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ぽかぽか春庭「京都旅行・南禅寺」

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20190108
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記京都旅行2018(2)南禅寺

 2018年10月30日に訪れた南禅寺。
 朝早くに水路閣を見たあと、南禅寺塔頭のうち、本坊、南禅院、金地院の建物と庭園を見て歩きました。2018年京都旅行のテーマは、「建物、庭園、工芸」。

 「庭園を見る」のは、主要な目的のひとつでしたのに、南禅寺の本坊と南禅院・金地院で庭園巡りをしてみたら、あとで写真を見てもどれがどれやら、みな同じに見える、ということがわかりました。

 作庭家でもなく庭園評論の専門家でもなく、素人がちょっと見に庭園を楽しむなら、一回の旅行で見る庭園はひとつにして、しっかりと心にとどめておいたほうがいい、という論もわかっているつもりで、たくさんの庭園を回ったのですが、、、、実際に「どれがどれやら」と頭をひねっている春庭の感想です。写真の庭園説明も、あやふやなまま、、、、、キャプション正確でなくすみません。

 禅宗臨済宗南禅寺派大本山。開基亀山天皇。亀山天皇が法皇となったとき、1291年、離宮を寺にしました。一世住職は、開山大明国師。
 伽藍を完成させた二世南院国師を創建開山とし、五山文学の一番上「五山乃上」とされています。
 創建当時の建物は、すべて応仁の乱や戦国時代の争乱で、火災焼失。現在建っているのは、江戸時代の建物です。

<きょうの建物>
 中門。金地院側から南禅寺に入ったので、たぶん、これが中門。


 勅使門。




 石川五右衛門が楼門にのぼり「絶景かな」と言ったという伝説で有名な南禅寺三門。

 横から見た三門




 南禅寺境内


 法堂
  

 本坊大玄関


 本坊方丈


 南禅院(南禅寺発祥の建物。元は亀山天皇離宮だったとあるが、焼失後の再建だと思う)


 金地院楼門

 金地院東照宮拝殿(日光、久能山、京都に「権現として祀れ」という家康の遺言により、崇伝が祀った)


 金地院には、家康の外交官崇伝(1569-1633)が住していました。崇伝は、秀吉側や真田氏側から大河ドラマを作るときは、思いっきり悪役に描かれます。家康亡きあとは、後水尾の天皇の師となり、権勢並ぶものなく、「寺大名」「黒衣宰相」と呼ばれました。

<きょうの庭園>
 本坊方丈庭園、六道庭、小方丈庭園(如心庭)など、たくさんの庭があり、順不同で撮って歩いていたら、どれがどれやらわからなくなりました。

 六道庭(解脱前の心を表しているのだそうです)


 小方丈(如心庭)





 南禅院の庭園




 金地院の庭園 小堀遠州作庭の鶴亀庭園。もはやこのころには、「お庭はたっぷり見た」の膨満感。





<きょうのわたし>
 本坊で

 南禅院で


<つづく>

ぽかぽか春庭「順正書院と無鄰菴」

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順正書院庭園

20190110
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記京都2018(3)順正書院と無鄰菴

 早起きして水路閣と南禅寺(本坊、南禅院、金地院)の建物と庭園をたっぷりと見て、すっかりおなかがすきました。南禅寺名物の湯豆腐を食べることに。
 門前には湯豆腐の店が何軒もありましたが、由緒ありげな「順正」へ。
 受付に名前を書いてからしばらく待つようでしたので、庭など見ていました。

 順正は、元は「順正書院」という医学講習所。1839(天保10)年に開設され、蘭方医新宮涼庭(1787-1854)が、解剖(生象)生理、病理、外科、内科、博物、科学、薬性)の八科目の医学教育を行いました。明治時代になると、順正書院は京都府立医科大学へと発展し、順正書院の建物は、湯豆腐店として使われることになりました。

 順正書院玄関(順正書院と言う学院名は鯖江藩主間部詮が命名)

 順正書院

 順正書院石門(国の登録文化財)


 江戸時代 (元治元年1864)に花洛名勝図会描かれた順正書院


<きょうの庭園>
 順正書院の庭



 南禅寺の広大な土地は、明治時代になると水路閣が作られたほか、寺域の一部を明治政府が召し上げ、明治高官や財界人に別荘として払い下げられました。豊富な疎水の水を引き込んで、池をまわる回遊式の庭園を持つ別荘が点在し、南禅寺界隈別荘群として、現在も15邸が知られています。

 広大な庭園も、文化財的価値は高いけれどその分補修費が高額になる邸宅も、維持管理がたいへんです。維持できずに、売り出される別荘もあります。
 南禅寺界隈別荘15邸のうち、旧寺村助右衛門邸は、現在、料理旅館菊水として営業。對龍山荘は、家具小売りからのし上がってきたニトリが買い取り、ニトリ保養施設になっています。

 2018年、近年の「ビジネス最先端成金」のひとりが、この別荘群のうちの一軒を買いました。ZOZOタウン(ネット衣料品販売)で億万長者となり、宇宙旅行する切符を買った、という話題の主、前澤友作(1975~)が購入したのは、旧横山隆興別邸だった智水庵。
 ZOZOの会社保養所にするのか、純粋に前澤氏の個人別荘なのか知りませんが、分かりやすく成金している前澤氏、剛力彩芽を泣かさないでね。

 15邸のうち、旧山縣有朋別邸だった無鄰菴(むりんあん)は、別荘の姿のまま現在まで残され、公開されています。順正書院の店で湯豆腐たべたあと、無鄰菴を見学しました。無鄰菴は、成金所有にはならずに済み、京都市が買い取って公開しています。

 山縣有朋(1838-1922)は、七代目小川治兵衛(植治)とともに、この無鄰菴の庭を作り上げました。植治は、京都の近代庭園の多くを手掛け、ことに南禅寺周辺の別荘群の庭を数多く作庭しています。

<きょうの建物>
 無鄰菴洋館(煉瓦造り二階建て洋館 竣工:1898(明治38) 設計:新家孝正)
 明治政府は、対ロシア政策に苦慮していました。南下政策をとるロシア帝国との軋轢が深まるなか、1903年4月21日、無鄰菴洋館2階でロシア外交、東アジア外交を決定づける会議が開かれました。出席者は、無鄰菴当主の元老・山縣有朋、政友会総裁・伊藤博文、総理大臣・桂太郎、外務大臣・小村寿太郎の4人。のちに「無鄰菴会議」と呼ばれる会議において、明治後半から昭和敗戦までの東アジア外交の方針を決定することになりました。4人の会議記録は残されているのかどうか知りませんが、敗戦までの戦線拡大路線への道筋を決定づけた部屋と思うと、感慨深いものがあります。

 旧山縣有朋邸洋館外観(画像借り物)


 会議が行われた部屋


 洋館だけれど、折り上げ格天井にしつらえてある

 土蔵のような扉

 階段


 洋館2階から和館を見る


 和館南面


 茶室


<きょうの庭園> 

 山縣と植治が作り上げた庭園は、その後「近代和風庭園」の見本となり、植治は、南禅寺界隈別荘のほとんどの庭園ほか、日本各地で作庭しました。

  

  



<きょうの京ごはん>
 順正の湯豆腐ランチ。天婦羅、田楽、煮物、ゴマ豆腐にご飯と汁で3000円

 となりの席で香港からの一人旅女性が食べていた湯葉(ネットで見て食べてみたくなり、1週間休みをとって来日したのですって)


<つづく>

ぽかぽか春庭「京都三条通りの近代建築」

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20190112
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記京都旅行2018(4)三条通りの近代建築

 京都は長い歴史を持つ寺社建築も豊富ですが、明治以降に建てられた近代建築もよく保存されています。
 東京が1923年関東大震災や1945年大空襲にあい、戦後は「作っては、壊し」のビルド&スクラップで街を更新させてきたのに比べると、京都はビル群も静かにゆっくり建て替えられてきたなか、近代建築の価値を見直す動きに間に合って、保存が決定した建物も少なくない。

 10月31日水曜日午前中は、今回の京都旅行の目玉と思っている「京都三条通り近代建築見学」の日。ひとりぶらぶらと歩きながら、目にとまった建物を覗いてみる、お楽しみ散歩です。
 29日月曜日に、地下鉄三条駅から正反対の東山方向に歩いてしまう、という失敗をしたので、31日は、烏丸御池駅で降りて、三条駅方向へ向かうことにしました。

 最初に目に入ったのは、現みずほ銀行京都中央支店(旧第一銀行京都支店)。なんてったって、辰野きんちゃんのレンガは目立ちますね。
 目立たない文椿ビルにだどり着くまで、地図片手にぐるぐる歩いてしまいました。

 朝ごはんを食べずに出てきたので、文椿ビルの向かい側にある「伊右衛門サロン」で朝ごはん。10年前2008年に友禅染老舗の町屋一角をカフェにしたとかで、2018年末にいったん閉店するとか。静かで落ち着いたカフェでした。

 伊右衛門サロン(友禅染の店舗は水曜日は休みでした)

 店内では茶道教室もひらかれる


 おなかも満ちて、いよいよ近代建築散歩。

@文椿ビルヂング(旧西村貿易)竣工1920 設計:不明  施工:清水組


 本館は1920(大正9)年に建てられた木造洋館。当初は、西村貿易店社屋でした。銅板及びスレート葺のマンサード屋根。外壁はタイル張り。南面中央の入口部は8角断面を半割した片蓋柱で飾る。2004年に久和幸司建築設計事務所がリニューアルし、レストランほかの店舗が入る商業施設となっています。

 文椿ビルヂング入り口

 文椿ビルヂング・マンサード屋根

 古い木材を利用していて改築の苦心がわかる階段部分


@みずほ銀行京都中央支店(旧・第一銀行京都支店)竣工1906(明治39))設計:辰野金吾・葛西萬司


 辰野式の赤レンガ白帯ビル。1999年に解体。2003年に外観復元。


 みずほ銀行の行員さんに聞いてみましたが、建築当初建物の内部がはどうだったか、という記録は、現在の支店内にはまったく残されていないということでした。ビルの外壁には三条南殿址という説明版が取り付けられており、銀行内には、発掘された遺物展示はあったのですが、1906年の建築物の説明はなし。きっと、復元建築を受け持った建築会社のもとにはなんらかの記録が残っているのでしょうけれど。


@京都中京郵便(旧逓信省京都郵便電信局)竣工1902(明治35)設計:三橋四郎(1867-1915)吉井茂則(逓信省営繕課)施行:安藤組


 竣工当初から現在に至る110余年間、現役の郵便局舎として営業しています。
 近代建築が残されている三条通りでも、100年間変わらない営業を続けている建物は数少ない。 
 とは言っても、百年前の建物は老朽化し、1973年には取り壊して新しい建物を建てることに一度は決まりました。その後、建築の価値が論議され、ファサード保存が決定しました。建築物の表面だけを残し、内部は新築するという保存方法です。1978年改築。日本で最初のファサード保存は、その後の建物保存へと続きました。



@京都文化博物館別館(旧日本銀行京都支店)竣工:1906(明治39)年 設計施工:辰野金吾・長野宇平治(1867-1937)


 正面入り口


 裏側はパティオカフェになっています。


 別館では講演会、本館では「華ひらく皇室文化」という展覧会をやっていたため、建物内部の撮影ができませんでした。またの機会に。

@日本生命京都三条ビル旧棟(旧日本生命京都支店)竣工1914(大正3)設計:辰野片岡建築事務所 施工:山本鑑之進


 辰野片岡事務所作品といっても、辰野式赤レンガではないので、片岡の設計が採用されたのでしょう。片岡は、ほかにも石張りのビルを残しています。
 片岡安(1876-1946)は、東京帝大造家学科卒。1999年に日本生命保険副社長片岡直温の婿養子となり、大阪を中心に銀行建築を数多く手がけました。

 レンガの上から石を張り付けている壁面。




 1983年に、右側の塔屋部分を残して、後方は新築ビルとなり日本生命が営業しています。
 10月31日に私が見学したとき、旧館部分は貸出店舗となっており、リサイクル着物を展示販売していました。ショップの人たちは、登録文化財になっていることは知っているけれど、建物については、何も知らない、とのことでした。

@SACRAビル(旧不動貯金銀行京都支店)竣工1915(大正4)設計:日本建築株式会社

 正面入り口




 近代建築をリノベ―トし、商業施設に転用するさきがけとなった、サクラビル。中は、若い女性向けの雑貨小物の小さな店舗がたくさん入っていましたが、店舗の入れ替わりも激しいらしく、ちょっと前のガイド本の京都ショッピング案内に出ていた雑貨アクセサリーの店はもう出店していませんでした、娘のおみやげにシュシュを買おうと思ったんですけど。

@家邊徳時計店(家邊家住宅)店舗 竣工1890(明治23)


 郵便局やら銀行やらの古い建物が多い三条通り。三条通りでも一番古い建物「家邊家住宅」は、個人の建物です。
 現在は時計ではなく、洋服を売っている店。リサイクル着物の店や小物雑貨の店に比べて、店員さんたちはツンとお高くとまっている印象で、店内の写真撮影が可能かどうかとたずねたときも、とても冷たい対応でした。洋服を買いもしないで、建築を見るだけの客にうんざりしていたところだったのかもしれませんね。すみませんでしたね、シャツの1枚も買わない貧乏バーさんの応対をさせてしまって。


 お金持ちになったとしても、こういう応対をさせておく店では服を買いたくないな、と思った、、、、けれど、私がお金持ちになることはないので、家邊家のお店に何の影響もないことですよね。貧乏婆さんはひがみっぽいので、ここに書いておきまする。 

@1928ビル(旧京都大毎会館1998年まで毎日新聞社京都支局)竣工1928(昭和3)設計:武田五一

 三条通り散歩も終わりになり、三条駅が近づいてきたあたりの1928ビルは、残念ながらシートに覆われて改装中でした。

 このビルも、毎日新聞社が移転したあとは解体が予定されていました。しかし、建築家若林広幸がビルを買い取り、リノベーション。カフェ、アート展示など、さまざまな商業施設になっています。
 正面入り口。改装中でも、中の施設は営業していました。


 番外として。
 京都の建物は、古いものを改装したり耐震装置を付け加えたりして、利用する動きが盛んです。
 京都の町屋をいかして、アンティークギャラリーに改装している最中の空間デザイナーさんにお話を聞くことができました。京都に多い骨董店ではなく、外国人観光客にも喜ばれる、日本的な古い道具を展示販売するのだ、ということでした。

 町屋が並ぶ通り


 この一軒が改装中

 アンティークショップになるそうです。


 三条通りに残る富田歯科醫院。

 現役の歯科医院ではなくなっているみたいで、中ではコンサートなどが行われるギャラリースペースになっているようです。

  

 昔ながらの手仕事で足袋を作り続けている老舗。分銅屋足袋店
 このままの風情で残っていてほしいです。


<きょうの京ごはん>
伊右衛門カフェの朝ごはんは「薩摩赤鶏の卵かけごはん」ナスの煮びたし、ひじき、ご飯と汁600円


<つづく>

ぽかぽか春庭「長楽館」

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20190113
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記京都旅行2018(5)長楽館、祇園閣

 10月31日、三条駅近くのパン屋さんの奥のカフェでパンとコーヒーのランチ。ランチを軽くしたのは、3時からアフタヌーンティの約束があったからです。

 長楽館の門


 長楽館に着いて、外観撮影しながらハンさん母娘を待ちました。ハンさんシンちゃんを誘ったのは、わけがあります。長楽館にはホテル内にレストランやカフェがいくつもあり、一人客は、文化財登録してある古い館のほうのカフェには予約できない、というのです。二人以上でないと予約はできないというので、ハンさんに都合を確かめて3名の予約。

 入り口鉄扉

 正面入り口


 ひとり4000円のアフタヌーンティーセット×3で、12000円。私にしてみれば、普段ならばぜったいにこの価格でお茶することはないけれど、長楽館の建物を見たいがための、プチ贅沢です。
 実際には、平日の午後、フリのひとり客も入店できて、ひとりでお茶している人もいました。ただ、予約したほうが確実だと思ったための措置。11月1日夜からハンさんの家に泊めてもらうので、そのお礼という意味もあります。

 レセプション前のベンチで待つ。ベンチもなにやら由緒ありげな。


長楽館は、明治のタバコ王村井吉兵衛の別邸として、1909(明治42)年に竣工。設計・監督は、J.M.ガーディナー、棟札に名を残した棟梁は清水満之助(清水建設三代目)。

 タバコや製糸事業で財をなした村井吉兵衛(1864-1926)は、タバコ商村井吉右衛門(1832-1892)と孝子の娘宇野子(1869-1916)の婿養子に迎えられました。吉兵衛は吉右衛門の甥にあたり、宇野子とはいとこ同士の結婚。吉兵衛は14歳からタバコを売りさばき、アメリカ式の紙巻きたばこで財をなします。1904(明治37)年にタバコが専売制度に切り替わるとその保証金1120万円をもとでに、銀行、製糸業をはじめます。(公務員の月給は1ヶ月10円ほどの時代ですから、現在の貨幣価値だと2000億円くらいになります)

 宇野子が1916(大正5)年に亡くなり、一周忌を終えるとすぐ、吉兵衛は後妻として日野西光善子爵の娘薫子(1879-1949)を迎えます。

 薫子は、山川三千子『女官』に描かれた明治宮廷の「山茶花の局」で、宮中の花と謳われた女性です。成金のお金持ちは、お金ができると、次は貴顕出身の女性と結婚したくなるものらしい。大正天皇の従妹柳原白蓮を妻にした九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門と同じね。

 白蓮は宮崎龍介と手に手をとって駆け落ちしましたが、薫子は、吉兵衛との10年にも満たない結婚生活のあとは、未亡人として東京の広大な屋敷(武田五一設計の和館)で静かに暮らしたようです。(薫子に仕えた行儀見習い娘の談)薫子は本邸で暮らしたでしょうから、この京都の別邸長楽館ですごしたことは、どれほどあったでしょうか。(東京本邸の門は、日比谷高校内に現存。村井家美術品倉庫は現日比谷高校資料館。和館の一部は比叡山延暦寺書院として移築)

 亀井至一(1843-1905)が日野西薫子をモデルにして描いた『美人弾琴図』(1890第3回内国勧業博覧会に出品 121×151cm)歌舞伎座所蔵)


 宮中に女官として勤める前に描かれたのか、1890年に第3回内国勧業博覧会に出品したのだというのが正しければ、薫子はまだ10~11歳のころになります。この絵ではもう少し年上に見えますから、山茶花の局をモデルにしたというのが間違っているか、少女を少し大人っぽく描いたのか。もっとも、第3回内国勧業博覧会に出品した絵は入賞し、宮内省お買い上げとなったので、この歌舞伎座の絵は、出品作と同じ構図で後年描いた、ということです。はたして、この絵の薫子は何歳なのか。吉兵衛が薫子を後妻にと望んだとしたら、この絵をどこかで目にしていた可能性はありますね。

 山川三千子の「女官」によると、宮中にあがったら、厳格な規則があり、めったなことでは実家に帰ることはできなかったと書かれています。三千子は13歳で女官となり、明治天皇崩御をしおに実家に下がってまもなく結婚していますが、薫子の結婚は30代のことで、後妻でもやむなし、と、貧乏華族の日野西家は考えたのか。(本当に貧乏だったかどうかは、わからないけれど、高瀬理恵『公家侍秘録』に描かれた日野西家のイメージでは、貧乏です。この漫画の中の日野西薫子は、わがまま奔放な公家のお姫様です)。
 薫子には子はなく、吉兵衛の孫禎子を養子にして、日野西家から婿を迎えています。(薫子の弟長輝の息子資長)

 めったには行かない歌舞伎座です。これまで『美人弾琴図』を目にしたことはありませんでした。3階に展示されているというので、次に歌舞伎座に行ったら見てみたいです。

<きょうの建物>
 門から見た長楽館

 長楽館正面

 正面入り口ファサード


長楽館の内部
 玄関内側

 レセプションとなりの階段

 
<きょうの工芸>
 長楽館門脇にあった由緒ありそげな郵便受け。いつごろの時代のものなのか、確認はできませんでしたが。


<きょうのわたし>シンちゃんとお茶しているところ

 長楽館門前で。手に持っているのが信三郎帆布のトートバッグです。


<きょうの出会い>
 三条通りから三条アーケード街を抜けて、地図を見ると一澤帆布店が近くにあることに気づきました。京都の本店のほか、どこにも出店しないがんこな老舗。

 少し前に先代が亡くなったあと、長男次男四男で相続争いがあったことで全国に知られるようになったのは皮肉です。先代は仕事をまかせていた次男に相続させるという遺言を残したのに、長男はそれよりも日付の新しい「長男にすべてをゆずる」という遺言書を裁判所に提出。裁判では後発のものが偽遺言であるという積極的な証明はできないとして、長男勝訴。しかし、長男のごり押しを嫌い職人たちが一切退職。その後、相続権を持つ次男嫁名義で出された裁判では次男側勝訴。現在は、本店が次男一澤信三郎店。別店が四男帆布カバン喜一澤。長男、株の一部相続はできたみたいですが、帆布鞄制作からは手を引きました。

 三条駅から500mくらいのところにあるので、歩いていけると思いましたが、歩いていたら、八坂神社近くの長楽館で待ち合わせの約束した3時ぎりぎりになるかも、と予想して、タクシーで一澤帆布店へ。

 個人タクシーでしたが、なんと、八坂神社まわりを行ったり来たり、かなりの遠回りをしてようやく店の前へ着きました。東京からきて、地理不案内と運転手に言ってしまったのがまずかった。三条駅から一澤帆布店へ行く500mほどのところにどれほど一方通行があるのか知らないけれど、いくら東京もんでも、八坂神社のまわりをぐるりと回れば遠回りしたことに気づく。
 仕方ない、これも京都。京都でいやな人に会ったのは、この時だけ。あとはみな親切な人でしたのに。領収書は受け取ってあるから、個人タクシー名、ネットで公表してもいいんだけどね。長旅のなか、こんな負の出会いもありますよね。

<きょうの工芸>
 一澤帆布店のトートバッグを買いました。丈夫で長持ちしそうな武骨なバッグです。一針一針、職人が縫う帆布のバッグ、ミシンなどを許可を得て撮影させてもらいました。

 店内に展示されていた縫製機械

 店内。写真撮影もネットUPもOK。やたらに老舗ぶって「店内写真禁止」なんていう服屋さんに比べて、とても感じがいい。こういうのが本当の老舗と思います。


 2階店舗を見ていた私が足をひきずっているのに気づいた若い店員さんは、店の奥にあった業務用のエレベーターまで案内してくれて、階段でなく2階から降りることができました。感じのよい応対に、私には高いと思うけれどどうしようかなと迷っていた12000円の帆布トートバッグ、買いました。娘のおみやげ花柄のボストンバッグは、30000円。品切れなので、あとで郵送。クリスマス25日の朝、届きました。娘はブランド物を好まないので、若い人たちが欲しがるエルメスもルイヴィトンも手にしたことなかったけれど、このバッグは「ブランド」だけど気に入ってくれました。

 トートバッグとボストンバッグ


<つづく>

ぽかぽか春庭「嵯峨野めぐり天龍寺」

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嵯峨野竹林の道

20190115
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十九文屋日記京都旅行2018(6)嵯峨野めぐり天龍寺

 11月1日、ホテルに荷物を預けてチェックアウトし、嵯峨野めぐり。京福嵐山線嵐山駅の駅ビルにあるホテルなので、いつ嵯峨野めぐりをしてもよかったのですが、結局嵐山にいる最終日になりました。

 まず、混み混みだといううわさの「竹林の道」へ。旅行ガイド番組で紹介されたという小道。京都に行ったら何はともあれ金閣寺と竹林の道、というくらい人気スポットになっているらしい。
   

 静かな竹林の道を通りたければ、朝6時前に早起きして観光客が出てくる前に歩くのがベスト、というのを知っていたのですが、11月1日は、チェックアウトの荷物まとめをしていて、結局観光客がわいわいと出てきたあとに、わたしもわいわい組のひとりとして、竹林の道を歩きました。
 原宿の竹下通りのようなごった返しの道でした。荷物などあとでまとめればよかったと、少々後悔。

 このような撮り方ですと、静かな竹林のイメージですが、、、、
 実際には原宿竹下通りのような人ごみ。


 本日のお目当ては、宿泊した嵐山駅内ホテルの目の前にある天龍寺の秋の特別公開曹源池庭園と方丈庭園。天龍寺経営の精進料理。

 ホテルの屋上テラスから見る天龍寺


 天龍寺は、南北朝の争乱もようやくおさまったあと、後醍醐天皇の菩提を弔うために1339(暦応2)年に創建されました。南北に分かれた南朝側の後醍醐天皇を追い詰めて死なせたのですから、足利尊氏も御霊がたたらぬよう、祀る必要がありました。開祖は夢窓疎石。

 寺の建設費用が不足したために、鎌倉時代元寇で途絶えていた元との貿易を再開して、その利益を建設にあてました。天龍寺船の交易です。長く途絶えていた中国との貿易再開ですから、唐物は高値で売りさばくことができ、大儲け。天龍寺伽藍は、1345(康永4)年に落慶法要が行われました。後醍醐天皇も7回忌を盛大に執り行ってもらい、御霊もたたらぬことに。天龍寺船さまさまです。
 それでも、室町時代が最初っから安定を欠く足利幕府だったのは、いろいろあろうが、やっぱり後醍醐天皇のたたりもあったんじゃないかしら。島流しにされて恨みに恨んで亡くなった崇徳上皇なんかよりは、たたりも小さめだったとは思うけれど。

 しかし、応仁の乱から幕末蛤御門の変まで、度重なる戦火その他の火災で、創建時の建物は残されていません。現在の伽藍は、明治以後の造営です。
 明治の上地令によって、京都市内の寺は境内が明治政府の召し上げとなりました。天龍寺も嵯峨野一帯30万坪の境内は3万坪に縮小しましたが、臨済宗五山のひとつとしての格式は高い。 

<きょうの建物>
 建物は、例によって、どれがどれやら、という撮影です。たぶん、法堂と大方丈の建物だろうと思います。







龍門亭から見た禅堂(かな?)


<きょうの庭園>
方丈庭園


曹源池庭園


<きょうの京わたし>
池の前で


<きょうの京ごはん>
龍門亭「篩月(しげつ)」の精進料理。3000円。わたしなら二人前食べられるけれど、禅の教えでは、「満腹は修業のさまたげ」。さまたげの毎日で、禅には向かない私。曹洞宗ですけれど。


篩月ののれんの前で満腹してないのに、このおなか。

精進料理食べたあとの「もっと食えるが修業のため我慢」の顔


<きょうの出会い>
 竹林の道の途中で京都を描いた絵葉書を買いました。竹林の絵。五重塔の絵など。
 画家は中村欣司さん。法律事務所退職後に画家を志し、京都や海外の絵を描いてきました。
 それらの絵を絵葉書に仕立てて、みずから竹林の道で観光客に売っています。私は最初、売り子さんだと思ったのですが、画家みずからの販売でした。
 中村さんと絵葉書の写真をとらせてもらう許可を得て、ブログアップの許可ももらいました。(ご自身のHPにはお顔も出されていますが、ここでは少々加工して)


 中村欣司HP
http://www.asahi-net.or.jp/~ps2k-nkmr/index.html

 今年75歳という中村さん、お元気で絵の制作をお続けくださいますよう。

<きょうの工芸>
 竹林の道の途中、工芸作家が共同で出している店がありました。
 作品制作中

 山ブドウの樹皮を染めて手でひとつひとつ編みこんでいきます。ほしいなあと思ったけれど、ひとつ3万~10万円の籠、買えませんでした。一澤信三郎帆布のトートバック12000円だって、清水の舞台から飛び降りる気分だったのですから(清水寺には今回いかなかったけれど)
 作品見本の展示。この展示品は85000円


<つづく>

ぽかぽか春庭「嵯峨野めぐり大河内山荘、渡月橋、ハン家の餃子」

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20190117
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記京都旅行2018(7)嵯峨野めぐり大河内山荘、渡月橋、ハン家の餃子

 2018年11月1日、天龍寺で精進料理を食べたあと、もう一度竹林の道を通って、大河内山荘へ。

 大河内伝次郎(1898-1962)は、昭和戦前の時代を代表する映画俳優です。代表作は、丹下左膳。
 時代劇スターとして人気絶頂の1931年(昭和6年)に、京都嵯峨の小倉山向かいの亀山山頂に広壮な土地を得て山荘を築きました。自ら庭園設計し、晩年の映画出演収入のほとんどを、持仏堂などを建てるために使ったと伝えられています。
 1962年、63歳で亡くなるまでの30年間、山荘の造営に心を傾け、亡くなったあと、遺族は山荘と庭園を公開しています。

 ごったがえしていた竹林の道を抜けると人は少なくなり、大河内山荘へ足を延ばす人は少数になります。
 山荘の休憩所でお茶を一服して一休み。入園料1000円は、お茶代込。茶菓の最中は、この山荘のオリジナルだそうです。

<きょうのカフェ>
 お茶と名物の最中


 庭園内は、静かな雰囲気でよかったです。山の中の山荘なので、庭園も高低差がある回遊式。かなり登ったり下ったりしました。

 休憩所から竹林を眺める


<きょうの建物>
 庭園内の門


 大河内が撮影の合間にひきこもり、念仏や座禅で過ごしたという持仏堂


 大乗閣

 

 滴水庵(俳優仲間も、京都太秦での撮影の合間に招かれて一服したという茶室)


<きょうの庭>
 紅葉の盛りには2週間早い京都訪問でしたが、色づきのよい紅葉もあり、京都の秋を楽しめました。
 滴水庵まわりの庭。苔もよく手入れされています。


 山の高みにある四阿、月香亭から京都市内を見おろす


<きょうの出会い>
 滴水庵の茶室を覗いていると、女性がひとり、まわりの庭園を見つめています。
 「苔がきれいですね」と、話しかけると「こんなふうな苔庭がほしいのだけれど、手入れがたいへんでしょうね」とつぶやく。苔庭がほしくても、庭もない団地暮らしの春庭には、手入れがたいへんなほど広い庭があること自体がうらやましい。

 話を聞くと、夏の台風で庭が全部泥流に流されてしまったのだ、という。四国の惣観寺、という寺名を伺ったので、どのへんなのか、あとで地図を調べてみました。
 愛媛県の小さな寺、ということでしたが、瀬戸内海の島にある臨済宗東福寺派の末寺でした。

 因島の近く、弓削島という島。地図で見る限りは、風光明媚な瀬戸内のまことによい場所にあるお寺に感じますが、台風で寺の庭も泥流にやられて、復興もいまだし、という状態になっていることがわかりました。尾道から今治への瀬戸内の橋のルートからはずれて、今も渡し船で行くしかない島の小さな寺では、檀家数も限られます。
 寺の復興に頭を悩ましている若い大国さん、どうぞ、復興がすすみますように。(大黒さんなのか、跡継ぎの女性僧侶なのか、聞きませんでしたけれど)

<きょうの京わたし>

 滴水庵前で


 大乗閣の前で


<きょうのひとり散歩>
 大河内山荘から渡月橋へと降りていく道を散歩。
 小倉百人一首にちなんだ歌の石碑がそこここにあり、歌を思い出しながらたどっていくにもいい散歩道です。

 桂川に出ました。


 大勢の人が行きかう嵐山随一の観光名所、渡月橋(私は、バスでは何度もわたりましたが、徒歩では渡らず)

 
 ホテルに預けておいた荷物をひきとり、朋友ハンさんの家へ。

<きょうの京ごはん>
 ハンさんとシンちゃん手作りの餃子。中国の人は、皮も必ず手作りします。私が包んだ餃子は、水餃子にすると中身が出てしまう不出来な形だったので、焼き餃子に。


 おいしかった餃子パーティ


<つづく>

ぽかぽか春庭「龍谷大学、伝導院」

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20190119
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十九文屋日記京都旅行2018(8)龍谷大学、伝導院

 11月1日の夜から、朋友ハンさんの家に滞在。
 「宿泊のお礼」は、10月28日夜に、「客員研究員をしている大学の紀要に提出するハンさん論文のネイティブチェックをしたこと」と、「長楽館でのアフタヌーンティ招待を宿泊代がわりにしてね」という、ずうずうしい押し掛け客です。

 ハンさんは「先生の娘では年齢が近くて申し訳ないですから、私は、姪のつもりです。姪の家に泊まるのに、おみやげなんていらないんです」と、歓迎してくれました。
 娘が手作りした皮細工の名刺入れなどをプレゼントしたら、とても喜んでくれたので、それが宿泊代、ということに。私の娘と息子は、1994年の夏休みに中国に滞在し、ハンさんに面倒を見てもらってハンさんを姉のように慕っていたのです。

 11月2日朝。ハンさん娘のシンちゃんは、国際交流協会の日本語教室へ。私とハンさんは、東西の本願寺へ。

 まず、訪れたのは龍谷大学。
 大谷大学は東本願寺が設立。龍谷大学は西本願寺が設立した大学です。龍谷大学には、明治期の擬洋風建築の学舎が残っているので、見たかったのです。

 擬洋風建築については、各地に残る建物を訪問してきました。明治初期、日本の大工さんたちが、西洋建築を目で見て、伝統的な大工の腕のみで「見た目洋館」を作り上げた美しい建物です。学校建築や病院、役所などが各地に残っています。

 龍谷大学大宮学舎もそのひとつ。木造で洋館風の二階建てを建て、木の壁に石を張り付けてあります。1879(明治12)年竣工。

 学舎の両側には校舎(北黌・南黌)、正門・旧守衛所が建築当時のまま残されていて、建築群として擬洋風が残ったのは、稀有な存在です。

<きょうの建物>
 龍谷大学大宮学舎正門


 旧守衛室(現大学オリジナルグッズ展示場)


 大宮学舎正面

 大宮学舎正面入り口。後方に見えるのは校舎(南黌)
 

 校舎(北黌)


 本願寺近くには、伊藤忠太がイスラム建築を模して作ったという「本願寺伝導院」があります。竣工1912(明治45)年。

 伊東忠太(1867-1954)は、日本語の中に「建築」ということばを取り入れた人であり、(それまではアーキテクトの訳語は「造家」とされていた)建築を西洋のモノマネではなく、「日本の建築」として確立しようとした人です。
 戦災などにより失われた伊東作品もある中、戦災を受けなかった京都には、伊東の作品が残りました。その中のひとつが、旧・真宗信徒生命保険株式会社本社屋。
 1973(昭和48)年からは「本願寺伝道院」となり,本願寺派の布教・学問所として使われています。

 トルコに留学した経験も持つ伊東に、真宗信徒生命保険株式会社本社屋を伊東に発注したのは、西本願寺第二十二世法主・大谷光瑞(1876-1948)。大谷探検隊を率いて西域踏査などを行った人です。
 伊東のイメージの中には、大谷光瑞が探検した西域、伊東自身の留学地であったトルコのモスクがあったのでしょう。

 外観は、ヴィクトリア朝風(アン女王様式)の赤レンガに白い石の横縞模様。細部にサラセン(イスラム教徒の建築様式)やインド風の意匠が取り入れられています。
 伝導院の屋根のドームは、建築当初は京都の人たちをびっくりさせたことでしょう。今も、周囲の町屋からみると異質な建物ですが、なぜか京都には、近代建築も似合うのです。南禅寺境内の水路閣も、お寺の境内の中に溶け込んでいました。
 
<きょうの建物>
 塔が見える伝導院南側


 本願寺側(北側?)正面のドーム

 ドームのある正面


 ドーム屋根は高いところから撮らないとうつらないので、借り物画像で


<きょうの工芸>
 伊藤忠太の動物たち
 車止め忠太動物(改装後はレプリカを展示しているということでしたが、石の色から見て、オリジナルとレプリカが混ぜて展示してあるのかもしれません。)




<きょうの京わたし>
 伝導院南側で


 京の大工たちが見様見真似で作り上げた擬洋風建築の大宮学舎、西洋建築の技術の中に日本的な建築を模索した伊藤忠太。明治と言う時代の中で、建築に携わる中で「近代」と格闘した熱い思いが伝わってくるように感じました。

<つづく>

ぽかぽか春庭「西本願寺と東本願寺」

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20190120
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十九文屋日記京都旅行2018(9)西本願寺と東本願寺

 ハンさんと東西の本願寺にお参りしました。
 龍谷大学から寺塀に沿って歩くと、国宝唐門が修復中。2022年に修復終了だそうです。
 西本願寺で見たかった飛雲閣も修復中です(2020年3月まで)。


 ハンさんは、お寺の御朱印長集めをしていて、1年間京都に滞在中、ずいぶんの数がたまった、ということです。

<きょうの建物>
 西本願寺総門から伝導院の屋根がのぞく

 阿弥陀堂門


 御影堂1760(宝暦10)再建


 御影堂内部


 経堂


 太鼓楼


 親鸞聖人信心の勢威においては東西並び立つものの、国宝や重要文化財の建物が残る西本願寺に対して、お東さんの建物は明治以後の近代和館。これも貴重な建物ですが、観光客にとっては、「国宝」と銘打たれたほうが、ありがたそうな気がしてしまう。これぞ俗界の考え方。

 もっとも、東西とも考え方は俗界に近い。
 お東さん信者にいわせると、現門主は今上天皇の従弟にあたる尊いお方、というのですが、信者でない者や「天皇の従弟だから無条件にありがたい存在だ」と考えないものにとっては、どっちもどっち。お西さんの22世法主大谷光瑞は大正天皇の従弟だったし。そもそも宗教家が爵位をもち華族となったこと自体、宗教にはあるまじき、と私は思っています。宗教家が俗界の地位をありがたがるのなら、俗人の精神状態と同じ。

 逼塞していた鎌倉室町のころはいざ知らず、織田信長への抗戦をめぐって分裂し、家康が本願寺の東に新たな寺を建立したころから、教団はすったもんだがありまして、現在では東本願寺がさらに4教団に分裂していて、あらまあ、宗教の主導権争いって、たいへんなのね。

 「この菊の御紋が目に入らぬかっ」というお東さんの門(16弁の菊ではないような)


 真宗本廟御影堂 1895(明治28)再建


 阿弥陀堂 1895(明治28)再建


 御影堂門 1911(明治44)再建


<きょうの工芸>
 西本願寺の門柱の下の部分。作り出した職人は、柱の下に今も作品が残っていることを知らないでしょう。私は「天皇の従弟だから尊い」という人より、このような心をこめて自分のできる技を残そうとした人を、ありがたいと思い、手を合わせてきました。私は職人仕事の信者ですから。


<つづく>

ぽかぽか春庭「京町屋染め工房と祇園をどり」

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20190122
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十九文屋日記京都旅行2018(10)京町屋染め工房と祇園をどり

 東西本願寺の周辺や伝導院の周辺には、古い町屋がたくさん残っています。
 土地の有効利用のためにはビルにしたほうがいいのでしょうが、2階建ての町屋がつづく街並み景観を保つために、伝統家屋には税制で有利にするような措置をとって、保護する必要があるでしょう。

 町屋の耐震工事には「耐震改修促進税制」などがあるようですが、実際には代替わりの相続税が高いので、町屋持ち主が亡くなるとビルになってしまう例も多いとか。

<きょうの建物>伝導院周辺の町屋


京町屋染工房「遊」の店構え


<きょうの工芸>
 東本願寺前の町屋のひとつに目がとまり、店の中へ。染物屋さんでした。「京町屋 染工房遊」という店。
 注文に応じて、手書き友禅やロウケツ染めを1枚1枚染めます。デパートの呉服売り場で買えば100万近くになるという値も、工房直売だから、10~30万円で買える、というおかみさんの説明に「お買い得どすなあ」と応じてみましたが、むろん、着物が買えるわけはなく、袋物を買ってハンさんに「シンちゃんのおみやげにしてね」とプレゼント。

 工房の染め絵具

 染めの説明をしてくれたおかみさん


 ハンさんシンちゃんは、ぎおん踊りの招待券をもらってあったので、祇園会館で舞妓さん芸妓さんの踊りを見るのを楽しみにしていました。シンちゃんは、日本舞踊の先生について、お稽古を始めたところなのです。


 私は当日券4000円なのでどうしようかと思っていましたが、ハンさんの知り合いが当日券を買う際に、私の分の購入も頼んでおいた、というので、見ることにしました。東京だと、知り合いでも出演しているのでないと日本舞踊の講演に4000円だすことはないけれど、京都で舞妓さんの踊りを見るというのもいい記念になるでしょう。

 祇園会館


 踊りの前に、入場券についているお茶券のサービス。
 芸妓さんがお茶をたて、舞妓さんが正客さんにお茶を運ぶお点前がありました。正客以外の見物客には、奥からどどっとお茶が配られます。
 外国人観光客は、芸妓さんのお点前を喜んで見ていました。

 芸妓さんと舞妓さん。祇園をどりのパンフレットには2017年のお点前をした芸妓&舞妓さんの写真が出ていました。こちらは2018年のふたり。


<きょうの京わたし> 踊りが始まる前なら撮影OKでした。


<きょうの出会い>
 私の分も当日券を並んで買っておいてくれた王さん。王さんは、ハンさんの大学院ゼミ仲間です。
 王さんは「私たち、前に会ったことありますよ。私は覚えています。きっと日本語学の研究会とか学会で会ったにちがいない」と言います。「いいえ、私はこのところ学会にも研究会にも顔を出したことがないので、違うと思います」と返答しても、「いいえ、ぜったいに会ったことがあります」と。

 夜になって王さんから、ハンさんにメールあり。「どこで会ったか思い出しました」
 王さんは、私が泊まっていたホテルのフロントでアルバイトをしていたのでした。まあ、なんて奇遇。私のほうは、何人もいるフロント係の顔、女性とは言葉を交わしたので見おぼえた人もいたのですが、男性陣はいちばんのイケメンの顔をぼんやり覚えているけど、、、、あ、王さんがイケメンじゃないってことじゃないから、、、、。

 王さんは火曜日だけのアルバイトなのだとか。偶然の出会いなのに、一宿泊客を覚えているなんて、さすがフロント係に抜擢されるだけありますね。(留学生アルバイトは、だいたい部屋の清掃か調理下働きなど日本語を使わなくてもいい部署に配属される場合が多く、フロント係になるのは日本語完璧な優秀な人)

<きょうのカフェ>
 京都駅近くのパン屋喫茶店で大急ぎでおそい昼ご飯をたべ、祇園会館へ。パンは二人分ですよ。


<きょうの京ごはん>
 ハンさんシンちゃんが用意してくれた、豆乳鍋。エビ、牛肉、豆腐、野菜などがたっぷり入った栄養満点のおいしい鍋でした。


<つづく>

ぽかぽか春庭「桂離宮」

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20190124
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十九文屋日記京都旅行2018(11)桂離宮

 私は、桂離宮が事前申し込み制だけでなく、予約人数に空きがあれば当日入場もできる制度に変わったことを知らずにいました。50年間も「申し込みをしておいても、その日に京都に行けなくなることもあるだろうし」と思い込んでいて、京都に行くことは何度かあっても、桂離宮を訪れる機会はなかったのです。

 京都に行くことが決まったあと、宮内庁の予約カレンダーには、すでに「予約人数に達しました」という表示がずらり。
 2018年10月末日までは無料公開だったのに、11月1日から有料1000円。
 で、11月3日土曜日9時からの「外国人優先日」という枠に応募しました。

 ハンさんは、桂離宮には自転車で行けるところに住んでいて、時間があるときにヒョイと出かけて、人数に空きがあれば観覧してくる、というのを何度もしてきてました。だから、私といっしょに出かけることはなかったのです。
 「ハンさんは何度も桂離宮に行ったことあるでしょうけど、何度訪れても、秋の桂離宮はことさらに美しいと聞きますから、ぜひいっしょに入場してね。外国人枠なので、ハンさんの名前を並べて申し込みしたから」と、無理やりのご同行依頼です。



 朝、早めに出て、桂離宮のまわりを散歩してから、入場という計画。桂大橋周辺や、離宮周辺を散歩してから予約時間に入場しました。

 外国人枠ということでしたが、英語を話すガイドさんだけ。最初のうちは神妙に聞いていた英語解説は、ガイドブックに書いてあることをさらに簡単にした内容でしたから、中国語が聞きたいハンさんと日本語がいい私は、英語のガイドを片耳で聞くだけで、適当に写真を撮りながら「外国人枠」の一団についていきました。

 桂離宮の写真集、いろいろな種類が出ていますが、自分で撮影したのをあとで「思い出」として見るのは断然気分が違います。以下、ヘタな写真ですが、私自身の視点で見た桂離宮。11月3日は晴れの特異日ですが、この日も、これ以上ない秋晴れ。インスタ映えに格好の日。

 桂離宮周辺は、宮内庁依頼の農家が離宮用の稲を作っています。


 竹垣

 表門
 

 離宮内からこの門を見学したとき、「竹でできている」というガイドさんの解説を聞いて「What tree is used in the gatepole of that gate.」と、ガイドさんに質問しました。外人枠だから、日本語の質問は控えるべきかと、慣れない英語で聞いたのに、ガイドさんの答えは「Bamboo,I said so. Didn't you listend my explanation?」強い調子でした。

 竹でできている部分はわかるけれど、門柱の太い木はなんの木か説明がなかったから聞いたのです。写真で見てもわかるように、太い門柱は竹ではありません。(あとで調べてみたら、檜の丸太だとわかりました)

 ガイドさんがムッとして「竹」と答えたのは、私が解説を聞いていないと思ったのか。
 写真を撮りながらでも、ちゃんと声は聞こえていました。これは、たぶん私の英語力のなさが問題。私は、門gateと門柱gatepoleを分けて質問したつもりでしたが、英語では、門、門柱、門扉、訳すと全部いっしょくたでgateになるみたいです。英語での説明では、門扉の部分と門柱の部分を分けて説明する必要はないので、「この門は竹製」という説明で間に合う。

 ガイドさんは、gateとgatepoleを分けて質問したことを問題にせず、「聞いていなかったんですか、竹って説明したでしょ」という回答になったのだろうということに、その時は思い至らず、釈然としませんでした。竹を見たことのない外国人もいるので、「竹でできている門です」という案内のことばがわからなかったと思われたのかもしれません。外人枠で見学したこちらが悪い。

 以後も、この女性ガイドさんの英語説明は片耳で聞き、写真を取ることのほうに熱心に一団についていきました。説明内容はほとんどガイドブックに書いてあることですし、質問したら叱られるのでは気分が落ちる。でも、ガイドさんにしてみれば、熱心にふんふんとうなずきながら説明を聞いてくれる人がありがたくて、写真撮りながらあちこち動き回っている観光客は目障りな存在だったと思います。

 宮内庁の園内地図
https://sankan.kunaicho.go.jp/guide/institution_katsura.html

<きょうの庭と建物>
 橋を渡って、御幸門へ


 御幸門。18世紀の再建。茅葺切妻屋根で,柱と桁にはアベマキ(木偏に青)の皮付き丸太。


 外腰掛(そとこしかけ)の屋根の中


 外腰掛付近
 

 蘇鉄山。江戸初期には、南国の木であるソテツを見たことのある人は少なく、この蘇鉄山を通る人が「おお、これは珍しい」と驚くことが「おもてなし」のひとつでした。


 園内には24の灯篭があり、それぞれ形が違うそうです。私は灯篭を全部写真にとることはできませんでしたが、24の灯篭を並べているサイトもありますので、興味があったらそちらへどうぞ。


 池から松琴亭を望む(茅葺入母屋造の茶亭)
 



 松琴亭室内

 

 ふすま絵、棚の戸袋の絵


 池を回遊していく









 賞花亭




月波楼


 園林堂




 笑意軒前の三角形灯篭



 
 笑意軒




 書院








 1時間半ほどの桂離宮ツアーでした。とても美しい庭と建物。
 見学時間が短かくて、全体をゆっくりまわることはできませんでしたが、これからは、京都に行く機会には、申込者が少ない時間帯を狙って、当日券で入園しようと思います。

<きょうのカフェと京ごはん>
 山陰道茶店中村軒のゆずの葛ゼリー

 中村軒のにゅうめん


<きょうの京わたし>
 桂大橋

 桂離宮の庭

 なんといっても食べているときが幸せ顔


<つづく>

ぽかぽか春庭「国際交流フェスティバルと疎水記念館」

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20190126
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十九文屋日記京都旅行2018(12)国際交流フェスティバルと疎水記念館

 2018年11月3日。午前中に桂離宮を見学したあと、午後は京都国際交流会館へ移動。
 ハンさんの娘シンちゃんは、ハンさんが1年間研究滞在をしている間、北京の大学を休学して、家族滞在ビザにより京都で暮らしています。京都で3か月すごす間に、日本語日本舞踊茶道などを学び、2019年4月からの京都市内の大学に留学する予定です。

 11月3日は、国際交流会館の「国際交流フェスティバル」が開催されており、桂離宮を見たあと、急いで南禅寺近くの国際交流会館へ。
 京都近辺に滞在する外国人が日本人と交流する祭りです。


 シンちゃんは、喫茶室の係になり、お茶を運んで外国人日本人のグループの中でおしゃべりするというボランティア係です。

 私とハンさんは、この国際交流カフェで若い男性のテーブルに座ってお茶を飲みながらおしゃべり。流暢に日本語を話すイケメン、若く見えたので学生かと思って、ときどき彼の日本語の間違いを指摘しながらおしゃべりしました。ハンさんも私も日本語教師であることを明かして話していたので、失礼にはあたらなかったとは思うのですが、彼は学生ではなく、韓国から来ているビジネスマンでした。


 京都に本社がある半導体メーカーで働いている人で、2年ほど京都に滞在しているとのこと。とても若く見えたのですが、話が進んできたら、ハンさんより2歳年下で、奥さんとお子さんは韓国に残して単身赴任していることがわかりました。
 おしゃべりの中で、ヨンソンさんは「韓国から知り合いが京都にくると、一番最初に金閣寺と清水寺に行きたがるので、私はもう20数回金閣寺に行きました」と言っていました。さもありなん。京都滞在だと、観光案内に駆り出される回数も半端じゃないでしょうね。

 交流フェアではさまざまな催しが行われていましたが、ハンさんはバザーに行って買い物。私は、ロビーで行われているイベントでダンスを見たり、「みんなで踊ろうフランス田舎のフォークダンス」に参加して過ごしました。

 ポリネシアンダンスを披露するグループ


 シンちゃんは、交流フェアの打ち上げに参加するというので、私とハンさんは、すぐ近くの琵琶湖疎水記念館を見学。

 第3代京都府知事北垣国道とエンジニア田邉邦郎の努力によって、1890(明治23)年に第一疎水が完成しました。南禅寺の疎水水道閣をはじめ、さまざまな難工事を経て、京都は現在まで琵琶湖の水によって潤っています。

 夕暮れの疎水記念館前噴水


 11月3日は、第2代京都市長を務めた西郷菊次郎(1861-1928)の展覧会が開催されていました。菊次郎は西郷隆盛の長男です。(母は、奄美大島の愛加那)。
 菊次郎は、西南戦争で銃弾により右足切断。ために戦線から離れさせられ、父の弟である西郷従道のもとに投降しました。

 菊次郎が叔父のすすめによりアメリカに留学した理由のひとつは、切断した右足の義足をもとめてのことでした。最新技術の義足を得て帰国したのちは、父が成し遂げることのできなかった「新しい明治の世」に貢献することができました。
 6年半の京都市長在任期間、発電、上下水道整備、市電設置の京都三大事業を推進し、京都の近代化を図りました。大南洲の陰で菊次郎はあまり知られてきませんでしたが、NHKの大河ドラマ「西郷どん」では、語り手役(西田敏行)が菊次郎であった、という設定でした。


 疎水に掲げられている「楽百年之夢」は、北垣国道による


 蹴上げインクラインは、高低差のある疎水の間をつなぐ船の移動用鉄道です。陸運の発達により、現在は使われていませんが、京都市民の憩いの場に整備されています。


 ハンさんの住まいの近くの居酒屋で晩御飯。ハンさんは「近所だから入ってみたかったのだけれど、お酒を飲むところに娘は連れていけないし、一人では入れないので、先生といっしょに入って見たかった」と。でも、「日本の居酒屋というのがどういうところかわかってよかった」と、お酒はいっぱいでおしまい。私は何杯でも飲めるんだけれどね。

<つづく>

ぽかぽか春庭「京都国立博物館」

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 京都国立博物館旧館(明治古都館)

20180127
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十九屋日記京都旅行2018(13)京都国立博物館

 11月4日、朝早くハンさん宅を出て、国立博物館へ。
 9時開館の博物館なのに、7時に着いたときはすでに何人かの行列ができていました。若い女性がほとんどです。
 博物館の塀

 7時には行列


 いったいなぜ、このように朝早くから門前に並んでいるのかと、いつもの好奇心で並んで待つことに。前後の若い女性たちの話から、彼女たちは「刀剣乱舞」というゲームやアニメのファンで、それぞれのお気に入りの刀剣と刀を擬人化したキャラクターのファンであることがわかりました。

 刀剣展と併催で「刀剣乱舞のキャラクター等身大展示」があり、お気に入りのキャラといっしょに写真を撮るために、並んでいたのです。「トーラブ」と彼女たちが略語で語っているのが「刀剣乱舞」のことだと、しばらくはわかりませんでしたが。

 刀剣乱舞の展示ポスター前で写真を撮る人たちも大勢いました。


 ほんとうは、8時に三十三間堂が開いたらすぐに1001体の仏像を眺め、そのあと博物館に入る予定だったのに、仏像が後回しになり、トーラブファンでもない私としては、失敗でした。



 私は刀にはまるで興味がなく、国立博物館に来たのは、片山東熊設計の明治古都館を見るためです。しかし、根が貧乏性だから、入館料払ったからには刀もながめ、若い女性たちに交じって、トーラブのキャラといっしょにちゃっかりツーショット撮りました。

 刀剣乱舞のキャラ。刀を擬人化したアニメが大人気。


 京都国立博物館には、片山東熊設計の明治古都館のほか、通常の展示に使う新館、茶室堪庵があります。

<きょうの建物>
 京都国立博物館(旧)正門

 京都国立博物館明治古都館
 
 京都国立博物館前の噴水


 明治古都館玄関

 ドーム屋根


 明治古都館内部






 堪庵の門

 数寄屋造りの母屋


 茶室内部

 上田堪一郎が寄贈したお茶室は市民に貸し出しを行っています。

<きょうの工芸> これだけは撮影OKだったのだけれど、刀剣の銘、忘れた。


<きょうの京わたし>
 トウラブのどの刀だかもわからず、人がいなくなったスキにちゃちゃっと撮影。 


<つづく>

ぽかぽか春庭「三十三間堂と並河靖之記念館」

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三十三間堂千体仏

20180129
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十九屋日記京都旅行2018(14)三十三間堂と並河靖之記念館

 京都国立博物館の隣にある三十三間堂(蓮華王院本堂)。
 蓮華王院は、平安末期の後白河法皇の寺。時の権力者平清盛が財力を駆使して建てました。しかし、1249年の火災で焼失、現存の本堂は、鎌倉期、後嵯峨天皇の時代になって1266年に再建されました。

<きょうの建物>
 三十三間の長さがある本堂。



 戦国の世も治まった桃山時代に豊臣秀吉は、建物の修理、土塀の築造などを行いました。
 秀吉の土塀


<きょうの庭園>
 三十三間堂の庭


<きょうの工芸>
 本堂におわすは、鎌倉期の再建時に大仏師湛慶(たんけい)が、同族の弟子を率いて完成させた1001体の仏像。国宝手観音坐像と重要文化財千体の千手観音立像。
 124体は、お堂が創建された平安期の尊像、その他が、鎌倉期に16年かけて再興された像です。千体のうち、500体には作者名が残され、それぞれの観音像の造り手が判明しています。
 千体観音像の前に、観音二十八部衆に風神・雷神を加えた30体の等身大の像があります。




 仏像の見方はそれぞれであり、「美」を鑑賞するもよし、ひたすら祈るもよし。
 ただ、国立博物館を見学してのちの三十三間堂になったので、すでに観光客は押すな押すなの状態になっていて、ひとり静かに一体一体と向かい合うというひとときはもてませんでした。朝早く開寺と同時に入って、お参りすればよかったと後悔。「刀」は私の範囲ではなかったし、朝早く並んでお気に入りトウラブキャラとツーショット撮る予定もなかったのに、刀のほうに並んでしまった。

 千体の観音様も、二十八部衆も、とてもよい仏さまでした。千体の仏像を彫り上げた500人の名前のわかっている仏師にも名前のわからない仏師にも、よいものを後世に残しましたね、とお礼をいい、観音様にはいつもの通り、家内安全国家安泰世界平和宇宙長久、、、、それにつけても金の欲しさよ、とお祈りしました。

<きょうの建物その2>
 並河記念館付近の町屋

 京都の町屋に出ている地名表記「東山区三条通北裏白川筋東入ル堀池町」 


 並河靖之記念館

 玄関

 庭から見た記念館

 池の上に張り出した縁側

 応接間(並河靖之の事績を紹介しています)


 並河靖之(1845-1927なみかわやすゆき)は、明治時代を代表する工芸家。有線七宝の第一人者でした。無線七宝を得意とした濤川惣助(なみかわそうすけ)とともに、明治工芸をけん引しましたが、作品のほとんどは海外輸出むけで、私も濤川惣助の作品は、赤坂迎賓館の壁に飾られている額絵を見たのみ。並河靖之の作品は、庭園美術館で大規模な回顧展が開催されたおりに、たくさんの作品を見ることができました。
 
 個人の自宅を記念館にした美術館がたいていそうであるように、並河記念館も、靖之が残した七宝作品の展示点数はごく少なく、しかも撮影厳禁。しかし、最盛期には40人もの職人が靖之の下絵をもとにして七宝を制作していたという工房をみることができたのでよかったです。

 春庭が庭園美術館で並河靖之展を見たときのリポートはこちら
https://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/7e459b3be5cab55b4d0f2f3e574ce612

 今回の並河靖之記念館の訪問目的は、作品の鑑賞ではなく、京の町屋の内部を見学できる、という点にありました。
 見学コースの最後に、玄関からつづく台所の見学がありました。ほほう、京都の町屋の造りはこないなってまんねんな、と、見学させてもらいました。

 並河靖之記念館内部


<きょうの庭園その2>
 並河家庭園は、京都の多くの個人住宅庭園がそうであるように、七代目・小川治兵衛(植治)の作になる庭です。こじんまりとしていて、白川からひかれている水を生かした気持ちのよい庭園と思いました。

並河記念館の庭




<きょうのひとり散歩>
 並河靖之記念館見学を終えて、この界隈を歩きました。白川の流れの岸辺には柳の並木。細くて人がひとりやっと通れる幅の一本橋。踏み外しそうだったから、私は「からとはな橋」を渡りました。漢字はたぶん「唐戸鼻橋」


 この橋は、たぶん、梅宮橋


 前回はタクシーを使ってぼられた一澤帆布鞄店へも、ひとりで歩いていけました。ほんとに近くでした。



<きょうの京ごはん>
 並河記念館への橋を渡る手前にあったお寿司屋さんで寿司ランチ


<きょうの京わたし>並河靖之邸庭園で


<つづく>

ぽかぽか春庭「2019年1月目次」

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20190131
ぽかぽか春庭2019年1月目次


<2019年1月目次>
0101 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記正月(1)謹賀新年2019
0103 2019十九文屋日記正月(2)しし年
0105 2019十九文屋日記正月(3)新春のお喜び申し上げ〼

0106 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記京都旅行2018(1)南禅寺水路閣と疎水
0108 2019十九文屋日記京都旅行2018(2)南禅寺
0110 2019十九文屋日記京都旅行2018(3)順正書院と無鄰菴
0112 2019十九文屋日記京都旅行2018(4)三条通りの近代建築
0113 2019十九文屋日記京都旅行2018(5)長楽館
0115 2019十九文屋日記京都旅行2018(6)嵯峨野めぐり天龍寺
0117 2019十九文屋日記京都旅行2018(7)嵯峨野めぐり大河内山荘・渡月橋
0119 2019十九文屋日記京都旅行2018(8)龍谷大学・伝導院
0120 2019十九文屋日記京都旅行2018(9)お西さんお東さん
0122 2019十九文屋日記京都旅行2018(10)京町屋染め工房と祇園をどり
0124 2019十九文屋日記京都旅行2018(11)桂離宮
0126 2019十九文屋日記京都旅行2018(12)京都国際交流会館・疎水記念館
0127 2019十九文屋日記京都旅行2018(13)京都国立博物館の刀展
0129 2019十九文屋日記京都旅行2018(14)三十三間堂と並河靖之記念

ぽかぽか春庭「松尾大社・重森三玲の庭園」

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20190202
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十九文屋日記京都旅行2018年11月(12)松尾大社・重森三玲の庭園

 京都滞在最後の日、11月5日。まだ行っていないところで、これだけは今回見ておかなければ、というところは。今回のテーマ「建物、庭園、工芸」のうち、予約しておかなければいけない重森美玲庭園美術館、いつ予約申し込みしようかと思っているうちに最終日がきてしまいました。もうひとつ、重森美玲の作庭がある松尾大社。ホテルのある嵐山から近いので、いつでも行けると思っていて行きそびれていたので、参拝することに。

 松尾大社は、松尾山におわす山の神を大杉谷の磐座に祀ったのが最初。太古の昔は、各地に山の霊、海の霊を祀る信仰がありました。神は大樹や大岩に降臨しました。奈良大神神社の神様大物主は、三輪山自体が神として祀られている古来の信仰を伝えており、本殿はない、という古式が伝わっています。同じく、山をご神体としていた松尾大社ですが、渡来人の秦氏が一帯を開墾したあと、701(大宝元)に秦忌寸都理(はたのいみきとり)が大杉谷磐座の神を秦氏の守り神とし、大山咋神を祀る本殿も拝殿も整備しました。

 平安以後は平安京の守り神として皇室の尊宗も篤く、現在まで「大社」と名乗っています。神社の呼び名、明治政府は神社の統制を行って、皇室祖先を祀る神社を神宮と呼び、皇室に許された神社のみ大社と呼んで管理しました。政教分離の現在では自分の家にある祠を大社と呼ぼうと村の鎮守を神宮と呼ぼうと自由ですが、、、。

 さて、この松尾大社の庭を造った重森美玲(1896-1975)。日本美術学校(現藝大)や東洋大学に学び、画家を目指して果たせず、華道家として出発しました。全国の庭園を調査して1939(昭和14)年、『日本庭園史図鑑』26巻を上梓し、同時に東福寺方丈庭園を作庭して以来、日本各地に庭を造りました。
 松尾大社の庭は1975年に完成。庭づくりにかけた生涯、晩年の総仕上げ、という庭です。

<きょうの建物>
 楼門 江戸時代初期の建物


 本殿 室町初期の1397(応永4)年に建造、1542(天文11)年に大修理をしたという


<きょうの庭園>
 上古の庭

 重森は、松尾山の磐座の代わりとしてこの上古の庭の石を組んだそうです。

 曲水の庭


 平安の貴族たちが雅な曲水の宴を行うときの庭をイメージして、石組で表現したとの解説。

 蓬莱の庭

 蓬莱の庭は楼門の前にあり、こちらは拝観料無料です。 

 庭のあちこちに石亀さん。亀は松尾大社の神の使いです。


 神の使いの亀さんは、御神体松尾山のどんなお告げを知らせに来てくれたでしょうか。亀は、水や雨をもたらす使いだったでしょうか。
 秦氏による開墾は、渡来人の知恵によって桂川からの水路を整備することによって、一帯を農耕地としていきました。大山咋神が酒の神様とされたのも、渡来人の酒造りの技から。室町時代以後、松尾大社は「日本第一酒造神」として杜氏たちの信仰を集めています。神社内に酒資料館があったので、見学しました。

 我が国土は、多くの渡来人によって開かれてきたのだなあと思いながらの観覧でした。さまざまなことに高い技術を持つ渡来人は尊敬を集めてもいたでしょう。また、秦氏が古来の松尾山磐座を一族の氏神としたのも、この国土に根を下ろしていくひとつの過程でしたろう。
 働き手としてこの国に渡来する現代の渡来人たちに幸おおくあれと願いつつ、蓬莱の庭をめぐりました。

<きょうの京わたし>
 蓬莱の庭で


<つづく>

ぽかぽか春庭「京都外国語大学・東寺」

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 東寺五重塔は京都のシンボル

20190203
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十九文屋日記京都旅行2018(15)京都外国語大学・東寺

 11月5日、京都旅行最終日。午前中松尾大社参拝のあと、ランチは近くの京都外国語大学学食で。ハンさんと校門前で待ち合わせしました。
 京外大は広くはないですが、キャンパスに外国人も多く、外国語大学の雰囲気がある落ち着いた大学でした。

 1年間の研究留学の間、ハンさんはゼミでの研究ももちろんですが、京都という歴史ある町のなかで、日本文化について多くのものを得た、と言っていました。テレビ番組や本の中で、日本についてほとんどのことは知っているつもりになっていたけれど、実際に住んでみると、新しく知ることの連続で、四半世紀前に日本に2年程会社員として滞在したとき以上に多くのことを学ぶことができた、と話していました。

 ハンさんのゼミ教室や図書室などを見学し、キャンパスカフェでランチ。ランチタイムが終わって、午後のゼミがあるハンさんと別れて、ひとり東寺へ。

 ハンさんは、「発表者じゃないので、ゼミはお休みできます。私がついていかなくても大丈夫ですか。先生のように旅行中ひとりで歩き回る日本の女性、私はほかに知らないです」というのです。しかし、私の友人たちは、みな一人で旅し一人で山に登る人ばかりなので、自分がそんな珍しい存在だとも思わなかった。だれかといっしょも楽しいし、一人で好き勝手に歩くのも楽しいと思うのですが。

 最後の訪問地は東寺。ゆうぐれ近く、秋の特別公開中の東寺、五重塔の中を拝観できて、よかったです。

 東寺は真言宗総本山。別名として「教王護国寺」があり、ほかにも正式な寺名があるそうですが、東寺も正式名称のひとつ。

 平安初期、嵯峨天皇が空海に寺を下賜。以来、密教寺院の根本道場として栄え、現在は世界遺産のひとつになっています。寺の建物はたびたび火災にあい、創建当時の建物は残っていませんが、金堂は豊臣秀頼の寄進により1630(慶長8)年に再建されたもの。五重塔は、1644(寛永21)年に建てられた5代目の塔です。建物は何度かの再建を経ていますが、伽藍の並びなどは平安初期の形式を伝えており、現代まで弘法大師のお寺として信仰を集めています。私も、立体曼陀羅の仏様たち、五重塔の中の仏様たち、弘法大師様に念入りにお祈りしてきました。家内安全国家安泰世界平和宇宙長久、、、、それにつけても金の欲しさよ、、、って、毎回同じやねん。

<きょうの建物>
 金堂



 食堂
 

 五重塔


 夜叉神堂 文殊菩薩の化身雄夜叉と本地虚空蔵菩薩の化身の雌夜叉をまつる。歯痛にご利益あるそうです。今のところ歯は痛くないので、建物を見学しただけでお参りはしませんでした。 


 東門(不開門)


<きょうの庭園> 東寺庭園


<きょうの工芸> 
 仏像を作り上げた仏師たちは、もとより「工芸」として仏像を彫るのではなく、そこにおのずと仏の姿を見出し、仏に出会うために一体の像と向かい合う。像が完成したとき、僧侶による「開眼供養」などしなくても、仏師によりすでにホトケの魂は入っているのだと私は思います。
 五重塔の中のみほとけ


立体曼陀羅のみほとけ裏側


 金堂のご本尊薬師様


 夕暮れの東寺。全部は見る時間がなかったので、またゆっくり来たいです。
 大急ぎでハンの家にもどり、買ってきたお弁当を食べて京都駅へ。

<きょうの京ごはん>京都外大学食で。定食に小鉢を付け加えたらちょっと大盛に。むろん、完食。


<きょうの京わたし>京都外大の校門近くのなにやらの記念碑前。

 

ぽかぽか春庭「京都駅から」

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20190205
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記京都旅行2018(16)京都駅から

 京都旅行中、地理に弱いので、京都市内をバスでめぐるときに、いちいち京都駅にもどって、そこから次の目的地に乗り換えました。京都駅は市の真ん中にないので、時間のロスはありましたが、近道をしようとするとたいていおかしな具合になるので、京都駅を基点にするのがいちばん確実な方法でした。

 それでもめざしていた建物に巡り合わなかったなど、いろいろ失敗も多かったけれど。
 たとえば、「京都にあるうどん店「なか卯」は、元富士ラビットの建物の中に入っている」という有力情報を建物散歩先達のyokoちゃんに教わっていたのですが、、、、。
 10月25日の朝、5時着の夜行バスを降りても京都駅前は閑散としています。どこも開いていない中、一軒だけ電気がついていた店、京都駅前の八条口にあるなか卯に入り、牛タン丼を注文。ビルの写真もとって、「京都に着いて、いの一番に富士ラビットのビル写真撮れたなあ」と、思い込んでいたのです。
 富士ラビットは、京都七条新町駅前のなか卯でした。

 京都駅の中側、けっこう好きでした。完成当時は賛否両論で、古都にふさわしくないという批判も大きかったそうですが。原広司の設計。
 とにかくコンコースのババ~ンと広い空間に身を置くのは、旅行者にとって気持ちがよい。


 私の生まれ故郷の駅前建物群を設計したのも原広司だということ、知らなかった。こちらもできた当座は、「変哲もない田舎町の駅前にしては、こじゃれすぎ、きどった光景だ」と、評判悪かったみたい。

 京都タワーも、「古都京都にふさわしくない」という不評続出でした。今では京都のシンボルになっていて、京都駅前でタワーを背景に写真を撮る人大勢いました。



 ハンさんは「先生、せっかく京都に来たのですから、タワーといっしょに写真撮りましょうよ」といいます。何度も京都駅にきていたのですが、あまりの定番ショットが気恥ずかしくて撮らないでいましたが、最後の夜、夜行バスを待つ間にハンさんがシャッターを押してくれた1枚、京都の最後のいい思い出写真になりました。タワーちょい斜めっているけれど。

 京都最後の夜に


 たくさんの思い出を残せた京都ひとり旅。
 往復夜行バスで宿泊はカプセルホテルと友人宅、という節約旅行でしたが、「着物を着て観光、宿泊は老舗旅館」なんて構えずに気楽な貧乏旅行でも楽しめると分かったので、また旅行したいと思います。

10月25日から11月5日まで、12日間の京都旅行。楽しかったです。案内してくださったアントニオ兄、ハンさん、そのほか出会ったすべての人に感謝。

<おわり>

ぽかぽか春庭「光の春に」

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20190207
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記きさらぎ(1)光の春に

 立春もすぎ、中国の春節(旧正月新年)もすぎ、いよいよ世の中は春へ向かっていく気配。立春の日は暖かかったですが、また寒の戻りもあり、寒さはまだまだながら、日差しが真冬より伸びてきたことが感じられるし、まだ葉はない木立にそそぐ光も、真冬よりは光らしい光に感じ取れる。気持ちがそう思ってみるせいでしょうけれど。

 春庭も懸案の仕事がひとつ山を越えたので、ようやく「これで風邪ひいてもドンとこいだ」と、北風に向かって立ち尽くす、、、、ってほどじゃないけれど、うまくいったのやらいかなかったのやらわかりませんが、とりあえず一区切りです。

 2017年の夏から始まった春庭の「新しいおしごとプロジェクト」、法務省文科省という手ごわい相手に四苦八苦、難儀しました。
 いいかげんな労働調査をしてすませて、のらりくらりと国会審議もかわしていくところもあるし、お役所仕事はテキトーなところもあるのに、下々にはやたらに高飛車に出て、おどしをかけるのがお役所というもの。
 われらはひたすら恐縮しつつ、なんとかお許しを願うしかない。昨年は惨敗。お許しが出ませんでした。

 提出した書類の山。ファイルは紙の厚さが10センチを超えましたが、さらに追加書類も
出すことを命じられ、作業続行。
 2月5日の締め切り前日は、仕事場に泊まり込みで作業しました。

 これまでテレビなどで泊まり込みで仕事して、翌日もしゃもしゃの髪で出勤してきた人に「おはよう」なんて言うシーンを見てきたけれど、69歳になってそんなシーンになるとは思いませんでした。
 でも、片道90分、往復3時間の行き来を考えると、泊まってしまったほうが楽かなと。
 
 ようやく細かいスケジュール調整が終わり、2月6日の提出期限に滑り込みセーフ。なんとかなるといいけれど。

 世は光の春。梅もほころび、各地から梅だよりが届きます。
 我が家の春のお楽しみは。3月はじめに娘と熱海温泉へ。梅園観梅と温泉。
 3月中旬には、フィギュアスケート世界大会を埼玉アリーナで見る予定。2枚ずつしか注文できなかったので、娘と息子はプレミアム席で私だけS席。いいけどね。
 羽生結弦がでるかでないかわからないけれど、とにかく男子席はチケット発売1分で完売。娘はチケット争奪戦、男子をあきらめて、女子ショートをゲット。よい試合になることを期待しています。

 一歩ずつ春へ。

<つづく> 

ぽかぽか春庭「半額飯の日々」

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20190209
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記きさらぎ(2)半額飯の日々

 仕事先の事務所の床で2泊しました。
 夏にひとりで事務所の留守番をしていたとき、眠くなると床にごろりとして昼寝をした、という話をしたら、娘が「夏はそれでもいいけれど、寒い時期に眠くなったら必要でしょう」と、携帯用のマットを買ってくれたのです。いくら小さくなるタイプの折り畳みマットだと言っても、電車で運ぶときは気がひけた代物でしたが、ここにきて役に立つとは。

 6日、書類提出の締め切りぎりぎりに追加書類分をメール貼付送信して、夜9時に行政書士からOKをもらいました。なんとか出せたと。

 もう帰宅する気力もなくなり、2日連続「お泊り」になると、娘にメール。「お疲れ様、頑張ったね」という返信はきたけれど、娘と息子は「らっき~!母がいないなら、ピザの出前とろう」と喜んだんじゃないかな。日ごろ「母は、パスタやピザより和食が好きだから、母といっしょに晩御飯食べるときは、ピザ注文したりしないけれど、母が外で食べてくるときは連絡してね。私たちピザとるから」と言われているんです。

 いつもワンコインランチを食べる居酒屋に、晩御飯を食べに行きました。生ビール2杯と枝豆、もつ煮込み。
 居酒屋のヨーコママから、近所のスーパーが11時まで開いていること、9時すぎるとお弁当などが半額になることを聞き、生ビール2杯の酔い覚ましと思って「朝ごはんの分」を買いにいきました。

 ちょうど店員さんが「半額シール」をお弁当などに張り付けている時間帯でした。
 おもしろいから、定員さんが半額シールを貼っていく順に次々に籠に入れていく。ほうれん草おひたし、コロッケ、イワシ煮つけ、巻きずし、朝ごはんの分。幕ノ内弁当、きんぴらごぼう、レバニラいため。以上、昼ご飯の分。おやつとして、タコ焼き。以下は半額にはなっていなかったけれど、デザートとして、プリン。あまおうイチゴ、アボカド。ヨーグルト2種。ほかに買い置きとして歌舞伎揚煎餅、甘栗むき身。飲み物、牛乳。
 全部で3500円。朝と昼の分にしては、買いすぎでした。半額シールが貼られるとうれしくなって、つい買い込みすぎるんです。さっきまで600円で売っていたお弁当が300円で買えると思うと、すごく得した気分になる貧乏性なので。

 でも、「半額シールのものを買うのに抵抗がある」という知り合いもいました。「なんだか貧乏っぽくて、みじめな気分になる」のだそうです。
 そういう人は買わなければいいだけ。貧乏っぽいのではなく、本当に貧乏な春庭は、日ごろ喜んで半額飯を買ってきました。

 新聞に、この「半額シールもの」を買うことをためらっていた人の投書が載っていました。「半額食品を買うことで、スーパーやコンビニの廃棄食品を減らし、食品ロスを少なくできるというメリットもあることがわかり、抵抗なく半額品を買うことができるようになった」と。
 ええっ、わたしなぞ、食品ロスも廃棄食品も関係なく、半額だからうれしがって買っていたのに。私は別段半額シール品を買うのに、みじめな気分も抵抗もない!!と思っていました。

 しかし、ある日のこと、近所のスーパーで。
 半額シールが貼られている寿司折りをレジに出したところ、レジの女性から「お得な品が残っていてよかったですね」と、声をかけられました。「はい、6カン1200円する寿司折り、元の値段なら買いませんよ」と、答えたあと、なにがなし、いやな気分になりました。

 レジの女性が客の買い物を論評し、安物買いをしたことを指摘したこと。もちろんお客さんへの親しみを込めたことばがけだったことはわかっていますが「客が何を買おうと、店がそれをいちいち論じることはない」という思いが1点。あとは、「1パック千円以上の寿司おりは、半額にならないと買えない生活」を指摘されたような気分になったことが1点。
 なんだ、半額飯を買うことに躊躇する人を「見えはり」と笑っていたくせに、自分だって半額ものを買うことを「貧乏っぽい」と思っていたんじゃないのか、という「心の奥」が覗かれた気分。

 とは言っても、やっぱり本当に貧乏な私は半額ものが好き。昨晩スーパーで買った2割引き「高級ヨーグルト」を食べます。100g334円値引き後267円という、これも元値なら買わないもの。日ごろは400g158円ブルガリアヨーグルトというのを2日に分けて食べています。バナナといっしょだったり、夏みかんマーマレードをのっけたりして。1度に200g?多いかもしれませんが、私の朝ごはん。
 100g300円ヨーグルトはアボカドにのせて。製作者の姓名住所が書いてあるスペシャルでしたが、、、、うん、味はおいしいけど、元値じゃ、やっぱり買わんな。

 半額飯とともに、2月3月は無料おたのみに出向こうと思います。

2/07木 仕事帰りに吉祥寺美術館「岩本拓郎」展(夜7時まで65歳以上無料)
2/08金 八王子富士美術館「藤田嗣治本の仕事」展。夜はジャズダンス練習があるので、夕方までには美術館を出ます。
2/09土 東京都美術館「奇想の系譜」展午前中。東京国立博物館「顔真卿」展(昼は大混雑だというので、夜間展示を見る予定。常設展をのんびり見てから平成館へ)
2/10日 六義園・旧古河庭園 観梅 雨天中止
2/13水 科学博物館 (たぶん常設展だけ65歳以上無料13時半館内で無料コンサート有)
2/20水 白金植物園 庭園美術館 江戸東京博物館(いずれも65歳以上無料)

 1月はお正月に出かけたほかは仕事に専念したので、春庭の出遊び好き、2月に炸裂。3月は上旬熱海温泉で娘と観梅。中旬フィギュアスケート世界大会さいたまアリーナ観覧。

<おわり>

ぽかぽか春庭「自分の足をみつけること」

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20190209
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>輝ける人生の映画(1)自分の足をみつけること

 昨年から今年、見た映画は、飯田橋ギンレイのシネパスポートで見たか、録画しておいたテレビ放映の映画。もう録画の容量がいっぱいになっているので、年末年始休みに消化しようと思ったのに、年末29日も正月4日も出勤して仕事する働き者(と、自分だけが思っている)。働けど、我が暮らし楽にならざる、なんでやねん。

 そんな自分の労働者人生、輝いているとは思わないけれど、働くのはいやじゃない。負け惜しみでなく。
 いつもは、「稼ぎのいい夫に寄り添って(あるいは尻に敷いて)夫の年金で悠々老後人生を楽しんでいる同年配ごフジン方」に、ねたみひがみで生きているのだけれど、まあ、それもこれも自分で選んだことだから。

 去年は膝を痛めたけれど、足ひきずりながらも、自分の足で歩いてきた。on my feet.
「Finding your Feet あなたの足をみつけること」という映画、「輝ける人生」なんていうよくあるタイトルにしたために、目立たないおばさん映画かと思ってスルーするところだった。「ホップ!ステップ!ダンス!!」というタイトルでも平凡な感じはするけれど、まあ、こちらのほうが内容にはあっていると思う。ラストは大ジャンプがあるし。

 あらすじ。ネタバレです。

 サンドラ(イメルダ・スタウントン)は、警察畑で黙々と働いて謹厳実直だと思われている夫に35年寄り添い、子どもを育て上げ孫もかわいい。文句のない順風満帆の人生のつもりでした。その日までは。
 勤め上げた夫が女王からナイトの称号を授与され、サンドラも“レディ・サンドラ”と呼ばれるお祝いの席。

 ド派手なパーティを抜け出したサンドラがバスルームを覗くと、夫と親友パメラが〇〇中。浮気は数年続いていたのだと。
 夫は開き直って親友と再婚したいと言う始末。そうなるとレディの称号も再婚相手のもの。
 傷心のサンドラは大きな荷物を担ぎ、ロンドンに住む姉ビフ(セリア・イムリー)の家に転がり込みます。何年も音信不通で仲たがいしたままの姉でしたが、サンドラは夫にたよるだけの人生でしたから、ほかに行くところなし。

 ビフは、金や名誉とは無縁の気ままな人生を謳歌していました。うわべの真面目さを誇るサンドラの夫を認めないために、サンドラとは疎遠になっていましたが、妹が頼ってきたからにはと、快く迎え入れます。

 ビフの親友チャーリー(ティモシー・スポール)は、認知症の妻を見舞にケア病院へかよいますが、妻はチャーリーを忘れ、毛嫌いするようになっていきます。
 ビフとチャーリーはサンドラをダンス教室に誘います。無理やり連れだされたサンドラですが、実は若いころコーラスラインのダンサーオーディションを受けたこともあったことがあかされます。

 ダンスは人とのつながりを呼び起こし、サンドラの心は回復していきます。
 チャーリーとの交際もはじまり、街でモブダンス、友達とパーティー、そして仲間たちとローマへ。ダンスコンテストに出場するための旅でしたが、ビフが結婚しなかった理由もローマでわかります。ビフはイタリア人の恋人を失い、彼の思い出を守っての独身生活でした。

 サンドラの夫は、浮気相手と再婚したものの、たちまちうまくいかなくなり、サンドラとよりをもどそうとします。
 しかし、サンドラは、もう自分の足で歩き、自分の足で踊ることに目覚めたのです。
 一方チャーリーは、彼を忘れてしまった妻がケア病院で亡くなり、すべてのしがらみを捨てておんぼろ船で長年の夢だった航海に出ようとします。チャーリーの船出を知り、サンドラは、、、、。

 中高年にとって、ダンスが生活を生き生きとさせ、人生を輝くものにしていくというストーリー、わかりやすくて、「いぎな~し!」という映画でした。
 なにより高齢者たちが、踊ることで生溌剌とする姿がいい。
 映画としては平凡な作り方だとは思ったけれど、私は気に入りました。

 私が所属しているジャズダンスサークルも、平均年齢60ン歳です。一番若い人63歳、一番年上は73歳。もう足は上がらず、2回転するとよろける。「アティチュード、もっと足を後ろにあげて!」と、先生叫べど、みな、せいいっぱいやっても動きは悪くなる一方。でも、いいんです。心が生き生きしてくるから。

 私など、膝が完治していない、という理由をつけて、90分のレッスンのうち半分も動かず、一人休憩の時間が長い。踊るというより、仲間に会いに行っていることのほうが大きい。
 今年の発表会では、荻野目洋子が歌うダンサブルな「コーヒールンバ」にのって、「コーヒードンバタ」なダンスを。

 我が人生、ジャンプアップはなかったけれど、よろけていてもホップステップダンス!です。

<つづく>
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