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ぽかぽか春庭「旧前田侯爵家鎌倉別邸と春の雪」

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2014/03/16
ぽかぽか春庭@アート散歩>横浜鎌倉洋館散歩(12)旧前田侯爵家鎌倉別邸と春の雪

 三島由紀夫はこの旧前田侯爵家鎌倉別邸をモデルに『春の雪』冒頭部分の別荘場面を書き上げました。
「青葉に包まれた迂路を登りつくしたところに、別荘の大きな石組みの門があらわれる。王摩詰の詩の題をとって號した「終南別業」といふ字が門柱に刻まれている。この日本の「終南別業」は、一万坪に余る谷をそっくり占めていた。先代が建てた茅(かや)葺(ぶ)きの家は数年前に焼亡し、現侯爵はただちにそのあとへ和洋折衷の、十二の客室のある邸を建て、テラスから南へひらく庭全体を西洋風の庭園に改めた。」(『決定版三島由紀夫全集』13 新潮社 )

 現在の石門には、何も書かれていませんでしたが。


 王摩詰とは王維の別名です。王維と書けば多くの人が知っている漢詩人なのに、わざわざ字(あざな)のほうの王摩詰と書くところが、三島のペダンチシズム衒学趣味のかわいらしいところなのかもしれません。
 漢学の素養ゼロの私、70年代に読んだとき、王摩詰という名も三島の創作かと思っていて、気にもしませんでした。

 嘘をほんとうにみせ、創作にほんとうとうそを混ぜるのが小説のリアル。腕の見せどころ。別荘が名を持っていた、というのは事実。「終南別業」という別荘名であったというのは、三島の創作。そして「終南別業」は、王維が書いた詩からの引用。王維の名を出さずに、一般にはなじみのない王摩詰を持ち出す。嘘とほんとうの、ないまぜ具合が絶妙です。
 鎌倉文学館の名称。最初の和館別邸は「聴涛山荘」で、焼失後に再建された洋館は「長楽山荘」と名付けられていたのであり、「終南別業」をここにもちだしたのは、三島の創作です。

 三島の母平岡倭文重(しずえ)は、漢学者・橋健三の次女でした。母方祖父から漢学の手ほどきを受けたことがあったのか調べていませんが、戦前の教育を受けた三島の世代では、明治大正の露伴鴎外漱石ほどではなくとも、漢学の素養は十分身についていたでしょう。
 「終南別業」という文字が別荘の石門に記されていたと想像したのは、どこからの思いつきだったのでしょうか。

 橋健三は開成中学校の校長を務めていました。学校の校舎建設地を得るため、1921(大正10)年に前田利為侯爵に土地払い下げを願い出て、前田家の所有地を学園用地として格安で払い下げてもらうという懇意を得ました。そのあたりの関連で、三島も前田侯爵家の鎌倉別邸を知っていたのだと思います。

ベランダ    
 ベランダから鎌倉の海を見る


 前田利為は、1942年、自軍制空範囲内での飛行機墜落によって死去。当初は事故による死亡により、殉職陣死とされたが、のちに「戦死」と認定されました。陣死の場合、相続税を払わねばならず、鎌倉別邸も手放すことになったのかもしれません。戦死認定により、駒場本邸、鎌倉別邸とも、前田家所有のままになりました。

 戦後、この旧前田家鎌倉別邸を佐藤栄作が別荘として使用していた時期があり、近所に住む川端康成と昵懇の仲でした。川端康成の弟子三島由紀夫がともにこの長楽山荘を訪れたこともあったかもしれません。
 佐藤栄作の他、デンマーク大使の別荘として利用されたこともあったそうです。

第1展示室の窓

北面の窓

 1983(昭和58)年に第17代当主前田利建(まえだとしたつ 1908-1989)から鎌倉市に寄贈され、1985(昭和60))から鎌倉ゆかりの文人や芸術作品を展示し、一般公開されています。

照明


 2月1日の鎌倉文学館の展示は「小津安二郎展」でした。小津と母堂の写真や、小津の愛用品が展示されていました。

小津のディレクターズチェア


 2月1日は暖かい日で、鎌倉散歩もたのしいひとときでした。大仏さまのお参りもできたし、鎌倉市が指定建造物としてプレートを出している建物をいくつか見ることができました。四季折々に美しい姿を見せる鎌倉。花の季節にまた行きたいです。

あたたかかったので、ダウンジャケットを脱いでいました。


<おわり>

ぽかぽか春庭「最終講義と教科書編集」

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2014/3/22
ぽかぽか春庭にっぽにあにっぽん語教師日誌>ありがとうさよなら(1)最終講義と教科書編集

 長年、留学生教育に携わってこられたZ教授の最終講義に出席しました。聴講しているのは、常勤の同僚教授たちがほとんどで、数名の留学生。非常勤講師で出席したのは私のほかにはいなかったので、最初は「あれ?場違いのところにのこのこ顔を出してしまったのかな」と思いましたが、講義を聞くことができたのは、とてもよかったと感じました。

 日頃は、ご自身の研究成果についてあまり語ることなく過ごしてこられた方という評を聞いていました。私も直接お説をうかがったことはありませんでしたが、漢字の成り立ちについて留学生向けに書かれた著作を利用させていただいてきました。

 非漢字圏の学生にとって、なぜこの意味をこの図象で表すのか、ということがわかると、記憶に残りやすいと感じていたので、漢字の成り立ちを簡単な英語で説明してあるZ先生の著作が役立ちました。日本の漢字は、常用漢字は2000とちょっと。漢字は、成り立ちによってグループに分けられます。しかし、常用漢字用に漢字簡略化が行われ、グループでまとめて覚えるとわかりやすい意味成り立ちがごちゃまぜになってしまった。
 Z先生は、もとの字形からひとつひとつ洗い直して、グループ分け(漢字系統樹)を完成なさったのです。

 定年退職まで淡々と飄々とすごしてこられたようにお見受けしていたZ先生、長年の勤務のあいだには、いろいろなご苦労もあったことだったでしょう。お疲れ様でした。

 私は、国立大では留学生への日本語教育、私立大では日本語学と日本語教育学を担当してきましたが、国立大学で授業を行うのもあと1年のことになりました。
 毎日の授業に追われるばかりで、日本語教育に関して何も成果らしいことは残してきませんでした。中国で発行される日本語教科書の読解用の読み物と、会話教科書のシナリオ執筆をしたことはありましたが、日本で発行される教科書に関わったことはありませんでした。

 「私の専門は日本語教育ではない、専門は日本語言語文化論」という意識が強かったので、日本語教育に関しては毎日の授業を誠実に行うことだけを考えてきました。
 留学生教育に携わるのもあと1年という時期になって、思いがけず、ふたつの教科書編集に関わることになりました。

 報酬からみたら、限りなくボランティアに近いギャラで、とてつもなく時間のかかる「教科書編集」という仕事を引き受けて、しかも、2種類の教科書を同時進行で進めていくというアクロバットをやっています。

 中学校で習った英語教科書。いくつかの教科書を見比べたことがありますか。教科書を取り扱っている本屋で、何冊かの中学生用英語教科書を比べると、昔の教科書とはずいぶん違っていることがわかります。
 日本語教科書も、私が日本語教育を始めた25年ほどまえには、国際交流基金編集の『初級日本語』という本がもっとも多く使われている本で、あとはそれぞれの大学が独自に編集した教科書などを使っていました。

 現在は、英語圏用、中国語話者用などの教科書も増え、さまざまなタイプの教科書が本屋の日本語教育コーナーにも並んでします。

 私が関わることになったひとつは、日本で学ぶ留学生向けの初級文法教科書。「文法積み上げ方式、オーディオリンガル法中心」という編集方針の教科書でした。
 他の大学や出版社から出ているカラフルなさし絵がいっぱいの教科書に比べると、文法内容がぎっしりで、とても地味な教科書です。この文法積み上げ教科書を課題(タスク)解決型教科書に編集しなおす、という作業を引き受けました。専任教授と非常勤講師2人で、作業を進めました。どのようなタスクを選ぶか、どのような例文を選ぶかで、教科書の雰囲気も変わります。

 たとえば、「〜と」を使う条件文があります。
 「右へ曲がると大学があります」を示し、「まっすぐいくと〜があります」「二つ目の交差点を左に曲がると〜」というような文を学生に作らせる練習問題。現在使っている教科書は、代入問題や文法変形問題という種類の練習問題がほとんどなのです。
 タスクとして、挿絵で地図を表し、Aが道をたずね、Bが答えるという課題を与えます。学生が練習していて楽しく取り組めて、文法が自然に身につくようなタスクを考えていかなければなりません。

 もう1冊は、私が中国に赴任していた時の教科書の改編です。20年前に編集された教科書なので、会話に出てくる文が「ラジカセを買いました」「うちの娘は、いつまでも長電話しているので、私が電話できなくて困ってしまいます」などの文が提出されています。今時、家電で長話をして親に叱られるという子供はごく少ないことでしょう。小学生もめいめいのケータイをもち、「ライン」という機能を使えば友達同士は無料でメールやチャットができるそうなので。

 現在の社会に合わない部分を廃し、中国から日本に留学する学生が、日本の社会をよりよく知ることができるよう、会話文を変えていかなければなりません。
 出来上がった会話文を、専任教授と2人の非常勤講師で検討、変更。何度か書き直しをして、「基礎会話1「基礎会話2」を仕上げます。なかなかたいへんな作業で遅々として進まず、です。 

 たいへんな作業ではあっても、今までお世話になった恩返しのひとつもしなければ、と思って、続けています。きのう、シナリオ最後の部分を書き上げました。留学生が先生にお礼のスピーチをする、という場面です。最後の課は「敬語」を学ぶ課になっていますから、敬語ほか、この課で習う文型を入れた発言になっています。

 紋切り型のスピーチになってしまいましたが、「尊敬語謙譲語」「〜のではないかと思います」などを使ってスピーチする、という「文の型」を取り込まなければならないので、いろいろ制約があり、あまり「ラストスピーチ」の感激はいれられなかったのが残念ですが、ひとまず、初稿提出です。これから延々と2稿3稿と書き直しをしていきます。

<つづく>

ぽかぽか春庭「東京ガイド日本のフツーの家」

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014/3/19
ぽかぽか春庭にっぽにあにっぽん語教師日誌>ありがとうさよなら(2)東京ガイド・日本のフツーの家編

 昨年4月から8月まで半年だけの留学生活で、「もっと日本にいたい、日本で勉強続けたい」と、後ろ髪ひかれながら帰国したチェコの学生。「先生。私は半年後に、両親を連れて日本にまた来ます」と言うので、「ご両親が、観光地だけでなく、日本の普通の家庭をみたいなら、私の姑の家に来てください」と言いました。

 2月14日に、ルカ君一家が来日。大雪の日だったので、当初の予定を変え、大雪の東京を避けて直接関西へ向かいました。関西も雪だったと思うのですが、雪で交通が乱れがちな東京を避けたのは賢明だったのかもしれません。メールでのやりとりを経て、18日にルカ一家を迎えに、都心のホテルまで行きました。

 私は、ドブリーデン=こんにちは、イメヌイセ〜=私の名前は〜、デクイー=ありがとう、 ネニーザチュ=どういたしまして、などの「チェコ語あいさつ簡単会話集」というのをネットからコピーして、紙を見ながらあいさつ。 
 ご両親は、父のヨハンさんが英語カタコトを話せるけれど、ヨハンさんの妻インカさんはまったく英語を離せない。ホテルロビーに雛人形が飾られていたので、しばし、ひな祭りの説明。私が英語日本語ちゃんぽんでルカ君に話し、それをチェコ語に翻訳。 

 地下鉄1時間弱で、姑の家へ。姑はいろいろ準備をしてくれようとするのですが、ものを取り出そうとして一度座ると立つのが容易ではなく、介護が必要。私が料理を始めると、自分の部屋でお昼寝タイムということになりました。

 雑煮、カレー、など、ホテルやレストランのとはちがう、家庭料理を振る舞いました。「和食のつくり方教室」として、おにぎりを自分でに握る体験もしてもらいました。

「日本の家庭食」の次は、「日本の住まい」見学。トイレ、風呂、押入れ、なども残らず見てもらいます。姑は料理は昔から好きでなかったけれど、綺麗好きで掃除は大好きでした。しかし、このところ掃除はヘルパーさんに週に1度頼むようになり、思うように掃除できていないので「汚いのを見てもらうのは恥ずかしい」と言っていましたが、「特別なことではなく、普段の家を見てもらうのだから」と説得して、階段にゴミが落ちているのなんかも気にせずに。

 たいへん狭く小さい姑の家ですが、日本の土地値を知ってもらうために、このあたりだと1平方メートルあたり、60万円だけれど、隣町だともっと高いという話をしておきました。ついでに、東京銀座のいちばん高い土地は、1平方メートルあたり2千万円。世界で土地値がいちばん高いのは香港で、東京は2位だということを話しました。「こんな狭い家にしか住めずに、日本人はかわいそう」と思ったかもしれません。

 「姑は23区内で一戸建ての家に住んでいるけれど、私は団地という名のアパートに住んでおり、私には一戸建てを買うことはとうてい出来ない」と話すと、チェコの田舎なら家が買えるから、チェコに来て住んだらどうかと勧められました。仕事があって、暮らしていけるなら、私は世界中どこにでも行くのですが。

 次は「日本の着物」着付け体験。息子の浴衣と娘の浴衣を着てもらい、「これは日本の夏の衣装です。冬はこちら」と、見せるだけ。お太鼓帯の結び方が出来るかどうか不安だったので、文庫帯を結うだけの浴衣にしました。
 季節はずれでしたが、夫妻はとても喜んで写真を撮りました。

 恰幅のよいヨハンさんには息子の浴衣は小さくて、裄が足りませんでしたが、ヨハンさんは昔『七人の侍』を見たことがあると言って、「私は侍のようだ」と喜んでいました。



 最後の「日本体験」は、「折り紙」と「書道」のどちらをやってみたいか尋ねたら、書道で文字を書くのが難しそうに思えたのか、ご夫妻で「折り紙」と言います。チェコにも独自の折り紙文化があり、ヨハンさんは、子供の頃折り紙をやったことがあるのだそうです。日本の折り紙として「ツル」の折り方を教えたところ、経験のない外国人にはちょっと難しい部分があるツルでしたが、上手に折っていました。出来上がったツルと折り紙の束は、おみやげです。

 来日前にルカ君から「チェコのおみやげ何がいいですか」というメールが来たので「プラハの町の絵葉書をおねがいします」と返信しました。ルカ君一家は、絵葉書と絵本を姑と私両方にプレゼント。それにボヘミアン切子グラスのピッチャーグラスセットを運んで来てくれました。

 私は、絵葉書のお礼に差し上げようと思ったので、折り紙を用意したのですが、もうひとつ浴衣式の寝巻きを用意し、インカさんにあげました。ご主人には着物のプレゼントがなかったので、申し訳ないと思っていましたが、ホテルへ戻る途中に寄りたいという秋葉原で、「たくさん写真を撮ったので、メモリーカードがなくなってしまった」というので、メモリーカードをプレゼント。まあ、これも日本のテクノロジーのひとつを国に持って帰って「これは、日本製のメモリーカードだ」と話のタネになるかと思って。

<つづく>

ぽかぽか春庭「東京ガイドたてもの園と後楽園」

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2014/3/20
ぽかぽか春庭にっぽにあにっぽん語教師日誌>ありがとうさよなら(3)東京ガイドたてもの園と後楽園

 チェコの留学生ルカ君は、日本留学中は「茶道部」に入部し、大勢の日本人の友達ができた社交家です。2月21日は、茶道部の学生と会う約束なので、その間ご両親はホテルで待機している予定と言うスケジュールを聞きました。
 せっかく日本に来たのに、ホテルにいるだけではつまらないだろうから、私がお二人といっしょにいましょう、という約束ができました。午前中は、江戸東京たてもの園で日本の古い建築を見学、午後は、ご両親に大学を見せて、ルカ君は茶道部のサークル仲間との交流会。ご両親は、私がホテルの近辺を案内する、というスケジュールです。

 朝、10時に待ち合わせ。ルカ君のお父さんは電気関係の仕事をしてきたエンジニアで、東芝や日立などの電気会社がチェコで仕事をしたときに関連会社で働いた経験があります。21日は、日本の古い建物に興味があるというご一家を江戸東京たてもの園に連れて行きました。

 西ゾーン中央ゾーンで、江戸時代に建てられた農家、明治の大富豪三井八郎右衛門邸、来日したドイツ人建築家デ・ラランデ邸、日本の政治家高橋是清邸を見ました。

高橋是清邸前のルカ一家


 226事件の背景をルカ君に質問されたのですが、私の英語力では、事件の概略は説明できても、昭和戦前の時代背景をうまくまとめて説明できませんでした。「う〜ん、あとで日本の近代史を読んでください」と終わりにしました。ルカ君の専門は「国際関係研究」です。

 次に東ゾーンで、昭和の町並みと銭湯を案内。共同風呂の説明は、なんとなくわかってもらえましたが、たぶん、ご夫妻の頭の中では、温泉と同じになっていると思います。

 小金井公園の梅林も見てもらいました。夫妻は京都でいろいろなお寺を見たとき、もっともびっくりしたのは、冬なのに花が咲いているのを見たことだと言います。写真に撮った花を見たら、山茶花でした。カメリア(椿)の一種だと説明したのですが、チェコでは冬に花咲くのは見たことがなく、すべての花が枯れるのが冬という季節だ、というのです。
 梅もたいへん喜んで写真を撮っていました。

 次に、大学へ行きました。ヨハンさんは、息子が留学した大学を見ることができて、大いに満足していました。
 大学の食堂でランチをとり、ルカ君は茶道部の仲間と会うためにサークル部室へ。私はご夫妻を連れて後楽園へ行ってみることにしました。

 ルカ君は当初、「神奈川に日本の庭園とたてものが美しいところがあると友人に聞いたが、そこにはどう行くのだろう」と質問してきました。たぶん、三溪園のことかと思いましたが、三溪園に行くには、大学見学と両方を一日でまわるのは無理。そこで、江戸東京たてもの園と後楽園というコースにしたのです。

 後楽園でも梅が咲き始めていました。あいにくと、池の改修工事中で、池まわりの景色は普段よりは綺麗じゃなかったけれど、梅林をまわって、日本庭園のひとつを紹介できたので、喜んでもらえました。

 後楽園の四阿に「水戸御老公の衣装を着て写真を撮ろう」というコーナーがあったので、御老公のちゃんちゃんこや着物を着てパチリ。



 最後は、後楽園から文京シビックセンターへ。23階の展望室から東京のビル群を眺めて、19日に新宿、20日に浅草へ行ってきたというので、「あそこが新宿、あちらが浅草」と、眺めました。東京スカイツリーもよく見えました。

 お二人をホテルまで連れていき、「ふたりは無事、ホテルに帰りました」と、まだ茶道部部室にいるルカ君に電話しました。
 ルカ君は、「私が茶道部の交流会に参加している間、ふたりをどうしようかと思っていたけれど、先生に案内してもらって、とてもよかった」と喜んでいました。

 ルカ君は、「先生がチェコに来る日、私たちは歓迎します」と言ってくれたのだけれど、「たぶん、10年後くらい」と答えました。

 今回、留学生のご両親を案内したことは、私にとっても初めての経験でした。日本語を学習中の学生と出かけるときは、日本語と英語を混ぜながらなんとかコミュニケーションをとることができますが、日本語も英語も離せないご夫妻とすごすのは初めてのことだったのです。おふたりが、私の拙いガイドを喜んでくださったことが、私にとっては大きな収穫でした。

 次に会うのはいつになることかわかりませんが、ご夫妻が東京でいっしょに過ごした2日間を、アルバムをめくりながら思い返す日があるのだと思うと、私もとてもうれしい。
 たぶん、私は、「誰かの思い出の中に残る私」を求めていたのだろうと思います。「ルカ君一家の思い出の中に残る私」を作ってくれて、ルカ君、ありがとう。

<つづく>

ぽかぽか春庭「留学生さよならパーティ」

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2014/3/22
ぽかぽか春庭にっぽにあにっぽん語教師日誌>ありがとうさよなら(4)留学生さよならパーティ

 春3月は卒業シーズン。袴姿で卒業式に向かうの大学生も駅や町に見かけます。留学生にとっても、春は出入りの多い季節です。
 3月9日、留学生の寮で行われたフェアウェルパーティに参加しました。2012年の秋に来日したクラス。教師5人と、帰国予定留学生6名、結婚や大学院研究で日本に残る留学生2名、これから1年の教員研修コースでの学習を始める学生2名の「さよならパーティ」です

 各国から選抜されて日本で教科教授法を研究する「教員研修生」。国では優秀な教師ですが、日本では異文化生活にとまどい、日本語文法や漢字の難しさにネをあげたこともありました。それぞれが困難にもあいながらも、メンバーがとてもなかよく、寮でもクラスでも助け合って2014年の修了式にこぎつきました。

留学生寮B棟(A,B,Cは学部生と大学院生、D棟は研究者棟)


 この日本語力では教員研修の最終発表までたどり着くだろうか、と懸念された学生も、教育学部での授業では「私の専門は英語教授法だから、英語で発表。最終レポートも英語だから大丈夫でした」と、にこにこ発表内容を語っていました。
 フィリピン女性=数学教育、マレーシア女性とラオス男性=英語教育、タイ男性=小学校体育教育、フィジー女性=理科教育、中国男性=家庭科教育、という発表を行ったと報告がありました。

 タイの小学校体育教師として来日し、「日本の体育教育のすぐれている点をタイにとりいれたい」という発表をしていたクリさんは、小学校の体育教師になる前は、タイのプロサッカー選手でした。怪我をして選手としてはチームに残留できなくなり、一時は人生に絶望。しかし、奥さんの励ましもあって小学校体育教師に転身しました。
 タイの体育教育はまだまだこれから、というクリさん。帰国後はきっと自国の教育のためにいっしょうけんめい働くことでしょう。さらなる研究のために、進学もしたいと話していました。

 ときに、英語を混ぜながらも、いっしょうけんめい日本語で発表したドンさん。「日本では小学校から顕微鏡を使った生物学教育ができるけれど、私の国では予算がないから、顕微鏡の使用は中学生からです」と、自国の理科教育がまだまだ発展途上であることを語っていました。
 「中国では男性が女性と平等に家庭の仕事を手伝うのは当然で、家庭科教育というのは教科としては行われてこなかった。でも、これからさらに男性も女性も同じように家庭の仕事を担うために、家庭科教育を充実する必要がある」と熱く語っていたチョーさん。

 ソンさんは、一旦自国に戻って報告を済ませるとすぐに奥さんが教員研修に出かけているオーストラリアに向かうのだそうです。夫婦とも大学教員で、将来母国のの大学教育を背負っていくことになるでしょう。

 教員研修のほか、大学院修士課程で生物学の研究を続けているホセさんもパーティに参加。「そてつLove」の話をしました。研究対象のそてつは、世界に300種くらい存在していて、ホセさんは、遺伝子によってその比較をしているのだそうです。そてつが大好きでとてもすばらしい植物なんだ、と熱心に語ります。「そてつは、恐竜の時代から地球にあった」と、言います。日本には、関東圏には大規模自生地がないので、そてつ採集は九州などに行かなければなりません。研究室ではもっぱら遺伝子研究に励んでいるけれど、実際のそてつの木が好きなんだ、といいます。

 環境研究をしていたシーさんは、永住権を持つ在日中国人と結婚。6月に出産を控えています。マニラに恋人が待っているテルさんは、数学教育が専門でしたが、日本の英語教育会社への就職が決まったとのこと。とても人当たりのいい、明るくて積極的な人柄なので、日本の幼児英語教育という新しい分野でもきっとよい成果を上げることでしょう。一度マニラに帰り、6月から名古屋で研修。夏以後にどこかの幼児英語教室に配属されるそうです。

 日本にいるあいだに旅行した先でどこがよかったかを後輩に披露する「日本語で発表」の時間。それぞれ、富士山、日光、京都、北海道、沖縄など、出かけた先のおもしろかったところを、パーティに参加していた現在の学生に教えていました。
 テルさんの観光地紹介「大阪、たこ焼きを食べました。おいしかったです。広島、お好み焼きを食べました。おいしかったです。北海道、じゃがいもを食べました。おいしかったです、、、、」と、延々「おいしかった」シリーズがつづき、みな大笑い。

 パーティにはそれぞれが手作りの「国の料理」をひとり一品もちよりで、テーブルの上には、いっぱいのごちそうが並びました。
 おなかいっぱいさまざまな料理を食べました。

それぞれのお国自慢料理が並びました。


 最後に、「HAL先生の授業でやったゲームがとても楽しかったから、もういちどやりたい」という学生のリクエストで、フルーツバスケットをやりました。
 初級のいちばんはじめには、「持っていますゲーム」として行います。めがね、とけい、辞書、漢字の本、などの単語を言い、それを持っている人は、丸く並べた椅子を交代します。腕に時計をしているのに、椅子を動かない学生は反則。単語の聞き取りができるかどうか確認するためのゲームとして行います。
 初級後半には、習った文型を発話するための「正直ゲーム」。「今朝、コーヒーを飲みました」「宿題を忘れたことがあります」などの発話に、正直に椅子を移動します。

 今回も「富士山を見たことがあります」「結婚しています」「料理が上手です」などの文を聞いて、キャーキャー言いながら、椅子をとりかえっこしていました。
 ドンさんのお題は「私は太っています」。HAL先生は正直に立ちました。ひとりしか立たないときは、キャンセルですが、私が立ったすきにリナさんがさっと私の椅子に入れ替わってしまい、ゲーム成立。

 HAL先生が教えた日本語を帰国後もどれだけ覚えていてくれるかわかりませんが、留学生の心に「先生が授業でやったゲームがとても楽しかった」という思い出になって心に残っているなら、私がこの大学で25年間続けた授業も、なんらかの積み重ねにはなっているのでしょう。

 それぞれの旅立ち、日本留学をよい経験として旅立ってほしいと願いました。

<おわり>

ぽかぽか春庭「隅田川橋めぐり&浅草寺」

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2014/3/23
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記3月(1)隅田川橋めぐり&浅草寺

 「春のプチ行楽」の一日。
 2月は逃げる、3月は去る、というけれど、寒い日がなかなか去らない3月でした。ようやく日中の気温が15度まで上がった日、娘息子と3人で隅田川水上バスの橋めぐりと浅草寺参拝の「東京お上りさん観光」をしました。なぜかというと、水上バス乗車券をもらったからです。

 東京観光の最初は、新橋からゆりかもめに乗って日の出桟橋まで。
 「お台場の中に通勤している人にとっては毎日のあきあきする電車かもしれないけれど、たまに乗る人にとっては、ゆりかもめはやっぱりイベント感があっていいね」と娘は言います。普段、都内の外出はほとんど地下鉄を利用しているので、ゆりかもめに乗って東京湾を眺めると、非日常の遠出気分になれるのです。

 竹芝桟橋から大島や神津島へ出かけたことは何度かありましたが、そのときは新橋から歩きました。また、浅草やお台場から日の出桟橋に到着したこともありましたが、日の出桟橋から乗船するのははじめてのこと。
 日の出桟橋には赤い御座船がお客を待っていて、修学旅行生が乗り込みました。

 御座船の舳先デッキには、じゃれあう生徒たち。娘は「中学生高校生でクラスメートと船に乗ると、タイタニックごっこをして舳先で両手を広げるのが必ずひとりはいたもんなのに、今の子達はしないんだね」と言います。修学旅行風景も「時代に連れ」なんでしょうね。それに船の形がタイタニック気分ではなかったので、生徒たちは「遣唐使船に乗って大陸へ向かう留学生ごっこ」でもしていたかもしれません。今でも日本史の時間に「道真がハクシ(894)に戻す遣唐使」なのかしら。

御座船「安宅丸」

 
 東京湾一周のレストラン船などながめて「いつか、優雅に食事しながら海を見たいね」と話しながら、14:20発の浅草行き水上バスに乗り込みました。
 上階は、シースルー天井の水上バス。日がさすとぽかぽか暑いくらいです。ダウンジャケットを脱いで、橋見物。

 私は橋めぐりが好きなので、隅田川の橋ほとんどを見て歩き、渡ってきました。河口から浅草までの橋は渡りましたが、浅草から千住までの間の橋のうち白鬚橋と水上大橋を渡ったことがありません。こちらもいつかはコンプリートしなくちゃ。

 道路から歩いて橋を渡るのと、川面から上を見上げての橋見物は、だいぶ趣が違います。
 東京湾花火を見に行くときに渡った勝鬨橋。鋼斜張橋のハープのようなラインが美しい中央大橋、ドイツケルンの橋と似たデザインという吊鋼橋の清洲橋。、娘に、「下町めぐりをしたときに清洲橋を渡ったね」と話しながら橋の下をくぐりました。総武線に乗って隅田川を渡る時にいつも眺める両国橋、それぞれの橋に思い出があります。

 外国人観光客も乗っている水上バス。「左手の緑は浜離宮でございます」「築地の市場が見えてまいりました」などの案内を聞きながら左岸右岸をながめて、40分ほどで、浅草の吾妻橋のたもとの船着場に到着。

吾妻橋からのながめ


 浅草松屋の屋上から東京スカイツリーをながめてから、遅めの昼ご飯。「下町洋食」という娘と息子の希望でしたが、私の希望で神谷バーの2階でランチ。1階のバーで電気ブランを飲んだことがあるのですが、2階はどんなレストランになっているのかなあと気になっていました。昭和レトロっぽいのを期待していましたが、ごくフツーの食堂でした。1階は観光客や常連客で混んでいましたが、2階はお昼ご飯と夕食の間の時間だったので、すいていました。

 浅草寺。いつもは雷門の大提灯を見て仲見世を通って本堂をお参りしておわり、なのですが、娘が「浅草寺コンプリート」をめざして、全部の建物にお参りするというのです。いつもは行ったことのない、影向堂、淡島堂、弁天堂などもぐるりとお参りしました。三社さまの神社にもお参りして、きっとご利益たっぷり。

浅草神社


浅草寺五重塔


 上野駅の駅ナカで夕食のお惣菜と、すっかりファンになったメルヘンのフルーツサンドイッチを買って帰りました。
 娘、息子といっしょに春休みの一日をいっしょにすごせて、心もぽかぽかになった一日でした。

<つづく>

ぽかぽか春庭「春のコンサート・中南米クラシック」

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2014/3/25
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記3月(2)春のコンサート・中南米クラシック

 毎年出かけている、東京楽友交響楽団の春のコンサートに出かけました。錦糸町のトリフォニーホール。1:30開演ぎりぎりに席につきました。

 3月16日の第96回定期演奏会のテーマは、中南米の音楽。指揮は田部井剛。曲目は前半が、G・ガーシュウシン(1898-1937USA)「キューバ序曲」、A・ヒナステラ(1916-1983アルゼンチン)『組曲エスタンシア作品8a』、休憩の後、H・ヴィラ-ロボス(1887-1959ブラジル)『ブラジル風バッハ第4番』、S・レブエルタス(1899-1940メキシコ)『組曲マヤ族の夜』、アンコールがカステリャーノス(Evencio Castellanos、1915-1980ベネズエラ)『パカイリグアの聖なる十字架』

 私はガーシュインの曲は『ポギーとベス』『ラプソディ・イン・ブルー 』『アイ・ガット・リズム変奏曲』などで馴染みがありますが、他の中南米の作曲家については、まったく名前も知らず、いかに私たちの音楽体験が欧米に偏ったものであったかを感じました。
 中南米の作曲家というと、ピアソラくらいしか頭に浮かばなかったのですが、今回聞くことができたアルベルト・ヒナステラは、そのピアソラの先生だった音楽家だとのこと。

 曲は、やはりリズムがとても印象的で、キューバ序曲で使われている「クラーベ」というリズムをはじめ、打楽器を効果的につかった曲が続きました。
 最後の『マヤ族の夜』では、パーカッションが14人という大編成。ドラもゴ〜ンと鳴るし、クラベス、パンデイロなど中南米打楽器、普通クラシック曲では見かけることの少ないホラ貝(コンチホーン)もブォ〜という響きを加えて、大迫力の音になっていました。

 アマチュアオーケストラとして50年以上の実績がある東京楽友交響楽団、今回の選曲は、私にはとても刺激的でした。駅へ向かう帰り道ではご夫婦らしい二人連れが「いやぁ、無料でこんなに感激できるなんて!」と話し合っていました。ほんとうにレベルの高いオーケストラだと思います。

 ただ、毎回感じることですが、クラシックコンサートの観客は、ぐるりと客席を見渡しても白髪禿頭の一団。これらの老人たちが杖をついても外出できない、ということになったら、クラシックコンサートというのも維持できなくなっていくのでしょうか。
 歩けるうち、耳が聞こえるうちは、アマチュアオーケストラのコンサートに通いたいと思っています。

 クラシック音楽界、年初からこの3月まで、「現代のベートーベンは偽者だった」という話題が賑やかでした。私はNHKのドキュメンタリーを見なかったので、youtubeで「ヒロシマ交響曲」を聞いて、「あら、よい曲じゃないの」と思い、高橋大輔選手のソチオリンピックのショート曲の「ヴァイオリンのためのソナチネ」も、「高橋が、誰が作曲したのであっても、曲を気に入って使用している、と言っているんだから、それでいいじゃないの」と思いました。ソチでは、作曲者名空欄のまま使用されました。

 同僚の先生のひとりは「私、NHKのドキュメンタリー見て感激して、その晩のうちにアマゾンで注文してCDを買ったのよっ」と、怒り心頭状態でした。CD買ったりしたら、「だまされた」と感じたのかもしれませんが、私は買っていないし。
 結局、みな音楽ではなく「全聾の被爆二世作曲家」という物語を消費したのであって、音楽は付けたしだったのでしょう。

 私がyoutubeで聞いて「あら、いい曲ね」と思ったヒロシマ交響曲も、音楽の専門家が聞くと、あちこちの作曲家の作品を切り貼りして混ぜ合わせたものだと、わかるのだそうです。「ああ、この部分は、だれそれの曲のコピー、ここは、あの曲から」と、譜面を見れば、モトネタがわかったということです。
 美術の世界ではコラージュ(糊貼り)という技法もあり、便器にサインしても作品になるのに、音楽って難しいんだなあと、シロートは思いました。

 コラージュ作曲が得意であったゴーストライターの新垣隆さんも、もうこれで音楽家としてこの業界で生きていくのは難しいらしい。ゴーストをやっていたことが問題なのではなくて、自分からゴーストライターであることを発表したのがいけないんですって。ゴーストライターを使うことは、音楽業界でも美術業界でもいろいろあるらしいし、書道界では全日展書法会前会長の龍源斎大峰氏が、各地で開催の書展で、知事賞受賞作品を偽名でで書いて、自分自身に賞をだして受賞作ねつ造を行っていたと判明。絵も音楽も書も、ナンダカナー。

 芸術作品の評価というのは、かくのごとくむずかしい。高橋大輔のように「だれの作品であっても、好きな曲だから使用した」と言いきったほうが、すがすがしい。

 音楽に関しては、自分の耳で聞いて、自分で楽しめればそれでOK。それ以上のことはないし、今回は中南米の作曲家のラテンのリズムが楽しい曲を聞けて、楽しい日曜日になりました。東京楽友交響楽団のみなさん、すてきな音楽をありがとうございました。

<つづく>

ぽかぽか春庭「至誠のカトレア吉岡彌生伝by水織ゆみその2」

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2014/03/27
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記3月(3)至誠のカトレア吉岡彌生伝by水織ゆみその2

 歌ものがたり「至誠のカトレア」
 第二部の曲目は。♫二人でいれば ♫女女女 ♫モンデュー神様 ♫愛の詩 ♫校歌 ♫マイウエイ ♫生きる

 病気がちだった吉岡荒太の手助けをして至誠学院の運営をする一方で、彌生は飯田町に「東京至誠医院」を開業。
 病気を抱えた荒太は治療を優先して学院を閉鎖し、彌生の病院を支えることになりました。

 彌生が学んだ済生学舎が女性の入学を中止したことを憂えて、彌生は至誠病院の中に、女性が医学を学ぶための「東京女医学校」を設立。1900(明治33)年のことでした。

 医学校を専門学校に昇格させるために、彌生は官僚との対外的な折衝をこなし、病身の荒太は学校内部の運営にあたる、という分業でした。男が前面に出て女が奥を守るという従来の役割分担だったらもっとスムースにことが運んだのかもしれませんが、夫妻には「女が前面にでてはいけない」という考え方はありませんでした。

 しかし、現実の折衝では「女だから」と、お役人たちに軽くあしらわれることが続きました。彌生はそんな世間の目にもたじろがず、辛抱強く交渉を続け、ついに1912(明治45)年、東京女医学校は、東京女子医学専門学校(東京女子医専)となりました。

 ゆみさんは、ファムファムファムと、♫女女女という歌を歌っていました。女を揶揄する男たちの声をさらりと受け流して、前にすすむ彌生を表現していました。
 「女だから」と言われて苦労したことがある人には、そうそう、男社会に切り込んでいくのは並大抵のことじゃなかったのよね、と頷けるのでした。 

 女医専は年ごとに医師開業試験合格者を出し発展していきましたが、ともに苦労してきた夫荒太は病状が悪化して、1922(大正11)年、55歳で死去。
 ゆみさんは、愛する人を失った悲しみを♫モンデュー神様、という曲に託して歌いました。愛する人にひと時でもいいから命を与えてください、と願う歌、せつせつと心に染みました。

 荒太の死、1923年の東京大震災による校舎への打撃など数々の試練を乗り越えた彌生でしたが、昭和の長い戦争の時代になると、傷病兵への看護をはじめ、「銃後の女性」の役割を果たすことになります。
 婦人国策委員第一号、愛国婦人会評議員などの華々しい活動。しかしその「銃後の活動」は、戦後になると「戦争協力者」のレッテルとなり、公職追放という重い処分が与えられました。

 彌生が公的な仕事に復活するのはGHQよる占領が終わって、日本が独立して以後になります。
 1952年、女子医学専門学校は念願の新制大学となり、今日まで女医や看護師の養成、大学病院での医療、研究を続けてきました。
 ゆみさんは女子医科大学の校歌を歌い、彌生の歩んできた道を振り返って♫マイウェイを歌いました。

 2月6日の舞台とは違う時の歌声ですが、水織ゆみ歌唱のマイウエイ
https://www.youtube.com/watch?v=WwV86C_1h34

 吉岡彌生伝「至誠のカトレア」最後の曲は♫生きる
 ゆみさんの歌うシャンソンは、ほとんどご自身の訳詩で歌うので、一般的に歌われている「生きる-最後の意思」とは歌詞がちがったように思いましたが、おおよその内容は、「自由にやりたいことをやり遂げてきた人生。後悔などなにひとつない。たとえ、家が無くても、くつ一足さえなくても、生き抜いていく。それが最後の意思。生きる、生きる、生きる、、、、Vivre, vivre, vivre, vivre、、、、、
 そんな内容の歌詞です。88年間をせいいっぱい生き抜いた吉岡彌生の人生を締めくくるのにふさわしい選曲だったと思います。

 吉岡彌生の生涯を歌い納めて、あとはお楽しみのアンコール。華やかな衣装に着替えてのアンコールも堪能して、 終演後、ロビーに出てきたゆみさんといっしょに写真をとってもらいました。

                終演後のロビーで
ファンと握手しているゆみさん

 おさげ髪の少女のときも、華やかなドレスに着替えたアンコールのときも、ゆみさんはひときわ輝き、すてきでした。 
 ゆみさん、すばらしい舞台をありがとうございました。
 
<つづく>

ぽかぽか春庭「至誠のカトレア吉岡彌生伝by水織ゆみ その1」

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2014/03/26
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記3月(3)至誠のカトレア吉岡彌生伝by水織ゆみ その1

 2月6日、シャンソンコンサート水織ゆみ「プチコンセール冬hivier」を聞きました。
 木曜日に仕事が休みになるミサイルママと、渋谷伝承ホール(渋谷区文化総合センター大和田)に現地集合。夜の部は『至誠のカトレア吉岡彌生(よしおかやよい)伝』でした。

 新宿区市ヶ谷河田町に建つ東京女子医科大学。その創始者である吉岡彌生(1871-1959)の伝記をもとにした「歌ものがたり」のステージ、すばらしい「ソロ・ミュージカル」でした。台本、歌の選曲、演出、歌唱、すべてをひとりでこなして、すごい才能だなあと、あらためて感じ入った舞台でした。

 ピアノ(金益研二)と二胡(曹雪晶)の伴奏。二胡の響きがとてもよかったです。
 第一部で歌われた曲は
♫明日へ ♫さくらんぼの実る頃 ♫人生はコメディ ♫東京ラプソディー ♫私は出来る ♫あなたがいれば 

 タイトルの「至誠のカトレア」を解題すると。
 至誠は、吉岡彌生の夫、吉岡荒太(1868-19)が設立したドイツ語学校、東京至誠学院病院と、夫妻が設立した「東京至誠病院」にちなんでいます。
 カトレアは、彌生のシンボルフラワーです。明治の女子教育界の3人の教育者のうち、津田梅子の花は、その名から梅。日本女子大学の成瀬仁蔵のシンボルの花は、桜と楓。2000年に発行された「日本の私立女子教育百年記念切手」のデザインになっています。女子医科大学の同窓会などでも、カトレアはシンボルフラワーになっているようです。



 幕があがると、舞台脇の花道から老女が登場。晩年の吉岡彌生に扮したゆみさんです。冗談を言って客をわらわせながらすっと舞台に客を引き込んでしまう、ゆみさんらしい登場です。舞台を見渡し、そこが新宿河田町の東京女子医科大学の前であると語り始めます。今は亡き夫、吉岡荒太に「私たちが作った医学校がこんなに立派になりましたよ」と語りかけ、過ぎし日をしのびつつ、上手へ。

 上手から、一転、老女はかわいらしい少女の姿になって登場。おさげ髪の愛らしい姿に、客席はわっと湧き上がりました。観客はゆみさんと同年輩の方々が多く、自分と同じ年のはずのゆみさんが、少女になりきって演じているのを見て、思わず自分の若かりし日の姿を思い出したのかもしれません。

 お転婆な少女は村のガキ大将と喧嘩しつつも、父と同じ医者になりたいと夢を語ります。しかし、女の子は嫁に行って家庭に入るのがいちばん幸せと信じている父はなかなか上京を許してくれません。ようやく上京を許されたとき、彌生は19歳になっていました。上京シーンで歌われる東京ラプソディ。客席に降りて歌うゆみさん、はじめて東京を見た初々しい少女の心が弾む、楽しい歌声でした。

 1889(明治22)年に彌生が入学した済生学舎は、明治時代の国家試験「内務省医術開業試験」の合格を目指す学生のための学校でした。男子学生のひやかしや妨害にめげず、彌生は猛勉強の後、1892(明治25)年に医師開業試験に合格しました。
 彌生はさらにドイツ留学を夢見て、ドイツ語習得をめざします。入学したドイツ語学校で教えていた院長が吉岡荒太(1868-1922)でした。

 吉岡荒太は、祖父、父とも佐賀の漢方医だった家系でした。荒太は、西洋医術を習得せんと志して19歳で上京しましたが、学資が不足し、ドイツ語教師をしながら独学で医師開業試験の受験を続けました。荒太は開業試験の前期試験に合格したところで、自分自身の受験を中断し、弟たちのための学資稼ぎを優先したのです。学資稼ぎのための作ったドイツ語学校至誠学院に入学してきたのが、鷲山彌生でした。

 鷲山彌生は、荒太と出会ったとき、24歳。医師開業試験に合格して2年半たったところでした。1895(明治28)年ふたりは結婚。
 ♫あなたがいれば♫を、荒太と彌生のラブソングとして歌って、第1部はおひらきです。

 アクアヌーヴォー(水織ゆみメール通信)添付写真より 


<つづく>

ぽかぽか春庭「私がリケ女だったころー夢見るころを過ぎても」

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2014/03/27
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記3月(5)私がリケ女だったころ-夢見る頃を過ぎても

 水織ゆみのシャンソンプチコンセール『至誠のカトレア吉岡彌生(よしおかやよい)伝』
 舞台がおわり、水織ゆみさんといっしょの記念撮影もおわって、晩御飯を食べに行きました。ミサイルママが「私、晩ご飯食べていないから、いっしょに食べよう」というので、ジャスダンス仲間5人でゆみさんの舞台の感想を語り合いながら、遅い晩ご飯をとることになったのです。私はゆみさんの舞台が始まる前に夕御飯を食べたのですが、夕御飯と晩御飯は別、と思ってもういちど食べました。だから太るんだってことは承知で。

 ミサイルママが「吉岡彌生って、ゆみさんの舞台見るまで知らなかった。東京女子医大つくった人だったんだね。e-Naちゃん、この人のこと、知ってた?」と聞くので、「私、田舎から東京に出てきて、いちばん先に見たのが吉岡彌生の伝記映画だったの。私、東京女子医科大学の内科検査室で検査の仕事やってたんだよ」と話しました。

 20歳で東京に出て、東京女子医科大学の「内科研究助手」という仕事に就きました。新入の職員に与えられた仕事の一番最初が「学祖の事績を知る」ということでした。学祖、吉岡彌生ついて、伝記映画を見るまで、その名も知りませんでした。楠本稲(シーボルトの娘。幕末明治時代の最初の女医)や荻野吟子(明治の国家試験による女医第1号)は知っていたけれど、上京するまで吉岡彌生について聞いたこと読んだこともなかったのです。

 配属された内科検査室で「研究助手」って何をするのかもわかっていませんでした。仕事は、臨床検査技師といっしょに検査をやるってことがわかりました。え〜、そんな専門的な仕事、私がやっていいいの?と思いながらも、教わりながら、尿検査、血液検査のやり方を覚えていきました。臨床検査技師の指導のもとに補助をするという名目ではありましたが、実質的には、次々と検体をこなさなければならず、覚えることがたくさんありました。

 顕微鏡を覗いて修業中         検査中     
  
 写真で見ると、私もリケ女ふう。割烹着でなく、フツーの白衣を着て仕事していました。

 内科検査室はとてもなごやかで、よい職場でした。他の人達はみな臨床検査の専門学校を卒業した、れっきとした技師さんたち、男性ひとりと、女性7人です。斎藤室長はじめ技師さんたちは、何の資格もない助手だった私に、分け隔てなく仲間として親しんでくれたし、検査技術のいろいろなことを教えてくれました。最初は尿検査ばかりで尿糖の測定をやっていましたが、やがて血液画像を見て、健康な白血球と異常のある白血球像を見分けることもできるようになりました。

 仕事を始めてから1年後に内科検査室長から試験を受けるように言われて、順天堂大学病院で「衛生検査士」の試験を受けて合格しました。内科検査室長は自分で受験を勧めたのに、「えっ、1回目の受験で合格したの!」と、驚き、「3年くらいかけて合格できればいいと思っていたんだけど、合格しちゃったなら、まあよかった」と、言いました。

 「衛生検査技師」は、臨床検査技師とほぼ同じ検査業務ができますが、心電図検査や脳波検査、肺機能検査などの生理学的検査はできません。
 2011年に、衛生検査技師資格は、臨床検査技師と統合されて、新規にこの資格をとることはできなくなりました。しかし、2011年以前に取った資格は有効なので、もし、私が病院で働こうと思えば、理屈としては検査業務ができることになっています。どこの病院も採用してくれないでしょうけれど。

 1970年の東京女子医科大学にあった病院の建物は、ほとんどが新しいビルに変わっていて、歴史的建造物である一号館が残っているくらいです。内科検査室という部署も改変されて、今はありません。
 上京したばかりの私がすごした東京女子医科大学。短い間だったけれど、なつかしく思い出深い場所のひとつです。

 私にとって内科検査室が居心地のよい暖かい場所だったのは、なによりも「女性が職業を持って社会に生きていく」ということを大切にした吉岡彌生の精神がずっと生きていたからだったと、水織ゆみさんの歌ものがたりを聞きながら思いました。

 あのまま、女子医大の検査室に残って仕事を続けていたら、また別の人生だったんだろうなあと思います。でも、衛生検査技師の資格をとるとまもなく、内科検査室の仕事をやめてしまいました。どんなに努力しても、私は徹底的に文系の人間であり、リケ女ではないと思うようになったからです。

 地元の地方公務員をやめて上京し、病院の仕事もやめて、3番目の仕事は、船会社の英文タイピスト。私の13回転職の最初の3つです。5番目が中学校国語教諭で、6番目が旅回りの役者。半年だけプロの役者やったけれど、できちゃった婚で終了。13番目の仕事が大学講師。これは現在まで25年間続いています。

 夢見る頃だった20歳。年月は遥か遠くまですぎてしまいました。髪は白髪になり、体重は20Kg増しとなりましたが、今の私はわたしで、夢見ているんです。実らぬ夢のダイエット?いえいえ、夢は大きく果てしなく。

20歳、夢見る少女だったころの春庭(女子医大構内で)


女子医大でのスナップ

 現在、東京女子医科大学の研究チームは、言語の文法機能を司っている脳の部位をつきとめたのだそうです。ことばの探求は、広く深くどこまでも。

<おわり>

ぽかぽか春庭「2014年3月 目次」

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by PJ.TaKo

2014/03/01
ぽかぽか春庭>2014年3月 目次

03/02 ぽかぽか春庭@アート散歩>横浜鎌倉洋館散歩(1)外交官の家
03/04 横浜鎌倉洋館散歩(2)ブラフ18番館
03/05 横浜鎌倉洋館散歩(3)ベーリックホール
03/06 横浜鎌倉洋館散歩(4)エリスマン邸
03/08 横浜鎌倉洋館散歩(5)えのき亭&山手234番館、山手資料館
03/09 横浜鎌倉洋館散歩(6)山手111番館の蝶々さん
03/11 横浜鎌倉洋館散歩(7)イギリス館
03/12 横浜鎌倉洋館散歩(8)旧華頂宮邸の宮家スキャンダル
03/13 横浜鎌倉洋館散歩(10)長谷こども館(旧諸戸邸)
03/15 横浜鎌倉洋館散歩(11)鎌倉文学館(旧前田侯爵家鎌倉別邸)
03/16 横浜鎌倉洋館散歩(12)旧前田侯爵家鎌倉別邸と春の雪

03/18 ぽかぽか春庭にっぽにあにっぽん語教師日誌>ありがとうさよなら(1)最終講義と教科書編集
03/19 ありがとうさよなら(2)東京ガイド・日本のフツーの家編
03/20 ありがとうさよなら(3)東京ガイドたてもの園と後楽園
03/22 ありがとうさよなら(4)留学生さよならパーティ

03/23 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記3月(1)東京おのぼり観光・隅田川橋めぐり&浅草寺
03/25 十四事日記3月(2)春のコンサート中南米クラシック
03/26 十四事日記3月(3)至誠のカトレア吉岡彌生伝by水織ゆみ第1部
03/27 十四事日記3月(4)至誠のカトレア吉岡彌生伝by水織ゆみ第2部
03/29 十四事日記3月(5)私がリケ女だったころ-夢見る頃を過ぎても

ぽかぽか春庭「桜さいて13回忌」

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2014/4/01
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記3月(1)桜さいて13回忌

 3月25日、上野公園の桜、ひと枝ふた枝と咲き始めていました。30日には満開になりましたが、あいにくの雨とつよい風。お花見は晴れてから。
 3月後半は、法事がふたつ。姉と舅、ともに13回忌です。

 舅が2002年の3月に亡くなって、7回忌までは姑が気力で主催しました。
 今年の13回忌。姑は、このところ足腰が弱くなって外出がたいへんになってきました。姑の希望で、自宅で形式張らずに「おじいちゃんの思い出の会」という形で、内輪だけでする、ということになりました。命日が3月25日なので、その前の土曜日か日曜日に、内輪だけでやりましょう、ということになり、22日土曜日に姑宅へ。

 舅が亡くなってから、10年余、「未亡人生活」を楽しんできた姑ですが、米寿すぎから気力が衰えてきました。ラジオ体操をしに毎朝公園へ、週に1度ずつ、詩吟、書道、童謡を歌う会、老人会とお出かけしていたのが、ひとつお休みし、ふたつ休会し、と出かけなくなりました。
 外出も、今のところ病院通いだけにしています。歯科、内科の診察や検診には娘がつきそい係をしてくれるし、週1回のデイケア体操教室のときは、門前までお迎えのバスがきてくれるので、楽しみに出かけています。

 姑は、iPS細胞の山中伸弥京都大学教授のファンで、新聞に山中先生の記事が出ると熱心に読んでいました。「この細胞で治療できれば、手術なんかしなくても内蔵の悪いところも治るんでしょ。だったら、私、あと100年くらい生きられるんじゃないかしら」と、大喜びだったのです。
 「いや、人に臨床治験できるまでには、まだまだかかるんじゃないの」なんて見通しは、言わなくていいんです。「そうだよね、早く人間にも使えるようになって、どんどん病気が治るといいね」と、「明るい未来」を話していれば、それだけで寿命も延びるというもんです。

 小保方かっぽう着さんの「紅茶くらいのストレスで細胞初期化」については、姑があまり理解しないうちにダメ出しが出てしまったので、「もっと長生きできそう」という期待値を大幅UPせずにすんで、がっかりしなくてよかったのかも。

 2月、東京にも大雪が降りました。2月の大雪のあとも、「おばあちゃんの雪中通学の話」を聞きました。雪を見るたびに「鉄の鋲を打ったかんじき履いて、1時間かけて駅まで歩き、それから1時間汽車にのって女学校へ通った」という思い出話を繰り返すのです。ユキ子という名前なので、雪の話が大好きなのかもしれません。
 私も娘もなんども聞いていますが、娘も「桃太郎の話を何度繰り返して聞いてもいいみたいに、おばあちゃんの昔話は何度聞いてもいい」と言います。

 食事は、パーティ料理ケータリング専門の店から、オードブルセットというのを取り寄せました。オードブル、サラダ、メイン料理、サンドイッチ、ピラフ、ケーキ、というセット。姑はこのセット「まあ、ケーキまで宅配してくれるのねぇ」と、気に入ったようだったので一安心。事前に「出前をとります」と、説明して承知してもらっていたのですが、「嫁がちゃんと料理もしないで出前を取ることにした」と思っているかもしれないなあ、と心配もしました。でも、掃除好きだけれど料理はあまり好きではなかった姑、デリバリーも気に入ってくれて、よかったです。

 味にうるさい娘は「テーブルに並べたとき、見た目は豪華に見えるけれど、味はイマイチだった」と評したデリバリーでしたが、姑は「ピラフがおいしかった」と、喜んでいたので、今回はこれでよしとしました。

 姑と夫は「宗教より科学、合理的思考が一番」の人で、お墓も仏壇もいらない、という考え方の人なのですが、舅が亡くなったあと、「山形の親戚の手前」、家に仏壇をおくことだけは承知しました。舅の兄弟は長寿一族で、舅の長姉は100歳を超えてまだ存命です。兄弟のうち末っ子の舅が2002年に82歳で亡くなった時、親戚中から「早死にしてしまった」と言われたものでした。

 「山形のご本家のお寺に入れるのが筋だ」と親戚のご長老方に言われても、「遠くのお寺でたまにしかお墓参りできないより、近くの便利なところに」という合理的判断の姑でしたが、今回の13回忌は、その都心のお寺にさえ歩いていくことが難しく、今回は自宅で、ということにしたのです。それでも姑が「十三回忌法事をやり遂げた」という気分になって、満足しているので、嫁としては「やれ、これで一安心」でした。

<つづく>

ぽかぽか春庭「桜吹雪13回忌」

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2014/4/02
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記3月(2)桜吹雪13回忌

 4月10日は姉の命日です。13回忌法事は3月30日に故郷の菩提寺で行いました。
 短かった姉の一生でしたが、なくなるとき「思いのままに生きてきて、私は幸せだった」と言って旅立ったので、残されたものたちも心静かに見送ることができました。今おもえば、いつも周囲の人達の幸せを考えて生きてきた姉の最後の優しさから出たことばだったろうと思うのです。
 ホスピスの庭に咲く桜を、いっしょに眺めたのが最後の思い出です。桜吹雪忌13回目。



 姉は54歳で早死してしまいましたが、孫を4人見ることができたので、私の母が55歳でなくなったとき孫を一人も見ていなかったのに比べたら「孫をあやす幸福」は味わえました。しかし、4人の孫の成長を見届けられない悲しさ、シングルマザーとしてこの孫たちを育てていこうとするたよりない長女への心配、さまざまな不安がいっぱいあったに違いない。それでも愚痴をこぼさず旅立った姉、ほんとうに思いやりにあふれた立派な最期だったと思います。

 3月30日の姉の法事では、ふるさとのお寺でお経と説教を聞いたあと、両親と姉が眠るお墓にお参り。朝からの雨がいちばん強い時のお墓行きで、お線香に火をつけるのも一苦労でした。

 いつも天から見守っているから両親も姉も知っていることだと思うけれど、昨年、妹の孫がひとり増え、姉の孫がひとり増えたことを、私の両親にとっては、8人目のひ孫、姉には、5人目の孫ができたことを報告しました。私自身は「死んだら千の風になる」派なのですが、姉は「死んだらだれでもカルシューム」と言っていたので、カルシュームとなった骨も姉だろうと思って、墓前での報告です。

 昨年は、姉の次女が結婚5年目でようやく男の子に恵まれ、妹の次女には、上ふたり男の子だったあと待望の女の子が生まれました。
 姉の長女のところの孫4人、一番上は看護学校へ進学、末っ子は今年高校入学。姉が亡くなった時、2歳だった末っ子がもう高校生。空から見守ってきた姉も一安心でしょう。姉の長女は介護施設の職員となって4人の子供たちを育ててきました。みなよく頑張ってきたと思います。
 孫をひとりも見ないうちに死んでしまった私の母ですが、孫6人、ひ孫8人、天からまた見守ってくださいと、お祈りしました。



 近所のレストランで妹一家、姪一家といっしょに食事をしました。
 妹とはときどき電話で話すし(妹が一方的に1時間くらいしゃべりまくる)、姪たちの動向は、mixを見て知っているのですが、やはり姪のこどもたちの顔を見れば、成長ぶりもわかります。
 お墓参りや法事というのは、死んだ人のために行うのではないと思っています。亡き人が自分たちを見守っていてくれると考えて、安心のよりどころを得るため、また生き残っている者たちがこういう機会にあつまって、それぞれの家のことを先祖に報告するという形で互の動向を伝え合うためだと思っています。

 妹は、3月30日法事の前、28日と29日は、埼玉アリーナでフィギュア世界大会の男子フリー女子フリー、アイスダンスを観戦。私は今回は家でテレビ観戦でしたが、生の迫力ある試合のようすを妹のおしゃべりで味わうことができました。いつもは腰が痛くて立ったり座ったりがたいへんだからと、スタンディングオベーションをしない妹も、今回はさすがに男女金メダルの演技に痛さこらえて立ったそうです。

 姉の孫、妹の孫たちの成長もうれしいですが、ジュニア大会出場のころ、小学生の時代から見続けてきた浅田真央選手、羽生結弦選手を応援してきたので、その成長のようすを応援するのはとても楽しかったです。今回、表彰台に上るのを見た話を妹に聞くと、女子のほうだけでも妹といっしょに見ておけばよかったとちょっと後悔。真央ちゃんは現役出場は最後になると言っていたのに。お金がないもんで、チケット代を惜しんでしまいました。

 ふるさとの桜は3月30日にはようやく「開花した」というところでした。銀メダルのリプニツカヤ選手は日本の桜が見たかったとのこと。さいたまや東京で満開の桜、堪能できたでしょうか。
 鈴木明子選手、真央ちゃん現役引退のあと、若い選手がつぎつぎに花開いていくのを見ていきたいです。

 両親にとってのひ孫たち、若い時代を存分にすごして、花開いていってほしいと願いました。


 4月2日、皇居東御苑、近代美術館の周辺を歩いて、ぽかぽか陽気のなかお花見散歩をしました。


 <つづく>

ぽかぽか春庭「動物園プチクラス会」

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2014/04/03
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記春(3)動物園プチクラス会

 女子高クラスメートのやっちゃんからの葉書を受け取りました。
 「このところクラス会に顔を出せないでいたひとりと会うことになって上京するから、いっしょにどうですか」という連絡です。

 ハガキには「妙義山に登ったとき、ハルちゃんが妙義の大砲岩で逆立ちしたのを今でも思い出します」と書いてあり、びっくり。女子高時代、やっちゃんといっしょに自宅から自転車で2時間かけて妙義山に到着し、ふもとに自転車を置いて頂上まで登ったことは覚えていたのですが、「大砲岩で逆立ちした」なんてこと、さっぱりと忘れていました。元気いっぱいの高校生でしたね。今ではすっかりくたびれたオバアになっていますが。

 3月25日に集まることになったのは、葉書をくれたやっちゃん、千葉に嫁に行ってから一度も会っていなかったせきちゃん、ずっとクラス会の幹事を続けているひさちゃん。幹事のひさちゃんから毎年クラス会の案内をもらうのですが、私は、クラス会に1度参加しただけ。地元の温泉一泊のクラス会です。

 みなが子育てを終えてクラス会出席を楽しみにしだしたころも、子供を持つのがおそかった私は、まだ子供が小さくて参加できず、息子が中学生になったとき、はじめて参加しました。そのあと、みなは60歳で定年退職して平日に集まるようになって、平日は仕事がある私は、参加したくてもできなくなりました。

 上野公園口に集まり、公園内の精養軒でランチ。
 1787年に建てられた鐘楼「時の鐘」。前回精養軒でひとりランチしたときには、さっさと通りすぎた所ですが、みなが見ているので、私も説明書きを読んで、由緒来歴を知ることができました。

 ランチ後は、ぶらぶらと公園を散歩。24度まで気温があがった上野公園。桜も咲き始めた枝があって、ほんとうにのんびり楽しくすごせました。

 咲き始めの枝にさっそくやってきた小鳥。


 さいしょは、せきちゃんが「五重塔が見たい」と言うので五重塔見物。でも五重塔は修理中で、下側半分にはシートがかけられていました。私は動物園にはよく来るのに、五重塔をじっくり眺めたことがなかったので、次回、修理が終わったらゆっくりみたいと思います。
 重要文化財の上野東照宮唐門は、金箔修理を終えたところで、ぴかぴかでした。1651年建築の国指定重要文化財、正式名称は唐破風造り四脚門という立派な門なんですが、ぴかぴかすぎて、ちょっとありがたみが薄い気がしました。

 左甚五郎作の「昇り龍・降り龍」彫刻柱がある総金箔の唐門前で。左がひさちゃん、中がせきちゃん、右がやっちゃん。


 東照宮の次は、動物園へ。動物見てまわりながら、閉園までおしゃべりしました。
 パンダやぞうを見て、しろくまが泳ぐようすを見て、とらが歩き回っているのをみました。

 おめでたは残念でしたが、シンシンは元気でした。


 水中で遊びまわっていたしろくま。光の屈折で水面に出ていた頭が写りませんでした。


 動物園の園内でソフトクリームを食べながら、クラスメートの近況などを聞きました。
 クラスメート、ほとんどが60歳で教員や公務員を退職していました。女子高三年六組50人のうちクラスの半数が教師か公務員になった、というのも、当時女性が男性と同じ仕事をして同じ賃金がもらえるのは、教師か公務員だけだったからです。

 やっちゃんは私立高校の理科教師になり、60歳で定年。ひさちゃんは小学校の先生になり、健康問題から停年の2年前に早期退職。
 教師は嫌いだ、なりたくない、と言っていた私も、中学校教師や大学講師になって、まだ働いている

 絶対に医者になると言っていたとみちゃんは、今では同業のご主人と大きな病院経営しているというし、クラス一のピアニストだったかずこさんは、音楽大学のピアノ教授と結婚して、いったんは家庭に入ったけれど、お姑さんに勧められて高校ピアノ教師の仕事を再開したのだそうです。

 ちょうど、管理職に女性を登用しだした時期だったので、クラスメートの多くが校長や教頭、教育委員会管理職になりました。教員定年退職組の元校長元教頭たちは、それぞれいろいろな役職について活躍しているそうです。
 近況報告やら女子校時代の思い出話やら、おしゃべりは続きました。

  <つづく>

ぽかぽか春庭「プチクラス会のおしゃべり」

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2014/04/05
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記4月(4)プチクラス会のおしゃべり

 上野動物園でアイスクリームを食べながらのおしゃべり。女子校卒業以来の自分史語りや近況報告、にぎやかにおしゃべりが続きました。何を話しても、心はさっと17歳18歳だった頃にかえります。

 みなが「いちばんの思い出」というのが、クラス全員で取り組んだ予選会のだしものです。クラスが一丸となって夢中になって取り組んだ日々。私にも貴重な思い出です。予餞会(よせんかい)、今は「三年生を送る会」とか呼ぶのかな。卒業式前に、在学生が卒業を祝って行う学芸会です。クラス単位のコンクールでもあったのですが、「予餞会準備に1ヶ月も取り組む価値があるのか。私たちのやるべきことは、3年進学を前にして受験準備スタートすることだと、クラス担任も言ったじゃないか」というクラスメートもいました。しかし、1ヶ月も準備や練習を重ねたとき、50人の乙女の心に一生だいじにしたい思い出ができたのです。

 この時のクラス演目「アジア歌めぐり」の台本を書いたのは誰か、といつもクラス会で話題になるのに、だれも「私が書いた」という人がいない。クラス会に来ていない人が書いたのだろうと、みなが言っていたのだって。

 3月25日「ハルちゃんが台本書いたのか」と、やっちゃんに聞かれたので、「うん、私が全体の企画をたてて、台本を作った」と答えました。
 50人のクラスを日本、沖縄、朝鮮、中国、フィリピン、ベトナムの6つの班に分け、班ごとにそれぞれの国の民謡と踊りを練習しました。私はハッピを着て八木節を踊り、せきちゃんは沖縄安里屋ユンタ、ひさちゃんは、チマチョゴリを着てアリラン。フィリピンはバンブーダンスでした。

 やっちゃんはラストのベトナムシーンを担当。テレビのコンバットから録音した爆撃音を合図に屋台崩しをする係りでした。テレビのベトナム戦争ニュースなどで見た草葺の家を作り、家の前でアオザイ姿で踊っていると、やがて爆撃の音。やっちゃんは草葺の家を裏から揺らして崩したのです。
 戦争がピークに達していたベトナムの悲劇をアピールし、最後に全員が出てきてロウソクを手にして、平和を願う歌を歌うというだしもの、学校中が感動し、生徒人気投票で一位になりました。

 班に分けた段階で、私は影にまわり、それぞれの班の練習などは、班リーダーにまかせました。当時はそれが「民主的な」演出方法だと思っていたので。個性と自己主張がつよい女子の集まりだったクラスで、私が黒子にまわったことはだしものの成功の一員だったかもしれません。
 私が全体を統括しようとすると必ず反発する人がでたでしょうから。みんなが「私が一番」と思っているクラスでした。

 ひさちゃんは、小学校教師を定年2年前にやめて、同じ教師だったご主人とともに年金生活。
 ひさちゃん、今は民生委員をしたり、「きみこ方式絵画教室」の先生をして絵を指導しているのだそうです。母校の同窓会幹事もやっていて、退職後のほうが忙しいそう。

 ひさちゃんから届いた絵手紙2014.03.30付


 驚いたのは、私が小学生の時にすでに「地域の名物教師」だったひさちゃんのお母さんが、99歳でご顕在だという話。97歳までずっと退職教師会の役員やらさまざまなボランティア活動を続けたそうで、今はいろいろな役職を下りたけれど、元気だというので、「すごいなあ、目標ができたわぁ」と、感激しました。

 私の妹は、地元でひさちゃんと顔を合わせる機会もあり、会うたびに「ももちゃんのお姉さん、今どうしてる?」と聞かれていたというので、私の近況は一番よく知っているクラスメートです。「今、どうしてる?」の返事は「相変わらず貧乏してる」なんですが。

 せきちゃんとは、高校卒業以来ほんとうに久しぶりに会ったのですが、公園口の改札に立っている顔を見合って、お互いすぐにわかりました。寿退社して以来、専業主婦を続けてきた、ということで、ご主人を立てている立派な奥様とお見受けしました。
 旅行はいつもご主人が行きたいところを決めて、「私は車の助手席にすわるだけ」というので、「たまには自分が行きたいところを見つけて、ご主人に、ここに行きたいって言ったほうがいいよ」と、よけいなお世話をしました。

 女子校時代、「ウーマンリブ」が世を賑わしてきたころでした。まだまだ女性の地位は低かったけれど、クラスの大半は「女性も男性と対等に働きたい」と言っていて、薬剤師、医者、教師、公務員など、自分の将来の仕事を探していました。

 けれど、クラスメートのなかには、あきちゃんのように「私はできるだけ学歴が高くて家柄のいい男性と出会って結婚するために大学に入るのよ」と宣言していた人もいました。私は、今でこそ「そういう選択も女性の生き方のひとつ」と思えるけれど、女子校のころはとんがっていたので、「専業主婦希望だなんて、女性解放運動の足ひっぱる存在だ」くらいに思っていました。
 専業主婦の悲哀を感じて生きた母が、つねづね「手に職をつけなさいよ。ひとりで生きていけるようにしなさい」と、諭しつつ私を育てたという影響もあったと思います。

 私の場合、家事育児を手伝うことも家計担当する人もいない家での孤軍奮闘でした。やっちゃんに、「還暦過ぎてるのにそんなに働くと、体こわすぞ」と、心配してもらいましたが、働かなくては食っていけない家なので。

 専業主婦で優雅な奥様のせきちゃん、ご主人を早くに亡くしたけれど、お母さんが92歳でなくなるまで支えになってくれたというやっちゃん、実母同居で共働きを続けたひさちゃん。やっぱり、どう見ても私がいちばん貧乏。
 ただ、世間の評価で「クラスでいちばん貧乏でいちばんかわいそうな境遇」であるとしても、私自身がそれを自分で選んだのだから仕方がない。

 妹に「自分に合わないと思っても、中学校の国語科教諭を我慢して続けていれば、他のクラスメートと同じように平教員で3000万、校長なら5000万だかの退職金を手に入れて、還暦後の年金だってそこそこ暮らしていけるくらいにはなったでしょうに」と言われて、確かに老後の生活を考えると、そのほうがよかったかなあと思うこともあるのです。それでもやっぱり、私は自分で選んだのだ、としか言い様がない。我慢ができない性格で、嫌になったらさっさとやめたから転職13回だったのだし。

 まあ、それでも今の時代、それぞれの人がそれぞれの花を咲かせればいい、と感じています。

 3月25日上野公園の桜。
 

 クラスの中で、亡くなった人もいます。スペインまでフラメンコダンス修行に行ったナナちゃんは50代で亡くなりましたし、昨年もクラスメートの訃報がありました。
 健康にはくれぐれも気をつけていこうと話し合いました。

 動物園閉園で上野駅に戻り、ひさちゃんは「6時に新宿駅から高速バスで帰る」というので、解散。やっちゃんとは3月30日にまた会おうということになりました。

<つづく>

ぽかぽか春庭「やっちゃんと牛」

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2014/04/06
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記(5)やっちゃんと牛

 女子高時代、やっちゃんはソフトボール部のキャプテンで、私のあこがれの人でした。顔立ちは違いますが、雰囲気はソフトボール金メダリストピッチャーの上野由岐子とそっくりでした。
 当時、やっちゃんにはファンが多くて、なかなか友達になるチャンスがなかったのです。校舎の窓からソフトボールの練習見つめていました。

 ある日、やっちゃんが「牛が大好きだ。となりの家の牛を世話してるんだけど、自分の牛飼いたいから、獣医とか酪農とか牛について勉強しようと思う。でも、理系の大学受けるためには理科科目をもっと強くしなくちゃならないから、ハルちゃんが科学部に入って理系科目勉強して、わからないところを教えてくれ」と言ってきました。

 完全文化系の私にとっても、理科は苦手科目です。でも、理科をいっしょに勉強するという名目でやっちゃんと仲良しになれるチャンス。いさんで科学部に入部しました。1年生の時は、中学時代とおなじく文芸部にいましたが、2年生から科学部リケ女です。科学部は望遠鏡を覗く天文地学班と、動物の解剖なんぞに取り組む生物班、化学実験をする物理化学班に分かれていました。私は化学班。
 理科室にいても、私はただ大きな硫酸銅のガラス瓶をながめて、「ああ、なんていう青さだろう、海でもなく空でもない始源の色」なんて思いながらぼうっとしていたという文系頭だったのに、やっちゃんのためならと、必死で理科科目を勉強しました。

 やっちゃんは、ソフトボール練習の合間に理科室に来て、「化学過去問」の解き方なんぞを質問し、「そうか、そう解くのか」と、また練習に戻っていく。やっちゃんのお父さんもお兄さんも理科の先生なのに、家族に聞かないのは「こんなんが解けないのは、ただの馬鹿」と言われるからなのだって。

 やっちゃんとは理科の勉強をいっしょにする、という時間が持てて、「モルの計算」なんぞを教えたことでずいぶんと親しくなれました。今では「モルって何のことだっけ」と思っているのですが、高校科学部の2年間と大学病院検査士時代の1年半のみ、「リケ女」だった私。たぶん、やっちゃんと親しくなるために、必死でリケ女ぶっていたのだと思います。中身は完全文系でしたのに。

 やっちゃんは北海道の大学に進学して念願の酪農を学ぶことになりました。牛が大好きだったやっちゃんでしたが、馬術部に入り馬が大好きになりました。
 大学卒業後、やっちゃんが馬術クラブの職員として働いていた町に「遊びにこい」というので、大喜びで出かけたら、やっちゃんのアパートには「この人、大学の先輩。今いっしょに暮らしている」という男の人がいたので、びっくり。
 やっちゃんは、地元に帰って私立高校の理科の先生になり、この先輩と結婚して男の子に恵まれました。「自由人」だったというご主人は、49歳という若さで病気で他界されましたが、やっちゃんはご両親の助けを受けならが息子さんを育て上げ、高校に新設された馬術部の指導を続けました。

 「やっちゃんのびっくり」は、まだあって、自宅を自分で建てたことです。自己資金で建てたというのはもちろんのことですが、宅地の基礎作りからはじめて、カンナ金槌のこぎり自分で手にして、大工仕事左官仕事を自分でやって、ほんとうに「自分で」建てたということ。

 今は馬術連盟の役員をしながら、地元の大学の馬術部コーチをしています。「ボランティアだけど、学生も馬もかわいくて」というやっちゃんはすごくいきいきした顔ですてきな60代になっていました。髪も白くなり顔のしわも気にしないやっちゃん、今でも私のあこがれの人です。

 女子校時代、クラスメートがあつまって、将来の夢を語り合った日々のことを思い出します。みな、それぞれの夢はかなったでしょうか。
 やっちゃんが「私はハルちゃんが言ったことを覚えているよ」と言うには「ハルちゃんは、百歳まで生きて、世の中の変化を見届けたいと言っていた」のだそうです。わぉ、17歳のときから「ぶれてない」というか、成長していないのか。

 「ウーマンリブ」が立ち上がろうとしていたころでした。まだまだ女性の地位は低かったけれど、クラスの大半は「女性も男性と対等に働きたい」と言っていて、薬剤師、医者、教師、公務員など、自分の将来の仕事を探していました。
 けれど、「私はできるだけ学歴の高い男性と出会って結婚するために大学に入るのよ」と宣言していたクラスメートもいました。私は、今ではそういう生き方も女性のいきかたのひとつと思えるけれど、女子校のころはとんがっていたので、「専業主婦希望だなんて、女性解放運動の足ひっぱる存在だ」くらいに思っていました。

 やっちゃんに言わせると、73歳で現役馬術選手を続けている法華津寛さんは、特別なエリートなのだそうです。しかし、現役ではなくても、馬術ひとすじ、後進の指導を続けているやっちゃんも、すばらしい馬術人生を歩んできたと思います。

 やっちゃんとは3月30日にまた会おうということになって、私は法事後、やっちゃんは馬術大会後に会いました。

<つづく>

ぽかぽか春庭「やっちゃんと馬」

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2014/04/08
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記春(6)やっちゃんと馬

 3月30日、姉の法事が終わったあと、馬術大会の審判を終えてきたというやっちゃんと会いました。やっちゃんは、県の馬術審判部長を勤めています。ボランティアコーチをしているという大学馬術部に案内してくれました。

馬術部入口の看板


 日曜日だけれど、学生たちは馬の世話をやっており、馬たちは夕食中でした。


 厩舎の隣で学生といっしょに畑を作っているというところを見せてもらいました。やっちゃんが作っているネギや学生が育てているハーブのローズマリーなどがありました。馬糞の堆肥が作物にいいそうで、学生にとっても、教育効果が高いのではないかと思いました。馬術試合で活躍した馬、その糞も作物のためには有効に使える。地球にやさしい馬術部でした。

学生が作っているハーブ畑のローズマリー


 やっちゃんはこれから泊まりで馬の世話をするという学生ふたりに「いっしょに回転寿司屋へ行こう」と、声をかけました。
 タッチパネルで注文する方式の郊外型チェーン店。私はタッチパネル式の寿司屋、はじめてでした。やっちゃんのおごりでごちそうになりました。

 学生たち、馬が大好きなので馬術部に入ったそうです。やっちゃんの悩みのタネは、活動費用。馬術で強くなるにはいい馬が必要、いい馬は高い。お金がかかるスポーツなのに大学の馬術部では、その費用のあるなしで強さも差が出る。

 厩舎から顔を出す、愛称ユキちゃん


 やっちゃんは17歳18歳のスポーツ少女のころと変わらない魅力ある人でした。
 山菜採りが趣味というやっちゃんにフキノトウをたくさんいただきました。炒め物、サラダ、おやきなどで食べとてもおいしかったです。

<おわり> 

ぽかぽか春庭「東御苑&東京近代美術館工芸館の花見」

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2014/04/09
ぽかぽか春庭@アート散歩>桜めぐり花のアート(1)東御苑&東京近代美術館工芸館の花見

 4月1日、皇居東御苑周辺を散歩。ひとり花見を楽しみました。
 大手門前からスタート。

 お濠端から大手門を見る




 まずは三の丸尚蔵館へ。
 皇室への寄贈品や宮家伝来の宝物が9600点寄贈されている展示館。東御苑や東京近代美術館を訪れたとき、たいてい三の丸尚蔵館にも立ち寄るのは、無料だから。でも館内撮影禁止なのは相変わらず。(↓の画像は宮内庁サイトより)

 今回の展示は京焼の食器。幹山伝七(1821〜1890)の作品です。有栖川宮家から高松宮家に受け継がれた食器600点のうち、前期後期合わせて250点を展示しています。私が見たのは、前期展示の色鮮やかな四季草花図前期の食器です。

 膾(なます)皿


 東御苑は、平日でもさすが桜の時期、大勢の人が思い思いに花見を楽しんでいました。


 清水櫓の前に咲く桜

 桜のほかの花々も花ざかり
あせびとぼけ


 毎年色鮮やかな桃華楽堂前の桃と連翹


 東桔梗門からお堀の桜を見る


 私のいちばん好きな花は、東桔梗門を出たところにあるしだれ桜。また、近代工芸館と桜のショットも、毎年楽しみに見ている桜スポットです。

工芸館


 近代工芸館の展示は「花」。こちらは許可シールをもらえば撮影OK。(「撮影禁止」と札が出ている展示品はだめですが)。


 「上絵金彩花鳥図」七代錦光山宗兵衛(1868-1927)


 「縮緬地友禅梅訪問着」木村雨山(1891-1977)


<つづく>

ぽかぽか春庭「東京近代美術館本館常設展と花見」

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2014/04/10
ぽかぽか春庭@アート散歩>桜めぐりと花のアート(2)東京近代美術館本館常設展と花見

 東桔梗門から見た東京近代美術館


 今回、近代美術館の常設展でもっとも印象に残ったのは、長谷川利行の作品です。

 「カフェ・パウリスタ」長谷川利行(1891-1940)


 1911年にオープンした銀座のカフェ、パウリスタ(サンパウロっ子)。長谷川が1928(昭和3)に描いた絵です。この絵は第3回「1930年協会展」に出品されたことは記録に残っていましたが、その後行方不明となっていました。

 長谷川利行は、下町貧民街で一日中絵を描き、絵が売れるとたちまち飲んだくれて放浪。ついに1940年5月に路上で行き倒れとなり「行路病者」として東京市養育院に収容されました。治療を拒否して1940年10月胃癌で死去。病院は身寄りのない行き倒れ収容の慣例通り、持ち物のスケッチブックなどは焼却処分してしまいました。無頼の画家の49年の人生、なんとも壮絶です。

 長谷川は1931年に東京下谷区谷中初音町の下宿屋へ移転。貧乏画家や文士のたまり場となっていた下宿で、下宿代未納の末追い出されるとき、画家たちは売れない絵を「下宿代がわりに」と置いていきました。福井龍太郎の父は、長谷川の絵も3点、下宿代のかわりに受け取っていました。

 下宿屋のおやじとしては、しょうもない絵を受け取ったものの、物置に放り込んでおいて忘れてしまったのです。長谷川の絵が評価されるようになるのは、死後10年以上もたってからです。 
 2009年、下宿屋のむすこ福井龍太郎は絵に詳しい友人のすすめで、父が物置に残した絵を、テレビ番組「開運なんでも鑑定団」に出品。長谷川利行の真作で時価1800万円という鑑定を受けました。同年、近代美術館が買い取り、修復を加えて公開。

 そんな絵にまつわる「ものがたり」を知らないとしても、隣に並んでいるガスタンクを描いた「ガスタンク街道(1930年)」と、別コーナーの「新宿風景(1937)」の3点が同時に見られた今回の常設展、強烈な印象を受けました。

 足が疲れたらいつものように4階の「眺めのいい部屋」で一休み。桜のころは一段といい眺めです。


<つづく>

ぽかぽか春庭「旧醸造試験場と晩香盧でのお花見」

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2014/04/12
ぽかぽか春庭@アート散歩>桜めぐりと花のアート(3)旧醸造試験場と晩香盧でのお花見

 毎年桜の時期に公開される旧醸造試験場(現・酒類総合研究所赤レンガ酒造工場)。妻木頼黄(つまきよりなか1859-1916)設計のレンガ造り。今年の施設公開は4月5日。
 土曜日の王子近辺、飛鳥山公園のお花見は人ごみで桜を見るより人を見にきたようになるだろうとは思いました。しかし、4月4日の雨で飛鳥山の桜も半分散っていまい、4月6日も雨の予報。5日の土曜日しかない、というわけで、大勢の人が飛鳥山公園にシートを広げて宴会を繰り広げていました。テレビでも「8代将軍吉宗が整備した江戸時代からの花見の名所」という紹介があちこちの番組でされたということで、人々は散る桜を愛でていました。

 近所の人の「知る人ぞ知る」穴場のお花見場所が「旧醸造試験場跡地公園」です。こちらは人も少なく、家族連れがゆったりくつろいでいました。

 旧醸造試験場跡地公園の入口


 酒類総合研究所

 赤レンガ酒造工場は、1903(明治36)年、大蔵省営繕課長の妻木頼黄がドイツビール工場を手本にして建設し、1904(明治37)年より醸造試験場として使用されてきました。
 妻木は、旗本の家に生まれ、J・コンドルの弟子となって建築家になりました。妻木のライバル辰野金吾の作品は比較的多くが保存されているのに比べ、妻木作品は保存された建築が多くはありません。旧醸造研究所は、現在でも酒の研究所として醸造研修などで現役で使われている建物として貴重です。


 醸造試験場は、創立以来110年。創立100年記念に制作されたビデオを場内でゆっくり見ました。醸造研究に携わった人々のことが紹介されているビデオでした。
 経験と勘にたよる杜氏の仕事だった酒造り。味に勘は重要でしたが、勘だけでは処理できないのが醸造途中での酒の腐敗。しかし、科学的な研究によって腐敗を防ぐことができるようになり、現在ではコメや酵母の遺伝子研究までバイオテクノロジーを駆使して酒造りを行っていることなどをビデオで知ることができました。
 醸造所百年のビデオの中で、伝統の酒造り杜氏は女性を拒否してきたけれど、戦後再出発した酒類研究所は積極的に女性を研究者として採用してきたことも紹介されていました。 


 ビデオ観覧あと、試飲の列に並びました。私のうしろに並んだカップルは何年か前にこの研究所で「醸造研修生」として酒造りを学んだ人とその奥さん。見学者に試飲のコップを渡したりパンフレットを渡していた研究所の人たちは、みな「あら、○○さん」と、久しぶりらしい再会を喜んでいました。研修生研究生は、大学の醸造科などで学び、実家の酒蔵や酒造メーカーでの酒造りをめざす人などが研修研究するとのこと。

 試飲した中では大吟醸がおいしかった。ほんの一口ずつの試飲でしたが。
 おみやげに麹をもらいました。「塩麹のつくり方」もついていました。

 110年前のレンガが美しい。アーチ型の部分や丸窓の周囲のレンガは台形に形成されている珍しいもの。埼玉県深谷市にあった渋沢栄一設立のレンガ工場製品が主。


 飛鳥山へ行ったのは、「桜と晩香盧」というショットで撮影したかったのと、紙の博物館で金唐紙の展示を見たかったからですが、飛鳥山のすごい人を見て、博物館はやめにしました。普段は人も少ない博物館ですが、桜の時期は一番混むときだろうから、こんなとき見なくてもいいや、と思い1週間日延べ。
 晩香盧もすごい人出でした。

 晩香盧とさくら


<つづく>
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