 山手資料館の玄関に置かれていた飾りの乳母車。私が子供の頃自分も乗せられ、妹を乗せて押して歩いた我が家では「ゴーゴー」と呼んでいたのと形が同じようだったので、しばし郷愁にひたりました。うちのゴーゴーは上部の籠のところは籐を編み込んでありました。
 横浜居留地の幼児たちも、こんな乳母車に乗って山手あたりを散歩していたのでしょうか。
 

<つづく> 

ぽかぽか春庭「横浜・山手111番館の蝶々さん」

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2014/03/09
ぽかぽか春庭@アート散歩>横浜鎌倉洋館散歩(7)山手111番館の蝶々さん

 山手111番館はJ.E.ラフィン (John Edward Laffin 1890-1971)邸として、1926(大正15)年)に建てられました。アメリカ人建築家、J.H.モーガンの設計で、ベーリックホールと同じく、スペイン風の外観です。



 ラフィン一家の物語、調べてわかったことを記録しておきます。
 J.E.ラフィンは、港湾関係の陸揚げ会社や両替商を経営する実業家でした。横浜で1890年12月29日に生まれて、1971年5月13日にカリフォルニア(グラナダ・ヒルズ)で死にました。シベリア生まれのマリアLVANOVA(1899 -1967年8月30日)と結婚。現在、山手111番館となっている邸宅は、結婚に際して、父トーマスMラフィンが息子に贈った家です。

 ジョン・E・ラフィンの父、トーマスMラフィン(トーマス・メルヴィン・ラフィン Thomas Melvin Laffin 1862-1931)は、アメリカの海軍士官として航行中、艦船修理のために横浜に寄港しました。修理の間、休暇を利用して行った箱根湯本で、運命の出会いが。
 ひと目で石井みよとの恋に落ち、日本に残ることを決意しました。

 トーマスは1886(明治19)年に日本郵船に入社し、その後独立して、ラフィン商会を設立しました。1990年に長男ジョン・エドワードが誕生し、みよとの間に8人の子女をもうけました。





 ジョンの8人の兄弟姉妹のうち、3歳下の妹のエセル・ラフィン・スティルウェル(Ethel Laffin Stillwell 1893年11月1日-1965年8月16日)は、Charles Stillwell と結婚してシアトルで暮らしました。晩年、未亡人となったエセルは、1952年に、生まれ故郷の横浜への帰国を果たし、横浜でなくなりました。

 もうひとりの妹、エレノア・ラフィン(Eleanor Laffin 1897-1944年6月26日)は、横浜で47歳でなくなっています。
 日米混血のため日本で暮らしにくくなったためと思われますが、エレノアは、太平洋戦争中、スイスのパスポートを取得しようとしました。しかし、それが果たされないうちに、横須賀発の電車に轢かれ、病院に運ばれて2時間後に亡くなったのです。自殺にも思えるのですが、調べはついていません。エレノア死去の知らせは、シアトルに住むエセルのもとに届きました。

 戦時中に電車事故で亡くなったエレノアの死は悲劇的でしたが、両親のトーマス・メルヴィン・ラフィンと石井みよの恋は、まさしく「蝶々夫人」のハッピーエンド版です。海軍士官だったトーマスが箱根湯本に遊山に出かけてみよに出会う。トーマスはたちまち恋に落ち、日本で暮らすことを決意。海軍を退職し、日本郵船に入社。仲睦まじく、8人の子供を育てた、、、、。

 テーブルや椅子は復元ものの横浜家具かと思いますが、ラフィン一家が仲良く囲んで食事をしたのかと想像される食堂


 オペラ『蝶々夫人』の原作短編小説を書いたジョン・ルーサー・ロング(John Luther Long1861 - 1927)は、日本に滞在したことのある姉サラ・ジェーン・コレル((1848−1933)から日本の話を聞きました。サラは、夫の宣教師アーヴィン・ヘンリー・コレル(Dr.A・H・Correll 1851−1926)とともに東京、横浜、長崎で暮らし、布教と教育活動を行いました。ロングは姉から日本の話を聞いて1895年に短編小説として執筆しました。

 蝶々夫人のモデルには、シーボルト夫人滝やグラバー夫人ツルなどがあげられていますが、サラの日本滞在期間1891〜1895を考えると、ジョンEラフィンが1890年に生まれた時期とぴったり合います。

 小説としては、涙の悲劇にしたほうが受けます。
 蝶々夫人は息子の将来に希望を託して自殺しますが、トーマスMラフィンと結ばれた石井みよは、幸福な「異人さんの妻」であったのでしょう。
 ただ、戦時下にアメリカ国籍であることに不安を感じたエレノアの死は、電車事故という痛ましいものだっただけに、物語の最後を悲しい色にしています。

 今、山手111番館は、J.H.モーガンが腕を振るったすてきな洋館として、私たちを迎えてくれます。港の見える丘公園に建つ白いスペイン風の洋館に、ラフィン一家はどんな風に暮らしていたのでしょうか。


 ジョン・E・ラフィンは1971年にカルフォルニアで亡くなったとのことですが、家族子孫は日本にいるのでしょうか。この次山手111番館を訪れることがあれば、もっとくわしい資料を探してみます。

 私は仕事があって行くことができませんが、3月11日には、日頃は非公開の2階までガイドが案内してくれるそうです。お近くの方、山手111番館に行って、2階がどうだったか、リポートしてくださいませ。く〜、見たかったけれど、教科書編集の仕事が入っている日でした。

<つづく> 

ぽかぽか春庭「横浜・イギリス館」

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2014/03/11
ぽかぽか春庭@アート散歩>横浜鎌倉洋館散歩(7)イギリス館

 1月17日の横浜洋館廻り散歩。
 朝からぐんぐんと歩いて、駅でもらった「横浜洋館めぐり地図」の順にめぐっていましたが、17日のメインは横浜美術館の下村観山展の観覧でした。2時間くらいは見ていたいから、6時閉館から逆算すると、みなとみらい駅には4時に戻らないと。もう残り時間は少ない。

 港のみえる丘公園に建つ、山手111番館とイギリス館は、大仏次郎記念館と神奈川近代文学館を見たときにいっしょに見学したので、今回はパスしようかなとも思いましたが、ささっと見てまわることにしました。



 イギリス館は、1969年(昭和44)からは横浜市の公共施設となり、1999年からは一般公開されています。
 1937(昭和12)年に、英国総領事公邸として建築。上海におかれていた大英帝国工部総署の設計です。ジョージ六世(GeorgeVI 『英国王のスピーチ』の王さま。エリザベス?の父)時代、大英帝国威光の最後のがんばりを見せたコロニアル建築でした。



 1931年(昭和3年)総領事公邸建設の7年前に、英国工務省の設計によって英国総領事館がたてられています。総領事館は、現在、横浜開港資料館旧館です。

 大英帝国として世界中を植民地にしたイギリス。最盛期には全世界の4分の1を領有するほどでした。20世紀のふたつの世界大戦第1次と第2次世界大戦の間、イギリスは世界でアメリカと並ぶ超大国として存在していました。 
 諸外国に駐在する大使や領事も、絶大な力を誇っており、大使館領事館も入念に建てられました。横浜の領事館、領事公邸は、上海にあった英国工務省が建築部材もすべて上海から船で運び建てたということです。



 イギリスは相手国の「格」によって、大使館領事館の建物に露骨な差をつけることで、赴任する大使や領事への「待遇の違い」を表すことが多かったそうで、1923年に日英同盟が失効したとはいえ、当時はアジア圏最大の独立国であった日本の領事館は、イギリスにとって重要拠点とみなされていたことが、領事館、領事公邸からもうかがえる、とのことです。

 他の国の領事館がどのような建物だったのか資料を見たことないので、「へぇそうかあ」としか思わずに、デザイン的にはすっきりしているイギリス領事邸を見てきました。
 コロニアル様式というのがどのへんにあらわれているのか、建築史的なことはわからないのですが、ひとつはっきりわかるのは、領事やゲストが出入りする玄関や客間からは、使用人が出入りする裏口や裏口からの通り道は見えないように工夫されていることです。「身分の差」ということを出入り口ひとつとっても身にしみて出入りするように使用人をしつけていたのでしょう。



 イギリスは今も王室とともに爵位制度を維持し、国民に身分差をつけています。国の制度はそれぞれの国民が選べばよいことですが、私は国民はすべて平等であるべきだと信じています。出自で差をつけるのは好みません。その点個人の功績によってナイト(Knight)の称号を与え、「サー&デイム」を名乗るのは、まあ、日本の文化勲章みたいなものかなと思います。
 日本人では、イギリス外交官のパートナーとして活躍するピアニストの内田光子さんがデイムの称号を与えられています。

 私が近代建築の洋館を見て歩いて、考えることのひとつに「近代国民国家成立と民衆の目にうつる洋館の記号学」ということがあります。だいぶややこしい考え事です。まとまるとは思えませんが、考えていきます。

 3月8日のマレーシアの飛行機事故。一番先に報道されたのは「乗客名簿に日本人の名前なし」でした。中国へ向かう飛行機で、大半の乗客は中国国籍。事故の続報は、テレビでも少なくなりました。たぶん、この飛行機事故のことを来年の3月8日に思い出す人もごくわずかだろうと思います。

 2011年3月11日に亡くなった人たちのことを思っています。まだ行方不明のままの方もいらっしゃる。1945年3月10日に東京大空襲で亡くなった人々のこと、70年がすぎても、私は追悼の黙祷をささげます。
 乗客乗員239人の人が亡くなった飛行機事故は、わずか2日で新聞にも報じられなくなり、3年前の津波地震で亡くなった2万人と、70年前の空襲で亡くなった10万人は忘れない。と、したら、この差は「同胞であるかないか」であり、この「同胞意識」の形成過程について、私は興味があるのです。

 「故郷に住めなくなった人たちは気の毒だけれど、わが町に原発除染のゴミや震災ガレキを持ち込むのは大反対」というときの同胞意識と、新大久保ヘイトスピーチや、「まおちゃんが金取れなかったのに、キムヨナが銀は憎ったらしくてたまらない」と発言した知り合いの男性とか。

 同胞意識ってなんだろうとか、国民国家形成時の民衆意識とか、最小社会単位としての家族が共に生きる場所としての住居とか。洋館めぐりながらぐるぐるととりとめもなく、考え続けています。

 むろん、散歩しながら「洋館、すてきな照明器具だなあ、きれいなステンドグラスの窓だなあ、面白い形の屋根だったなあ」と思いつつも、「さて、それはそれとして明日のコメ買う金がない」というのが、一番の関心事だったりしますが。

<つづく>

ぽかぽか春庭「旧華頂宮邸・スキャンダル」

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2014/03/12
ぽかぽか春庭@アート散歩>横浜鎌倉洋館散歩(8)旧華頂宮邸の宮家スキャンダル

 華頂宮邸を訪問したのは、2012年4月。
 邸宅のリポートはこちら。「宮邸」という建物名に文句つけているレポートです。
http://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/6722e863e6318932ac4b879bdf0b9586



 華頂宮博信王(1905-1970)は、1926年に臣籍降下し、華頂侯爵となりました。鎌倉の華頂宮邸は、1929(昭和4)年の春に華頂博信侯爵邸として建てられたものですが、通称は華頂宮邸とされています。現在の所有管理者である鎌倉市も通称をもって正式な建造物名として重要文化財登録をしています。

 今回は、建物ではなくて、そこに住んでいた人々のスキャンダルリポート。下世話なワイドショーネタです。建築史の学術的な話もいいんですが、調べていくとどうもこちらの「下世話」のほうが私の興味を引いてしまって、、、、

 華頂宮邸。
 邸宅の建て主、華頂博信は、閑院宮載仁親王第5女華子女王(1910-2003)と結婚。結婚の日時はおそらく華頂宮邸が竣工した前後と思われます。
 旧皇族華族の結婚は勅許が必要な公的なことがらであったので、調べれば華頂博信と華子の結婚日時は正式にわかると思いますが、私としては結婚前後に鎌倉の邸宅ができたことがわかっていればOK>

玄席


 太平洋戦争後、皇族華族には大きな変動が襲いました。GHQの意向で公侯伯子男の爵位廃止。直宮(じきみや=昭和天皇の弟3人)のほかの11宮家は、臣籍降下が決まりました。
 きちんと財産管理できた家もありましたが、経済利殖にうとい家がほとんどで、大半は没落の憂き目を見ました。1947年の映画『安城家の舞踏会』(脚本:新藤兼人、監督:吉村公三郎、主演:原節子)は、この時代を描いています。

 皇族華族たち、財産を失ったかわりに、「自由」な身分が目の前にありました。結婚とは、勅許によって家同士が結びつくための政略がほとんど、という時代から、人間同士の心の結びつきの重視、という大変換が起きたのです。

 閑院宮華子が華頂博信に嫁いで、鎌倉の邸宅に住んでいた間、幸せだったのかどうかわかりませんが、夫との間に子をなし、子を育てることに幸福を感じていたと思います。
 しかし、戦後、自由な社会がやってきました。華子は社会活動に進出し、「婦人衛生会」活動のなかで戸田豊太郎と出会いました。戸田豊太郎は、英国に留学。ケンブリッジ大学を卒業し、徳川慶喜の孫喜和子と結婚していました。(喜和子の従姉妹は高松宮家に嫁いだ喜久子)

華頂宮邸室内


 戸田豊太郎と不倫が発覚したのは、夫・博信がクロークルームにいる妻と戸田の現場を見てしまったから。戸田は、妻徳川喜和子と離婚。華頂博信も華子と離婚。



 華頂博信は、1953年12月、早川ルース寿美子と東京ユニオン教会にて再婚。渡米。心理学を学んで学者としてくらしたそうです。寿美子夫人は日本生まれ。2歳で家族に連れられて渡米し、カリフォルニアで育つも、戦争直前に日本に戻りました。夫妻はロサンゼルスに在住。博信は1970年に65歳でなくなりました。

 華子と戸田は再婚したものの、その後、離婚したとか。華子は2003年に死去。共同のニュースによると(2003/05/10 11:25 【共同通信】)
「戸田華子さん(とだ・はなこ=旧皇族、故閑院純仁氏の妹)10日午前4時32分、肺炎のため東京都調布市の病院で死去、93歳。神奈川県出身。自宅は東京都狛江市中和泉5の40の26。葬儀・告別式は12日午後2時から東京都品川区北品川4の7の40、キリスト品川教会で。喪主は長男華頂博道(かちょう・ひろみち)氏。
 戦後皇籍離脱した11宮家のうちの一つ閑院宮家の7代目で、1988年6月に死去した閑院純仁氏の妹。」

 1951(昭和26)年11月1日発行のオール読物 第六巻第11号」で、坂口安吾は「安吾の人生案内」でこの事件を論じています。
 華頂博信の手記を引用したり華子夫人の告白記事を引用しつつ、安吾は、華子を「利口な女ではない」と評し、華頂博信については「一級の紳士」であるとしています。

 華頂侯爵家のスキャンダルがマスコミの格好の話題となったのには理由があります。華頂博信は家庭内のこととしてひっそりことを処理したかったであろうに、身内の手で秘密が世間に知らされました。「
 正式離婚前に、華子の兄である閑院宮春仁王が「華子は過ちを犯したが、家庭に戻るべきであり、華頂博信は、華子を許して家庭におさめるべきである」という手記をマスコミに発表したからです。「妻を寝取られる」という事態が世間の関心を集めてしまいました。

 華子は最初は戸田豊太郎とは結婚などするつもりはなかった、と手記やインタビューで述べています。しかし、離婚が避けられないとわかると、戸田と結婚するつもりであると言い、発言は揺れています。結局のところ、いまで言う「バツイチ」同士の再婚にいたりました。

 そして、数年後、妹の不倫をすっぱぬいた兄、閑院宮春仁も、妹以上のスキャンダルにまみれます。

 閑院宮春仁王(戦後は閑院純仁 1902-1988)は、戦後、妻に逃げられました。陸軍士官(最終位は少将)時代には、当番兵を「親密な従卒」とし、戦後は彼を執事として身近におき、直子妃には手を触れることもなかった。かくあって、戦後、直子は家を出ていきました。

 「妻たる者、一度嫁したれば家を守るべし」と、思っていた春仁は激怒したのだそうですが、妻の眼前でも執事との「尋常ならざる行為」を実行していたのだそうなので、逃げられても仕方がないかと。
 直子夫人が離婚事情をマスコミの前で「陸軍官舎の寝室にベッドがふたつ。ひとつには自分が寝ていて、もうひとつのベッドには夫と当番兵が同衾」と語っていて、現代のワイドショーなんぞの芸能人スキャンダルなんかよりよっぽどスゴイ。

 一条実輝公爵令嬢だった直子(1908-1991)は、姉の朝子が伏見宮妃となり、自身は閑院宮妃となりましたが、44歳頃、離婚を要求。10年も夫と離婚裁判を続けました。夫と執事の交情をマスコミに暴露したのも、そのような泥沼離婚を先にすすめるためであったのだろうと思います。

 戦後、小田原にある閑院宮家所有の敷地に大学を誘致する運動があり、直子夫人がこの折衝にあたりました。大学側の担当者が、高橋尚民。直子は10年も離婚裁判で争ったのち、夫春仁64歳、直子58歳のとき離婚成立。
 1988年に閑院純仁は88歳で死去。閑院家は途絶。

 直子は、離婚成立後、一条家に戻り、直子60歳のときに高橋尚民50歳と再婚。高橋氏は一条家に入り、一条姓となりました。

 宮妃としての半生の華麗にして空疎な生活に比べれば、短大講師の夫と添い遂げた後半生は貧しくとも幸福だったと想像したい。直子は1991年に83歳でなくなりましたが、千葉での葬儀は質素なものだったそうです。
 
 下世話なスキャンダルと言いましたが、「不倫」や「離婚」が話題になるは別段不幸な社会ではありません。女性が家のためでも夫のためでもなく、自分自身の人生を選び取る、ということを社会にしらせた、ということを華頂華子や一条直子が示したのだと言えましょう。

 戦後混乱期の社会をゆるがした皇族華族のスキャンダル。
 壮大な洋館を見学しながら、クロークルームでの間男逢引とか、夫が従卒と同衾している隣のベッドで妻が寝てなきゃなんないとか、そういう運命には出会わずに、モテない金なし夫に不平不満を持ちながら平凡にすごしてしまった女の人生、、、、
 まあ、もうちょっとお金は欲しかったなあ。広大な洋館を建てる暮らしなんぞは望まないけれど、洋館見学、無料なら大喜びし、500円の入館料取られるとなると「高い!」と文句たらたらになる我が生活、どうにもみみっちい。



<つづく>

ぽかぽか春庭「鎌倉長谷こども会館・旧諸戸邸」

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2014/03/13
ぽかぽか春庭@アート散歩>横浜鎌倉洋館散歩(10)長谷こども館(旧諸戸邸)

 2月1日の鎌倉近代建築散歩、最初は旧諸戸邸を訪れました。現在は長谷こども会館として利用されている洋館です。

 2月1日、まずジャズダンス練習会場の抽選会に出席し、4月分の練習場所を確保しました。抽選を待つあいだ、「10時に抽選がおわったあと、どこかに行こうかなあ」とぼんやり考えて、「そうだ、鎌倉に出かけてみよう」と思い立ちました。ひとりででかけるときは、いつもふらっと思いついてのお出かけが多いです。

 鎌倉文学館へ行こうと思って、道を一本間違えてしまい(これはいつものことですが)洋館が見えるなあと思って近づいたら、長谷こども会館(旧諸戸邸)でした。



 旧諸戸邸は、1908(明治41)年に福島浪蔵邸として建てられました。福島浪蔵(ふくしまなみぞう1860−1919)は、明治大正時代に活躍した証券業者。いわゆる「一攫千金の株屋」でした。幕末1960(万延元)年に生まれて株の仲買人となり、日露戦争の「戦争景気」による相場急騰に乗じて売り抜け、巨利を得ました。 1909(明治42)年に福島商会を設立しましたが、1919(大正8)年に60歳で死去。
 家は福島死去の翌年、1920(大正10)年、二代目諸戸清六が手に入れました。



 諸戸家は、江戸時代には大庄屋でしたが、初代諸戸清六の父清九郎が塩取引に失敗し、没落しました。清九郎の四男清六が16歳で家督を継いだとき、借金千両あったということです。幕末に没落した家を相続した初代諸戸清六(1846- 1906)は、家の立て直しをはかって米の仲買から身を起こし、西南戦争時の政府方兵糧調達を機に財をたくわえました。清六は儲けた金で桑名に自家用の水道を設置しのちに市に寄付するなど、社会貢献も行いました。

 初代のあとを継いだ四男、二代目諸戸清六は、父の事業を受け継ぐと、桑名市に大邸宅を建設しました。ジョサイア・コンドル設計の洋館は、ヴィクトリアン様式の木造2階建て(一部3階建て。塔屋4階)で、現在は桑名市の文化財「六華苑」として公開されています。ぜひ、行ってみたい近代建築のひとつです。

 鎌倉の旧福島邸を買い取ったのは、この二代目諸戸清六です。
 鎌倉の旧諸戸邸は、1950(昭和55)年に鎌倉市に寄贈され、現在は、長谷こども会館として、親子がたのしくすごす施設として利用されています。
 私が訪れた2月1日、係りの人に内部見学を頼みましたが、「お子さんを連れて来て遊ぶことはできますが、大人のみの見学はできません」ということでした。残念。



 明治時代の建築物のなかで過ごすことによって、古い建築に目をみはる子供がいるかもしれません。もしかしたら、未来の建築家が育つかもしれません。
 でも、「貴重な建物なのだから、部屋のなかで騒ぐなあばれるな」というようなことであるなら、子供には元気に動き回れるようない頑丈な新しい場所を与えて、古い建築物は資料館などの別の用途に用いたほうがいいような気もします。鎌倉市がここをこども会館として利用することにしたのには、理由があるのでしょうが、部外者にとっては、「せっかくの貴重な明治時代の建築をもったいない」と感じてしまいます。



 できるなら、こども会館としての利用が休館日になる月曜日に、内部見学の機会を作ってもらえるとありがたいです。

<つづく> 

ぽかぽか春庭「鎌倉文学館・旧前田家鎌倉別邸」

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2014/03/15
ぽかぽか春庭@アート散歩>横浜鎌倉洋館散歩(11)鎌倉文学館(旧前田侯爵家鎌倉別邸)

 旧前田侯爵家鎌倉別邸は、前田家15代当主前田利嗣(1858-1900)が、1890(明治23)年頃、鎌倉の土地を手に入れ近代和風の家を建て別邸として利用しました。1910(明治43)年火災類焼によって和館が消失。のち、洋館が建てられました。
 1996(昭和11)年に第16代当主前田利為(1885年-1942自軍制空範囲内での飛行機墜落による死であったが、戦死と認定された)が、洋館の全面改築を行い、昭和11年(1936)に完成。現在の形にしています。



玄関前のアプローチから見る
から見る

玄関前のポーチ


 文化庁が2000年度の国の登録文化財指定のおりに調査発表した文化財リストには
「もと加賀前田家の鎌倉別邸。三方を山に囲われ,南に開けて鎌倉の海を見下ろす広大な敷地に建ち,現在は文学館として活用されている。昭和11年の建設で,設計は前田家建築係の渡辺栄治,施工は竹中工務店。外観はハーフティンバーとスパニッシュを基調とした邸宅建築で,近代の鎌倉に数多く建てられた別邸建築の中でも,規模が大きい。」と書かれています。

 南正面から見ると2階建てに見えますが、斜めから見ると、3階建てであることが、わかります。


 渡辺栄治は、前田家おかかえの建築設計担当者だったということで、他の作品などではっきりしている建築はわかりません。東京の前田侯爵家駒場本館は、東京帝国大学教授 塚本靖と宮内省担当技師 高橋貞太郎による設計で、建築家としての履歴もわかるのですが、渡辺栄治については、長楽山荘を設計したという以外のことは、まったくわかりません。

 元客用寝室。現在は見学者休憩室


<つづく>
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