Quantcast
Channel: 春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典
Viewing all 2690 articles
Browse latest View live

ぽかぽか春庭「フジコ・ヘミングの時間」

$
0
0


20190212
ぽかぽか春庭シネマパラダンス>輝ける人生の映画(2)フジコ・ヘミングの時間

 1999年2月11日にNHKのドキュメント番組『ETV特集』「フジコ〜あるピアニストの軌跡〜」が放映され、フジコは一夜にして大スターピアニストになりました。

 フジコブームが起こったとき、私はちょい斜めに見ていました。ブーニンブームとか、日本の聴衆は音楽を聞きにいくのではなくて、ブームになった有名人を見にコンサートへ出かける、というのがいやだったので。いまでは、それも楽しみ方のひとつと思っていますけれど。

 テレビで見たコンサートの中継録画では、やたらにミスタッチをする指使いで、落ち着いて聞いていられなかったし、生で見たいと思ったことがなかった。この「ミスタッチ多し」は、フジコスタイルのひとつで、この弾き方を「魂のピアニスト」と持ち上げて評価する人もいるし、好き好きだとは思うのですが。
 「正確にひくだけじゃ芸術じゃない」というフジコさんの主張もわかりますが、私は「正確にひいたうえでの個性」と思うほうなので、好みじゃなかった。

 「フジコ・ヘミングの時間」も期待はしていなかったのですが、思った以上に心にしみました。

 この映画ではじめて、フジコヘミングの弟の大月ウルフを知りました。1934年生まれ84歳の俳優ウルフ。特撮ドラマの悪役とかで見た気がするけれど、俳優名を記憶することもなかった。ともあれ2歳年上の姉以上に個性的。今ではフジコヘミング記念館の館長も兼ねているそうで、姉の七光りもあるみたい。少なくとも私は、姉つながりでウルフを知ったのだから。
 
 ピアニストの母から厳しく教え込まれたピアノを唯一の武器として、無国籍者としてよるべない暮らしを送った時期もありました。難民として国籍を父の国スェーデンに得てドイツ留学中、食べ物にも事欠く極貧の生活に耐えたいうフジコの人生を、フジコ自身が子供のころから書いてきた絵日記をはさみながらフジコの時間がつむがれます。

 子ども時代の絵日記すてきでした。日記が残ったのは、母が残した世田谷の家が空襲にあわなかったから。現在は、世田谷の家のほかパリ、ニューヨークなど世界5か国に家があり、世界中をコンサートに飛び回っているそうです。

 60歳すぎて世に知られ、80歳すぎても精力的に演奏活動を続けるフジコさん、苦しかった時代を含めて、輝ける人生だと思います。

 フジコさんの激動の人生を、華々しい画面でなく、絵日記をもとにした落ち着いた画面作り、いいと思いました。菅野美穂がフジコ、ウエンツ瑛士がウルフを演じたテレビドラマも見てみたくなりました。

 ミスタッチも味のうち、というフジコスタイルを味わうために、一度はコンサートに行ってみようかしら。

<つづく>

ぽかぽか春庭「判決、ふたつの希望」

$
0
0
20190214
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>輝ける人生の映画(3)判決、ふたつの希望

 ギンレイで見るシネパスポート活用映画。仕事帰りに、気分を変えたいからと見た映画、憂さ晴らしどころか、重い感触を残す映画でした。
 「判決、ふたつの希望 2017 レバノン/フランス 」と「運命は踊る 2017 イスラエル/ドイツ/フランス/スイス 」

 そもそもレバノンが舞台の映画も見た覚えがない。(『レバノン(2009)』は戦争映画なので、見なかった)。レバノンの街のようすなぞ見るだけでもいいか、と思ってみました。

 「判決、ふたつの希望」は、レバノンの首都ベイルートで働くパレスチナ難民とレバノンの庶民、ふたりの男性が裁判で争う法廷映画です。それぞれについた弁護士が、レバノン人の大御所弁護士の父。難民保護を主張する弁護士はその娘、という父娘の争いでもあります。2018年度アカデミー賞外国語映画賞ノミネート作品。

 レバノン出身の監督、ジアド・ドゥエイリは、クエンティン・タランティーノのアシスタント・カメラマンとして出発し、1998年の『西ベイルート』で監督デビュー。
 2017年べネチア国際映画祭にて、本作主演のカメル・エル=バシャが最優秀男優賞を受けました。

 以下、ネタバレ含む紹介です。
 パレスチナ人ヤーセル(カメル・エル=バシャ)はイスラム教徒。難民ながら実直に働くので認められ、住宅修理屋の現場監督を任されています。ベイルートの一角、違法にベランダをつけ、水の排水が道路に撒かれるというアパートがあり、ヤーセルは配水管をきちんとつけかえる補修を行います。しかし、家の主であるレバノン人のキリスト教徒トニー(アデル・カラム )は激怒し、せっかく補修した配水管を叩き壊します。

 トニーは妊娠中の妻から「あなたの故郷のダム―ルに引越ししましょう」と言われてもかたくなに拒みます。この町で今のまま自動車修理の仕事を続けていきたいと。トニーも妻と生まれてくる子のために懸命に働く男です。

 ヤーセルは怒りまくるトニーと一度は和解しようと謝りにいきますが、トニーがパレスチナ難民を侮蔑することばを吐いたために、ぶん殴ってしまいます。
 単なるケンカが、弁護士双方の思惑もあり、イスラム教徒対キリスト教徒、パレスチナ対レバノンの民族そして国家的争いになっていきます。

 双方の弁護士の「父娘の意地の張り合い」もあり、根深い争点もあきらかになっていきます。トニーはレバノン内戦によって一家皆殺しにされ、家から離れていた幼いトニーだけが助かった、という過去を抱えていました。トニーが怒りにまかせてヤーセルに投げたことば「シャロンに抹殺されていればな」という言葉は、法廷でヤーセルが証言するなかには出てきませんでした。トニーの暴言を法廷でだせば、暴言に対する怒りのあまりの暴力だということで無罪になるかもしれないのに、その言葉を出さない。口にすることもできない激しい侮蔑のことばだったのです。

 ちなみにヤーセルは、パレスチナ解放戦線アラファト議長の名前でもあるので、監督は「すべてのパレスチナ人の代表」という意味をこめて、西側諸国にもっとも浸透しているパレスチナ人の名ヤーセルを出したのだと思います。
 
 シャロンはイスラエルの元首相。
 軍人時代はパレスチナ人を敵として作戦を指揮し、権力を握ってからは、徹底してパレスチナを抑え込みました。シャロンが国防相だった1982年に起きたパレスチナ人大虐殺。「シャロンに殺されていれば」という言葉は、パレスチナ人にとって、民族抹殺を意味する「絶対に許すことのできない民族の怒り」のことばでした。

 想像してください。アメリカ人のだれかから「おめーら、ジャパ公はよう、ピカドンで皆殺しにしておけばよかったよな」と言われて、どんな気持ちがする?
 もっとも、いまだに争いが続くパレスチナとイスラエルの確執に比べれば、敗戦後はたちまちGHQのために「慰安所」まで設置してサービスにつとめた日本とでは比較になりませんが。
 では、「日本の女を全員紛争地帯に連れていき、兵士のために慰安所で働く女性にさせたらいい」と、お隣の国のだれかが言ったとしたら、どんな気分でしょう。女性には「私がここで働くのは自由意志によってです」という一筆を入れさせて。強制ではなくて、自分から働きに来たことになるから、という方法をとって。

 シャロンは、2002年にパレスチナ自治区ヨルダン川西岸の占領地(ユダヤ・サマリア地区)とイスラエル領土の間に、長大な分離壁の建設し、国際的な非難も浴びました。(マネをしたがるどっかの大統領、壁の建設費用、OKがでなくて政治的にピンチですが)
 シャロンは、パレスチナ人にとっては、絶対にゆるせない仇敵です。

 レバノン内戦(1975-1990)では、ダム―ルをはじめたくさんの町で一般市民が1万人も虐殺されました。トニーが故郷へ帰りたくないのは、そこが虐殺の地であり、しかも「真相は分からず、加害者は自由の身。正義も結末も何もなし」という地であったからです。

 民族同士、宗教が違うもの同士の争い、しかし、個人と個人は民族がちがっても、過去のいさかいがあっても、助け合える存在だ、という「ふたつの希望」という日本語タイトル通りのラストになっています。

 映画レビューを見ていたら、一般からの投稿レビューの中に、レバノンと書くべきところを終始「ヨルダン」と記している記事がありました。つまり、極東の日本にとって、西のはじっこはヨルダンもレバノンも区別がつかない遠い国。内戦やってようが、民族で争うこと80年の歴史だろうと、対岸の火事。

 この争いは、だれにでもどこにでもある火種なのに、遠い国の対岸の火事としか思えないからこそ、東アジアもいつまでもくすぶり続けるのだろうなあと感じてしまいました。
 『判決、ふたつの希望』いい映画でした。

 併映のイスラエル映画『運命は踊る』は、半分寝ていたこちらが悪いのだけれど、よくわからない映画でした。私は見ていない「レバノン」の監督、サミュエル・マオズの最新作。

 息子が戦死したのいや生きていただのという知らせを受ける夫婦の話と、20歳で徴兵され、砂漠の国境警備に従軍している息子の生活が出てきます。息子の兵舎は傾いていて、国境の遮断機を通過するのはラクダがほとんど、という地帯。

イスラエルやアラブの世界って、ほんとうに砂漠だなあ、という感想。普段テレビで見る映像はエルサレムとかの都会だけだから、国境の殺伐とした地域を画面で見ることができたことが収穫といえば収穫。

 砂漠の真ん中の道の遮断機をまもる若い兵士たちの生活、殺伐としています。
 国境を通ろうとしてまちがって射殺されてしまった夫婦がいました。軍の幹部は「なかったこと」にしてしまいます。だれも見ていなかったのですから。それが軍というもの。
 
 原題の「フォックストロット」は、社交ダンスのステップのひとつ。クイックステップと呼ぶことも。ぐるぐる回って最初に戻る。人生も運命の歯車の中でぐるぐる回って振り出しに戻る。
 イスラエルは金持ちなんだから、もう少し国境警備に従軍する若者にいい暮らしさせてやればいいのに、というのが最大の感想。
 ドローン撮影かなんだか、真上からとるショットが何度も出てきて、いったいこれは何?神の視点?というのもよくわかりませんでした。おわり。

<つづく>

ぽかぽか春庭「プリティウーマン」

$
0
0
20190216
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>輝ける人生の映画(4)プリティウーマン

 映画先達のまっき~さんから、「たまには古い映画のDVD鑑賞記録も」という提案もあり、録画機能の容量がいっぱいになって、新しい映画が録画できなくなってしまった、という事情もあり、お正月に「どれを消そうか」とリストを見て、『プリティウーマン』なら正月気分で浮かれてみても、大丈夫だろうとふんで見ました。

 さいしょに見てからどれくらいたつのか忘れてしまったけれど、とにかく最初は「単純なシンデレラストーリー」としてみたことだけ覚えています。マイフェアレディの焼き直し現代版かと。

 まっき~さんが「最悪映画」と酷評する理由も「映画見巧者だから、私の単純な見方とはちがうのだろう」くらいに思っていました。

 2度目に見て、私も少しは「シンデレラストーリーから遠く離れて」の世代になったせいか、単純なおとぎ話とは思えなくなっていました。まっき~さんの嫌悪感とはことなるかもしれませんが。

 私の「嫌な感じ」は。
 主人公ビビアン(ジュリア・ロバーツ)は「白馬の王子に救い上げられる存在」であり、ビビアンの職業を、白馬の王子エドワード・ルイス(リチャード・ギア)も会社の顧問弁護士も「まともな仕事じゃない」として扱っていて、この職業を仕事とする女性を軽蔑していることからきています。

 ビビアンは、ラストで「高校を出てまともな職業につこう」と決意するところは、彼女自身の選択だからよいと思ったのに、白馬の王子が迎えにくれば、嬉々として馬車のほうを選んで乗り込む。

 世界最古の職業への一片の敬意もなく、ひたすら「抜け出すべき仕事」としてあつかわれていることが、実はすべての女性尊厳にかかわることに、映画製作者のだれも考えもしない点が気色わるいのでした。1990年の映画だから?女性の尊厳にまだ映画界が気づかないころの映画だったから?Me too運動なんか起きていない頃のハリウッドだから?

 さて、この映画を見て一ヶ月もしないうち、「そういうお前もなー」という自分自身に跳ね返る「天につばする」の事件がありました。
 新井浩文の「出張マッサージ女性への性的暴行により逮捕」事件です。

 この記事を目にしたとき、「たぶん、世間様と同じ反応」を私もしました。「えっ?出張マッサージって、そういう店じゃなかったんだ。性的行為が逮捕につながるんだ」という感想。

 私は『ゲルマニウムの夜』に新井が主演したころから注目してきました。順調に個性派俳優としてキャリアを築いていた新井です。
 特別ファンじゃないけれど、在日コリアン出身を隠さないできたことも、日本の俳優にしては珍しいなあと思ってきました。力道山も松田優作も死ぬまで隠し通しましたからね。
 
 で、出張マッサージ店。健全店(ほんとうにマッサージのみ)、グレイゾーンの店(表面上は健全店だけれど、裏では、、、)、そういう店(出張サービスのなかには、マッサージ以上の部分も含むことをかくさない)という3種類があるんだそうです。

 本当にマッサージ専門店なら「容姿端麗セラピストがそろっている店」なんてことをキャッチコピーにして、「マッサージセラピスト」の写真付きページに3サイズや「好みの男性タイプ」なんていう自己紹介、必要なんでしょうかね。

 新井が事件を起こした店は、一応「健全にマッサージだけ施術する」という店らしい。マッサージ施術者をセラピストと呼び、派遣するセラピストに対して「健全に対応する」という誓約書まで客に書かせるらしい。(ネット情報なので確実じゃないことを書いています)

 しかし、、、、私は「出張マッサージの女性」という文字を見ただけで「そういう仕事」と思ってしまった。
 私自身は「セクシャルセラピー」を仕事として認めるという意識できたつもり。本当に自分の意思で仕事を選び、搾取されることなく仕事の報酬を得ているのなら、職業の選択は自由です。

 仕事に誇りを持っていて、本職として生きている女性なら、そして、自分の尊厳を失わずにいるのならよい。しかし、これまでの時代、女性の尊厳が尊重されない職業であったことは確か。
 この職業を選んだ女性に出会ったとして、まず聞きたいのは「その仕事、本当に好きで、楽しく仕事していますか」
 自分に誇りを持ち、「人助けセラピスト」と思って働いているのなら問題ないけれど、もしも「今より収入が多く、より労力少ない仕事が他にあるなら変わりたい」と思っているのなら、転職すべきだと思う。労力少なくて収入多い仕事ってないけれど。

 一般の整体のマッサージに比べて「出張マッサージ」のほうが高い。30分で1万円とかの料金。ピンハネ分を差し引いて、「セラピスト」に渡されるのは、いくらくらいになるか知らないけれど。
 私が通っている整体院のマッサージよりはるかに高いのだとしたら、「出張マッサージ」がなぜ高いのか、交通費などの出張料金の差だけではないのではないか、と疑ってしまう。

 ちなみに友人が通っている整体の「保険はきかない料金」は、60分で5000円です。私の通う整体は、整形外科の先生が診察してから施術する保険内マッサージで、15分320円(国保3割負担。保険をつかわなければ、15分1000円くらいだから1時間換算なら4000円。けっこう高いけど、出張マッサージよりは安い)。

 プリティウーマンのビビアンは自分が差別される職業の人間であることを、いまさらながらに自覚します。(高級洋服店のシーンなどで)
 ビビアンは、「まともな仕事」につきたい、と願っています。
 それはそれでいい。でも、ビビアンを1週間3000ドルで雇ったエドワードは「かわいいプロスティチュート」としてみなすのみ。ビビアンを「自分より下の人間」として扱っています。顧問弁護士に簡単にビビアンの素性をあかすなんて、ビビアンを対等な人間と思っていない証拠。自分の立場を守るためには簡単に彼女をさらすようなことをする。

 ビビアンの職業を知ったふとっちょ顧問弁護士に至っては「売春婦なんだから、おれにもやらせろ」という、人を踏みつけにし、暴力をふるうのヤカラで、弁護士の暴力をエドワードが救ったかのようなシーンがあります。しかし実は、どっちもどっち。弁護士が「俺にも」と言い出した原因は、エドワードがビビアンの職業を弁護士に言ってしまったゆえの結果ですから、ほんとうに悪いのはエドワードのほうかも。
 ビビアンに親切なホテルの支配人は、いくらかはビビアンを対等な人間として真正面から向かい合ってはいたのか、それとも大金持ちのお得意様エドワードの相手だから優遇したのか。

 ビビアンはエドワードとの出会いによって、自分を変えていきます。
 「マイフェアレディ」原作のイライザが、最後はヒギンズ教授を蹴飛ばして自分の世界を切り開いていこうとするように、「ティファニーで朝食を」原作のホリーが、彼女に興味津々の作家の卵なんか袖にして、自由に南アメリカくんだりまで行こうとするように、ビビアンも自分の足をみつけて自分の足で歩いて行ってほしかったなあ。
 Finding your feet!!
と、ここで最初の映画に戻るという落ちで終わり。フォックストロットぐるぐる回って最初に戻る。

<おわり>

ぽかぽか春庭「ムンク展in東京都美術館」

$
0
0

ムンク展チラシ(東京都美術館)

20190217
ぽかぽか春庭アート散歩>2018に見た絵拾遺(1)ムンク展in東京都美術館

 東京都美術館で開催されたムンク展。会期は2018年2018年10月27日(土)~2019年1月20日(日)。最終日までの入場者は67万人。
 
 ムンク展、混みあいました。1度め、2018年12月19日午後にはあまりの混雑でよく見ることができなかったので、2019年1月16日にもう一度東京都美術館に出向き、2度目の観覧。2度見たのは、どちらも第3水曜日、65歳以上は無料公開の日だったからです。タダで見ようとするからヒマなジジババ集まる日の観覧になるのであって、ちゃんとお金を出せば、ゆっくり見られる時間帯の日もあったでしょうに。でも、「無料で楽しむ東京シルバーライフ」というのが、私の方針。

 1997年4月から6月に開催された世田谷美術館「ムンク展」は見ていませんが、2007年西洋美術館の「ムンク展」は見ています。
 しかし、春庭アーカイブの中の2008年の総目次には「美術館徘徊この1年」という美術散歩について記録してあるのに、2007年は、前半が中国赴任日記で、後半の目次を見ても、ムンク展観覧の記録が残されていませんでした。ちゃんとメモしておかないと、何をどう見たのかわすれてしまう。

 2007年に見た少女の絵「思春期」は、今回は展示されていませんでした。前回も今回も見たのは、「マドンナ」「接吻」「生命のダンス」ほか。有名どころも多かったし、初めて見る「星月夜」「マラーの死」など、今回展示された100点は、見ごたえのある絵が多かったです。

 2018年12月の1度目の観覧は、ミサイルママとの「大人の遠足」の半日でしたから、絵を見ることよりも、ミサイルママとのおしゃべりが目的。東洋館のテラスで、見た絵についてしゃべったり、ご飯を食べながらミサイルママの熟年恋愛の進展やら私の貧乏ライフ報告をまじえてあれこれと。

 1度目に見たときの、観覧者のお目当て「叫び」混みようは。
 「最前列で見たい方は、こちらにならんでください」という列にならび、しばし列順をぐるぐると移動して、「叫び」の前を通過するのは5秒ほど。それ以上絵の前に立っていると、「立ち止まらずに、前へお進みください」と係官に叱られるので、ゆっくりは見ていられません。2列目以後の観覧は、たくさんの頭越しになり、背の低い私は、上部のオレンジ色の空だか雲だかの部分しか見えない。

 2度目、仕事を終えて上野にむかい、4時くらいから1時間ほどささっと、前回見て「もう一度ゆっくり見たい絵」と、思っていた絵をチェック。5時半閉館の30分前、5時に入場締め切りとなってだれも入ってこなくなってからのひとまわりで、「叫び」もゆっくり見ることができました。

 「ムンク展─共鳴する魂の叫び」に出品されたのは、5種類ある「叫び」のうち、オスロ市立ムンク美術館所蔵のテンペラ・油彩画です。ムンク自身の記録はないのですが、研究者の説によると1910年制作なんですと。

 ムンクは、死後、ほとんどの作品をオスロ市に遺贈しており、今回の「叫び」も遺贈作品のひとつ。
 ちなみに、他の「叫び」のうち、ノルウェー人実業家ペッター・オルセンが所蔵していたものが、2012年5月2日にニューヨークのサザビーズで競売にかけられた際、最終落札価格は96憶円だったそうです。世界の高額絵画のひとつとなりました。
(現在までの最高落札額作品は、ゴーギャンが1892年にタヒチで描いた「Nafea Faa Ipoipo(ナファエ・ファア・イポイポ いつ結婚するの360億円)
]
 値段で鑑賞する春庭ほかの善男善女。オスロのムンク美術館の「叫び」も、競売にかけたとすれば100億円以上になるでしょうから、5秒間の鑑賞であっても、1秒20憶円と思えば、ありがたやありがたや。

 ムンクの自画像も興味深い作品群でしたが、たいていの人は「叫び」以外の他の作品はささっと見て出口へ。
 「叫び」を見て「これであの有名な絵を見た」と満足してしまう人多数。日本の中学校美術教科書には、たいてい「ミロのビーナス」「モナリザ」が掲載され、近現代彫刻ではロダンの「考える人」絵画ではゴッホとピカソとこのムンクの「叫び」が標準ラインナップになっています。美術の授業で「鑑賞教室」なんていうスライドを見せられた人々は、ほとんどがこの絵を知っている。
 絵のポーズをとるだけでタイトルを当てられる作品「考える人」「モナリザ」の次に「叫び」でしょうね。耳に手を当てて口をあける顔面だけで、みな「叫び」と答えると思います。

 今回展示されている「叫び」の展示には、ムンクの「作者のことば」が壁に展示されていました。混雑しているとき、私は絵の横の解説文は読まないのですが、2度目の観覧5時すぎでには人も少なかったので、ゆっくりムンク日記のことばを読みました。
 この「画家による叫びの解説」は、いろんなところに引用されています。

 ムンクは日記に「友達二人と道を歩いていた──太陽が沈もうとしていた──物憂い気分のようなものに襲われた。突然、空が血のように赤くなった──僕は立ち止まり、フェンスにもたれた。ひどく疲れていた──血のように、剣のように、燃えさかる雲──青く沈んだ港湾と街を見た──友達は歩き続けた──僕はそこに立ったまま、不安で身をすくませていた──ぞっとするような、果てしない叫びが自然を貫くのを感じていた」と書き残しました。
 叫んでいるのは、画面手前の耳に手を当てている人じゃありません。この人は、自然が発する幻聴の叫びに不安を感じてぞっとして耳をふさいでいるのです。

 エドヴァルド・ムンク(1863-1944)は、5歳の時に母・ラウラ・カトリーネを失い、14歳の時に姉・ソフィエを結核で亡くしました。許されてパリ留学したものの、26歳のとき経済的に頼っていた父クリスチャンが死去。父は、オスロの名家出身の医師で、エドヴァルドには理解があったそうですが、理解者を失い、経済的な支援も失ってしまいます。
 エドヴァルドは、次々と家族を失ったことからか、婚約者トゥラ・ラーセンとの結婚を躊躇します。婚約者は婚約履行を求めてエドヴァルドに銃を向け、不運にもその銃が暴発。エドヴァルドは左手中指の先を失います。
 不安の中の生活。戦争。エドヴァルドはアルコール依存症、神経症に悩み、入院することに。

 そんな人生の中、死と生のはざまで、19世紀から20世紀の美術を代表するたくさんの絵が生まれました。
 孤独に徹した生涯。家族のなかでは長命でしたが、自らの死もやはり悲劇的な運命のもとにありました。1943年12月のナチスドイツの爆撃により家がこわされ、真冬の寒風にさらされたあげく重い気管支炎にかかり、1944年1月に死去。

 ムンクは死ぬ直前までひとり家にこもって絵を描き続け、遺言により、死後2万点もの絵がオスロ市に寄贈されました。

 ゴッホのひまわりが明るい黄色で塗られていても、大きな花にどことなく不安と悲しみを感じてしまうのは、ひまわりが秋には枯れてしまうように、絵が完成したあと、いくばくもなくゴッホは自分に銃口を向けることを私たちが知っているからでしょうか。

 同じように「物語」を通して絵を見ているからかもしれませんが、明るい黄色で描かれた「太陽」という絵、私には世に言われているように「ようやく不安から解放され、大学の壁を飾る壁画として明るくつよい光を描いた」とは思いませんでした。

 「ムンクは、この太陽の光を自己の苦悩の消滅と自然との和解合一として描いたのである」「左右対称の構図。黄色の細い縞模様で描かれた太陽光は、海面や剥き出しの岩を照らし、反射している。空と海の境界には、水平な地平線が見える。神々しい太陽の光はあらゆる方向へ拡散し、空から海や大地を照らしている」、、、、そうなんでしょうか。

 若者の集う大学の壁画ですから、明るい図柄と思いたい人は多いと思いますが、ムンクの絵、そう単純とは思えません。
 たとえば、ムンクの精神病院の主治医ヤコブ・ジョンソンの肖像。
 自分を治療してくれたジョンソン博士を的確に描写し、博士の威厳や医者として誠実な人柄も描き出しているかのように見えます。しかし、右側の足、よく見ると、ズボンの中に馬の脚とひづめが書き込まれているのです。これって、どんな意味?

 精神的にどん底だったエドヴァルドが、ものすごくジョンソン博士に世話になりました。ふたたび絵を描くまでになったのも、ジョンソン博士のおかげとは思います。でも、その恩人が持つのは馬の脚。日本のことわざ通りなら「馬脚を表す」ですけれど。
 精神病から救ってくれた恩人のジョンソン博士の肖像画の右足。靴にもみえるけれど、ひづめにも見えるように描かれていて、ズボンの脛は馬の脚にも見えます。これは、「私の目にそう見えた」というだけでなく、絵の隣に貼られている解説版にもそう書いてあるのです。



 エドヴァルド・ムンクは、精神病院から退院後、親戚からの勧めで大学壁画公募に応募しました。そのとき提出した壁画の下絵が今回展示されていました。(壁画実物を見たい人は、ノルエーへ行き、オスロ大学でご覧ください。)
 絵葉書は買いましたが、↓の絵はネットからの借り物画像です。実際の大学壁画の画像なのか、下絵画像なのかよくわかりませんが、だいたいこんな感じの太陽、ということが伝わりますかね。

 ムンク「太陽」


 「大学壁画の公募のなかから選ばれたことによって、ムンクは暗い抑圧的な絵から解放され、明るくなったのだ」と、評する人が多いです。
 でもね、私はこの太陽の光線は「暗い時代から解放されて明るくなったムンク」という見方だけじゃないような気もします。
 恩人の足が馬であるように、決して「社会を明るく照らす」ばかりの太陽ではなかったと思うのです。
 生も死も、森羅万象を照らすのが太陽。この太陽の光線には、「光を受ける者の悲しみ」も含まれているんじゃないか、と私には見えたのです。太陽の光は、広がるにつれ寒色を帯びてくる。
 たぶん、私自身の心理の反映なんでしょうね。

 1回目のムンク鑑賞のあとのミサイルママとのおしゃべり。いよいよ今カレのジンさんとの仲が進展してきて、入籍→ミサイルママの現在の部屋に同居→新規募集の住宅抽選にあたったら、10月ごろ新住宅へ転居、という流れができたのですって。
 結婚が決まって、めでたいことです。でも、いっしょに「大人の遠足」を楽しむ時間はますます減るんだろうなあ、という自分勝手な悲しみも。そうか、ムンクの太陽が悲しいのは、私にとっての太陽光線のひとつが、ちょっと光少なくなるかもしれないからなのか。 

<つづく>

ぽかぽか春庭「斉白石 in 東京国立博物館」

$
0
0


20190219
ぽかぽか春庭アート散歩>2018に見た絵拾遺(2)斉白石展in東京国立博物館

 2018年11月10日土曜日に、ミサイルママを誘って東京国立博物館で恒例の「大人の遠足」に出かけました。8月の第三水曜日、東京都美術館で藤田嗣治展にいっしょに出かけて以来、9月は私が脚を痛めて歩けなかったし、10月は仕事があったので、なかなかいっしょにすごす時間がとれなかったので、11月の土曜日に会うことになりました。

 斉白石は、京都にいる朋友が「現代中国絵画で一番有名な人で、中国人ならだれでも知っている画家です。東京で展覧会があるから、ぜひ見に行ってください」と勧められた画家です。
 斉白石(1864-1957)は「人民芸術家」の称号を与えられた、現代中国で最も有名かつ人気のある画家なのだそうです。

菊花群鶏図


 しかし、もともと中国絵画には縁が薄く、東京国立博物館の東洋館に展示してある中国美術も、陶器磁器、古代出土物、仏像などは熱心に見て回りますが、絵画は「日本の南画との影響関係」というようなつながりのある絵以外に、見ることが少なかったです。

 2012年1月13日に「清明上河図」を見て以来、久しぶりに中国絵画を鑑賞する機会になりました。ブログ確認したら、清明上河図を見るために、東博で3時間も並んだことが書いてありました。チケット自腹1500円払ったので、「見ないで帰るもんか」とがんばったのです。

 その点、斉白石展は、常設展入館料のみの料金で観覧できました。
 本館と東洋館法隆寺館は常設展示。斉白石展は、東洋館4階での展示でした。

 斉白石の作品、日中平和友好条約の締結40周年を記念した日本では初公開となる北京画院の所蔵品です。
 北京画院ふとっぱら。作品は写真撮影OKでした。(一部不可もありましたが)



「桃花源図」1938


 斉白石は、湖南省湘潭(こなんしょうしょうたん)の農家に生まれ、はじめは大工・指物師として生計を立て、のちに画譜や古画を学び、北京に出て画家として大成しました。

 伝統画法を師から受け継ぎ、構図や色使いは古画に則って描かれてきた中国絵画。しかし斉白石は、それらの細かい技法を師に学び、師の教え通りに描くところからは出発していません。大工仕事指物仕事を続ける中で、さまざまな絵を見て学び、篆刻などの仕事を続けながら自分の感性によって描きました。そのため、斉の絵は初期には「西洋絵画をまねている」などの非難が寄せられたそうです。しかし、中国伝統絵画にも変革の波が押し寄せ、斉白石の絵はしだいに人気高くなり、評価も受けるようになりました。

 北京画院は、設立当初に初代名誉院長として斉白石を迎え、斉の作品を数多く所蔵しています。

秋荷図


 ミサイルママは、中国絵画にあまり興味がないので、ささっと斉白石を鑑賞したあとは、いっしょにと東洋館テラスへ。
 このときは知らなかったのですが、斉白石の作品、2011年5月の中国のオークションで、近現代中国絵画では最高落札額となる4億2550万元(約54億円)で落札されたというのをあとで知りました。値段で鑑賞する春庭。あら、そんなに高いのなら、もっとゆっくり見て回ればよかったと思いました。

 ゆうぐれの東博東洋館のテラス。

 
 いつもおしゃれなミサイルママと「来年の発表会のために、もうちょっとダイエットしなさいよ」と言われ続けているe-Na。
 ジャズダンスの練習は、膝関節炎のために9月10月11月と3ヶ月と休みました。しかもストレス解消のために食べ続けているから、筋肉落ちて脂肪増加。
 「ダイエットは来年から」



<つづく> 

ぽかぽか春庭「藤田嗣治没後50年展in東京都美術館」

$
0
0

 藤田嗣治没後50年展ポスター

20190221
ぽかぽか春庭アート散歩>2018に見た絵拾遺(3)藤田嗣治展in東京都美術館

 2018年、藤田嗣治没後50年の大回顧展が東京都美術館で開催されました。8月の第3水曜日。65歳以上無料の日に、ミサイルママといっしょに観覧。
 ジジババ押し寄せ混み混みだったので、もう一度見ようかなと思っているうちに東京の会期は終わり、ちょうど京都に行っている間に、京都近代美術館に巡回していました。しかし、ケチな春庭は、無料の常設展のほうに10点ほどの藤田が「京都近美所蔵品」として展示されていたのを見て満足してしまいました。特別展のほうは「東京で同じ展示を見たのだから、今回は、ま、いいか」と、見なかった。チケット1600円をケチらずに、もう一度見てもよかったのに。

 2018年8月第3水曜日。旧盆の時期、東京のお盆は7月が多いので、ヒマなジジババ多い。30分ほど列に並んで入場。藤田の東京芸大卒業制作の自画像からテーマ別年代順に作品が並んでいました。
 没後50年展は、キュレーター渾身の品ぞろえ、という感がある作品が並んでいて、充実した展覧会でした。藤田の展覧会はかなり見てきたつもりですが、日本初公開という絵もあり、藤田の全貌回顧の意気込みは成功していたと思います。

 日本初公開「エミリー・クレイン=シャドボーンの肖像」1922シカゴ美術館(アメリカ)蔵」
 銀箔、金粉を用いた華やかな肖像ですが、どこか寂しい感じを受けます。

 エミリー・クレイン=ジャドボーンの肖像1922シカゴ美術館蔵


 藤田嗣治(1886-1968 フランス国籍取得後はレオナール・フジタ)の生涯は、近現代画家の中でもよく知られています。
 エコールドパリの寵児。世界放浪。4度の結婚。戦争画家。洋画界の戦後処理をめぐって日本を追われるように渡仏後、二度と日本の土を踏まなかったこと、、、、などなど。

 今回の「没後50年~」は、フジタの生涯を追いながら、風景画、肖像画、裸婦、宗教画など、テーマ別に作品が並べられていました。

 二人の少女1918プティパレ美術館蔵


 藤田の最後の妻、25歳年下の君代夫人はフランスの地で81歳の藤田をみとったのち、藤田の作品を守ることに生涯を使いました。
 藤田の作品公開には大きな信念を持ってあたり、藤田の名誉を少しでも傷つけるような事態を避けていました。藤田が日本を出たいきさつには、洋画壇との軋轢もあるとされ、君代夫人は藤田の名誉を守るということを第一にしてからです。ためになかなか大きな回顧展は実現せず、藤田展が日本国内で頻繁に開催されるようになったのは、君代夫人の死後になりました。

 ただ、100点以上の展示に対し、90分たったら出口で待ち合わせという約束をミサイルママとしてしまったために、晩年の宗教画のコーナーは、パパっと駆け足観覧になってしまったのが残念。レオナールフジタはキリスト教に改宗後、教会の壁画など宗教画を数多く残しているので、日本ではあまり紹介されてこなかった晩年の作品をじっくり見るべきでしたのに。

 何点か出ていた自画像も、各時代の相貌の変化から藤田の心理までうかがえておもしろかったです。

 東京芸大の卒業制作自画像。
 当時の洋画ボス黒田清輝からは不評を受け、自信家の藤田は、日本を離れパリ留学で見返してやる、と思ったそうです。


 ちょっと前にテレビで見た藤田のドキュメンタリーで、本邦初公開という藤田の声の録音が興味深かったです。都都逸だか常磐津だか、藤田が自分でテープレコーダーに吹き込んでいます。全部で12時間分。日本語部分は6時間分。これまで君代夫人がしっかり抱え込んできて調査が行き届いていなかった遺産遺物の中からの新発見なのだとか。

 君代夫人が大切に残してきた遺品からは「日本への思い残し」という藤田の思いも伝わってきます。渡仏以後二度と日本に戻らなかった藤田の思いはどのようなものであったのか、手紙や日記などにより、研究者によって明らかになりつつあります。

 日曜美術館で聞いた録音内容には「私が生きている間にどんな声をしていたか残しておいて、後世の人に聞かせておくこともまんざら無駄なことじゃないと思います」という声が残されていて、数多く残っていたおかっぱ頭の写真とともに、藤田嗣治という人物を「後世の人に知らせておく」という藤田の思いは、届いたと思います。

 毀誉褒貶はげしく、「戦争中は軍に積極的に協力したのに、敗戦後はGHQのごきげんとりに終始して、アメリカ経由でパリに逃亡した」などと評されてもきた藤田嗣治。藤田を名指しで非難する論も美術雑誌その他にかなり出回りました。

 藤田は、戦時体制の日本洋画壇代表にかつぎだされました。軍幹部の父を持ち、親戚一同が軍人であった藤田は、軍部へのコネクションを生かせる人物とみなされたからです。しかし、画家の多くが軍部に協力したにもかかわらず、戦後は一転して、戦争責任を藤田ひとりに負わせた、という伝聞が残されたました。

 藤田がパリへ渡ったことも含めて藤田の行動を非難した人たちがいた、という戦後画壇の「政治」状況があった、ということでしょう。おゲージツ゚も、コネやらかけひきやらがたいへんみたいです。よく知らないけれど。
 
 藤田自身がこのあたりのいきさつにつき語った、とされることばがあります。
 「私は内田にこう言った。・・・私が戦犯と極まれば私は服しましょう。死も恐れませんが出来れば太平洋の孤島に流してもらって紙と鉛筆だけ恵んで貰えれば幸です。答えて後は一切その話は打ち切って小竹町から駅迄自転車で出かけて何か買って内田にだけ、私は酒は一口呑まないからってすすめて話がいろいろはずんで来た。 何んな事があっても私は先生を見捨てたり致しません。必ず私一人丈でお世話をいたします。何うか先生皆んなに代わって一人でその罪を引き受けてください。酒が入って内田は直ぐに泣く、涙もろい人だった。」(夏堀全弘著『藤田嗣治芸術試論』より)

 このエピソードは、藤田側から出されたものですが、内田夫人は「夫はそんなことは言っていません」と反論、藤田の妻君代夫人が内田夫人に再反論するなど、本当のところはわからないまま、すべては靄のかなた。

 戦時下においては「アッツ島玉砕」や「サイパン島同胞臣節を完うす」など、大画面の戦争画を描きました。戦争協力画は日本全国を巡回し、藤田は、自分の絵の前で老婆が合掌し祈りをささげている姿を目撃したことを書いています。

 竹橋の近代美術館で藤田の戦時中の絵が一堂に展示されたとき、藤田の戦争画のうち、初期にはたしかに戦意高揚の役目を果たそうとする意気込みがありますが、戦争末期の「サイパン島同胞臣節を完うす」などは、戦争の悲劇的な最後を描き、むしろ反戦画とも受け取れる作品だと思いました。

 藤田の研究と評価は、今後も新資料の発見と考察が続いていき、新知見による新たな藤田像も出てくると思います。

 私は、パリでの自分の名前を「fujita」ではなく、「foujita」という綴りにしたこと、親しい友達には「フーフーfoufou」と呼ばせていたこと、ということが藤田の本質のように思えます。フランス語でfoufouとは、「お調子者、おばかちゃん」というほどの俗語だそうです。エコールドパリの大狂乱時代。お酒を飲めない体質であるのに、酔って大騒ぎする仲間に調子を合わせて「お調子者」としてパーティでふざけまわった藤田。戦時下の日本では、大政翼賛に走る画壇のトップに担がれて戦争画を描いたのも同じことだったと思います。

 戦後の渡仏以来、フランスの田舎町で君代夫人とふたり、カトリックに改宗して教会の壁画や宗教画を描いて静かに暮らした。この時代がいちばん「藤田自身」として暮らした年月であったでしょうか。

 私は、戦後の宗教画のなかに描かれている聖母子や聖人の姿、子どもの絵があまり好きではありません。藤田の子ども、かわいいと思えない。なにか人生の底意地の悪さを見通しているような子供の顔が多いように思えます。

 藤田自身の自画像を含む、聖母マリアの絵1962-63パリ市立美術館蔵


 この中に描かれたうさぎも、猟で撃ち殺された「Nature morte死んだ自然。日本語では静物画」のmorteうさぎに見えます。白い肌の美女も、子供も動物も、どこか死をまとっているかのように感じるのです。今回はじめて見た↑の「エミリー・クレイン=ジャドボーンの肖像」も、死にそうな顔に思えます。
 このNature morteを心地よく感じる人と、違和感を感じる人によって、藤田に心酔するか否かの分かれ目がくるのでしょう。

 生誕120年の節目で開催された2006年の回顧展、没後50年の2018年の今回の展示。次回生誕130年の2026年になるのか、没後60年の2028年になるか。藤田人気はたぶん、そのときまで続くと思います。 

<つづく>

ぽかぽか春庭「藤田嗣治本のしごと展in富士美術館」

$
0
0


20190223
ぽかぽか春庭アート散歩>2019冬のアート散歩(1)藤田嗣治本のしごと展in富士美術館

 目黒区美術館で開催されていた「藤田嗣治本のしごと」を見逃していたら、巡回展が八王子の富士美術館でも行われるので、今度は見逃さずに行ってみることにしました。
 以下、「没後50年藤田嗣治展」と「藤田嗣治本のしごと」の観覧報告です。



 2019年2月8日に観覧した富士美術館の「藤田嗣治本のしごと」展には、藤田がGHQ民政官フランク・エドワード・シャーマン(Frank Edward Sherman、1917-1991)にあてたたくさんの手紙が展示されていて、興味深かったです。
 シャーマンは、もともと藤田のファンでした。シャーマンは、広く文化人と接し、戦後日本文化復興のために働きましたが、なかでも藤田を積極的に支援し、藤田嗣治と君代夫人の戦後のアメリカ・フランス行きを手配しました。
 シャーマンあての手紙は、八王子市富士美術館に数通展示されていました。どれも挿絵つきでアメリカホテル生活のようすや、君代夫人の早期渡米を願う気持ちが書かれていました。

 藤田遺品の愛用品。戦後渡仏した藤田は、日用品も家具も手作りしたそうです。
 自作のテーブル(制作年不明 旧シャーマンコレクション)と、愛用の旅行鞄


 藤田は君代夫人を日本に残して渡米したため、シャーマンにあてて、早く君代にビザを出して、自分のもとに寄こしてほしい、という意味の手紙を何通も出しています。
 文面は、駄々っ子が母親の胸に抱かれたいと、身をよじって懇願するような調子です。藤田はシャーマンの厚誼に対して数々の作品を贈っており、これらはシャーマンコレクションとして知られています。(シャーマンコレクションは、他の画家の作品やシャーマンが撮影した文化人たちの写真とともに、目黒区美術館や伊達市アートビレッジ文化館に所蔵されています)

 藤田は本業の油絵のほか、本の挿絵や装丁作品も多数残しています。
 藤田が初めて手がけた挿絵本の仕事は、1919(大正8)年の 小牧近江『詩数篇』でした。小牧近江はフランス文学者、翻訳家、社会運動家。1910年から1919年ま でパリに滞在し、藤田とも交友がありました。1920年代から30年代にかけて、藤田は数多くの挿絵本装丁本をフランスで手がけており、部数限定のこれらの本は、コレクター垂涎の希少本になっています。

 藤田嗣治「腕(ブラ)一本(昭11)東邦美術協会 講談社文芸文庫で再版されています。


 エコールドパリの光景、アーティストとの交流を書いています。異国の地で腕一本をたよりに異国の地で画家として立つことができた自負がうかがえます。キュビズムっぽい絵をさっそく取り入れているところが、パリについて最初にやったことが「黒田清輝推奨の絵具を床にたたきつけた」と書く藤田の「最新の絵画に直にに触れている」という気分の表れかと。

 藤田嗣治「地を泳ぐ」
 1911年にパリに渡 以来20年のフランス時代、南米北米などを旅行してまわった時代を経て、1933年から1941年までの随筆を集めた本。


 レオンフラピエ「母の手」深尾須磨子訳
 1934年に深尾須磨子によって訳され平凡社から出版された。原題は『ラ・マテルネルLa Maternelle保育園1905』



 ポール・クローデル「三つの聲」1935立命館出版部


 戦後の本。佐多稲子(1904-1998)の「素足の娘」1940年初版当時は離婚前の窪川稲子名で出版したので、↓は佐多稲子となっているので、初版ではないようです。


 展示されていた藤田の書簡集のなかで、意外に思ったこと。
 最初にパリに行ったときの、藤田から最初の妻とみに宛てた手紙です。イラスト入りのこまかい字でパリの印象や自身の動向を事細かに妻に伝えています。女学校の美術教師であった鴇田登美子と出会って、2年後の1912年に結婚しましたが、藤田渡仏の翌年には第1次世界大戦が勃発したため、とみはパリに来ることはありませんでした。

 1917年にはパリで出会ったモデルのフェルナンド・バレエ(Fernande Barrey)と2度目の結婚をしていますから、その前に離婚が成立していたのでしょうけれど、そのあたりの資料は、私はまだ調べていません。林洋子監修でとみ宛ての書簡集は「藤田嗣治 妻とみへの手紙 1913-1916」(上・下、人文書院2016)にまとめられていますので、そのあたりを調べればわかるのでしょうけれど。

 とみ夫人が渡仏しなかったことから、藤田の愛情はもともと薄かったのかと勝手に想像していました。
 戦時下のパリで仕送りも途絶えて極貧生活をしている間の藤田を支えたフェルナンドに藤田の気持ちが移り、縁の薄い結婚生活が自然消滅したのかと。
 パリにわたる前からとみ夫人との仲は冷えていたので結婚まもなく別居したのかと思い込んでいたのですが、藤田の手紙に見る限り、とみに対しての愛情が感じられる文面に思えました。

 とみは、離婚後実家鴇田家に戻りましたが、藤田からとみにあてた封書109通と葉書72通が鴇田家に大切に保管されていました。とみと藤田が不仲になっての離婚であったら、とみも離婚した夫の書簡類を大切に保管しておくことはなかったのではないかと思えるのです。

 藤田の手紙、とみがパリに来たら、こんなヘアスタイルをさせたいこのような服を買って着せたい、という絵が描かれていたりして、藤田の愛情もなみなみならず、という印象でした。
 
 「妻とみに宛てた書簡」1914.3.11付 平野政吉美術館蔵


 東京美術学校在学中に描かれた「婦人像」1909は出会って間もないころのとみの肖像ではないかと推測されています。

若い婦人の肖像1909東京芸大蔵


 藤田の装丁や挿絵、ひとつには生活を支えるための仕事という面があったでしょうけれど、白い肌の美女や猫と同じくらい、藤田が本のしごとに力を入れていたことを知り、とても興味深く見ることができました。 

 次回、富士美術館のもうひとつの展示「西洋絵画ルネッサンスから現代まで」

<つづく>

ぽかぽか春庭「西洋絵画ルネッサンスから20世紀まで in 富士美術館」

$
0
0


20190224
ぽかぽか春庭アート散歩>2019冬のアート散歩(2)西洋絵画ルネッサンスから20世紀まで in 富士美術館

 「藤田嗣治本のしごと展」を見たついでに、同時開催の常設展を見ました。今回の特集は「西洋絵画ルネッサンスから20世紀まで」という展示です。
 富士美術館が開館したのは1983年。都内にあるのに、開館してから20年以上も見に来なかった。ときどき「見にいきたいなあ」と思う展覧会もあったのだけれど。

 実をいうと、宗教団体が設立した美術館に対して、斜めに構える気持ちがあり、熱海のMOA美術館と富士美術館、これまで観覧の機会を持ちませんでした。
 むすめが「尾形光琳の紅白梅図屏風が見たい」と言い出して熱海に行くことになりました。MOA美術館所蔵の国宝です。世界救世教設立のMOA美術館に行くなら、創価学会設立の富士美術館にもいきましょう、という、なんだかよくわからない「宗教設立美術館OK」です。

 創価大学正門前の富士美術館


 宗教団体、税金はかからないし、信者からのお布施たっぷりで、MOAも富士もよい作品買い放題。充実した所蔵品です。
 「西洋絵画ルネッサンスから20世紀まで」も、なかなかの品ぞろえでした。

 富士美術館現代美術展示室


 テレビドラマ「メアリー・スチュアート」に出てくるメアリーの舅にあたるフランス王アンリ2世。テレビの中では女に目がないギラギラ絶倫系のアンリ2世ですが、肖像画ではきまじめそうな、ちょっと線の細い感じで描かれています。

 アンリ2世像 1553-59頃 フランソワ・クーリエ工房


 私のとぼしい古代ヨーロッパ史の知識。アレクサンドロス大王は、アジア遠征半ばで32歳の若さで亡くなった。
 しかし、↓の絵では、アレクサンドロスは、かなりの老人に見えます。ルネッサンス時代の画家にとって、慈悲にあふれる大王といえば、威厳のある堂々とした姿で描くものと思われていたのか、32歳にしちゃ老けすぎだろっと、突っ込み入れたくなりました。

 「アブドロミノに奪った王冠を返還するアレクサンドロス大王」1615-17年頃ベルナルド・ストロッツィ(1581-1644)


 そのほか、他の美術館では見たことのない肖像画がたくさんあり、興味深かったです。
 マリーアントワネットのお気に入り女性肖像画家だったエリザベート・ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン(1755-1842)。
 アントワネット肖像画はよく目にしますし、自画像も西洋美術館に常設展示されています。
 マリーアントワネットとりまきのひとりで、貴族たちの肖像画を描き、マリーの力で王立アカデミー会員にもなりました。

 マリーのほうは女王と肖像画家という関係を超えた親友と思っていましたが、画家のほうは、ブルボン一家が落ち目になると、さっさと宮廷を逃げ出して、イタリアやオーストリアへ。さらにロシアのエカテリーナ2世の肖像も手掛けるなど、マリーアントワネットの不器用さに比べて、立ち回り方ははるかに上手。

ロシア滞在中にはエカテリーナ女帝のあとおしで、ロシア王立アカデミーの会員にもなっています。なんて立ち回り上手。画商の夫との仲はうまくいかなかったものの87歳の長寿全うしました。明日の運命はわからない激動の時代を生ききったことは見事と言うべきでしょう。

 フランス宮廷時代、彼女は、マリーアントワネットの小姑にあたるルイ16世の妹の肖像も描いていました。

 ルイ16世妹エリザベス王女1782エリザベート・ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン


 革命後、ロシアやイギリスでも貴族やブルジョア階級の肖像画を描きまくりました。美化術に長けていたので、誰でも、彼女に描いてもらえば2倍は美人になりました。マリーアントワネットがハプスブルク家遺伝の受け口であった事実も、彼女の腕で上手くごまかされていて、残された肖像画は、マリーアントワネットの魅力を十分に伝えています。

フランスが王政復古するとルイ18世に手厚く迎えられ、フランスを安住の地としました。生涯に660の肖像画と220の風景画を残し、画家としての名声を保った一生でしたが、画商の夫は賭博好き、ひとり娘は素行不良という家庭。そりゃ、苦労も背負わなきゃギロチンに散った「親友」に悪いよね。

 近代絵画現代絵画もよい作品が並んでいました。
 クロード・モネはフランスノルマンディー地方の避暑地ブールビルの砂浜と断崖の風景を愛し、たくさんの同名の作品を残しています。

 ブールビルの断崖1882 クロードモネ(1840-1926)


 この絵より15年後1897年に描かれた「波立つブールビルの海」は西洋美術館常設展示なので、いつも見てきました。灰色の空と波頭が白く立つ画面。それに比べると1882年のブールビルの断崖は、空も青いし、海も穏やかです。

 現代絵画から。キース・へリングが収蔵されているのが目を引きました。
 2月8日に創価大学の学生によるボランティア解説がありました。学生が一生懸命自分が選んだ絵を説明するのををききながら各展示室を回りました。私が知らなかったことを教えてくれる解説もあり、興味深い時間になりましたが、だたひとつ、私の疑問に思ったことについて「それは調べていません」となったのが、収蔵されているキースへリングの絵がふたつに割れていること。

 キース・へリング(1958-1990 Keith Haring)は、ストリートアーティストとして知られるようになりました。地下鉄の掲示板や街角の塀に絵を描いていくスタイルで有名になり、作品が売れるようになると、自分自身が同性愛者でHIV感染者だったこともあり、恵まれない子供やエイズ患者救済のために力を注ぎました。エイズの発症により52歳で死去。

 もともと仏教系は在来宗教も新興宗教も、同性愛をとがめだてするようなことは少なかったと思います。親鸞が妻帯をはじめるまで、仏教のお坊さんたちはお寺のなかにいるお稚児さんの体を女性のかわりにしていたのですし。
キリスト教系新興宗教は、統一教会など絶対に同性愛を許さないところが多いみたいですが。

 それにしても創価学会美術館である富士がマン・レイやキースへリングを収蔵していることは、ちょっと意外でした。
 おりこうそうな創価大学女子大生は「同性愛とか、エイズ患者とか、自分とは違うと思っていましたが、自分とは違う人を受け入れていくことが大事だと思いました」という感想をキースの作品の前で語っていました。お利口なことば、メーヨ会長様が認めてくださった見解なのだと思います。

 で、私の質問「人物のあるコンポジションの下三分の一のところに亀裂があるのは、どこかの壁から剥がしたために生じたのでしょうか」
 担当の学芸員の先生も「ここに収蔵されたときにすでに亀裂はあったので、どのような経緯で亀裂が入ったのかはわかりません」という答えでした。 

 人物のあるコンポジション1982 キース・へリング 
 

 富士美術館でのひととき、充実していました。これからは「シューキョ―ケー」と回避せず、女子学生が解説したように「自分と違うことを受け入れて」いかなければなりませんね。

 45年も前のことですが、母が死んだとき、ヒトの不幸を見つけるとワラわらと寄ってくる宗教勧誘者のなかで、創価学会がもっともしつこくて、母が死んで弱り切っている一家に、「早死にしたのは先祖のたたり。大しょうにんさまにすがれば、よくなる」なんてかわるがわる言いにくる。あなたたちの押し付け、一生許さない、と、徹底的に嫌いになってしまったのです。大聖人様ごめんなさい。あなたが悪いわけじゃない。

 私の宗教は「宇宙幸福原っぱ教」といいます。私が教祖で、信者は私ひとり。宇宙のどこかに幸福な原っぱhappy fieldがあって、そこに私の父も母も姉も犬のコロもいます。私を見守って助けてくれる原っぱの人たち。死んだらそこに行くかもしれないし、行かないかもしれない。信ずる者こそ幸いなれ。

 きらいなのは、(1)「自分にとっていい宗教だから」と、ヒトに押し付けてくる人。あなたにとって、いい宗教なら、あなたがそれを心の糧にすればいい。私に押し付けるな。
(2)新しい信者を勧誘することで、教団内の地位が上がる仕組みになっている教団(こうなっているから(1)が生じる)
(3)寄付金をがっぽりもうけても、それを社会福祉に使わない教団。

 で、これからは富士美術館にも、ときどき行きたいと思います。65歳以上入館料千円でした。高い!できれば、上記(3)のために、70歳以上は無料にしてほしい。

<おわり>

ぽかぽか春庭「岩本拓郎展」

$
0
0

 岩本拓郎すべてのいろとかたち展ポスタ―

20190226
ぽかぽか春庭アート散歩>2019冬のアート散歩(3)岩本拓郎展 in 吉祥寺美術館

 2月7日、仕事帰りに吉祥寺美術館に寄りました。吉祥寺駅で下車するのも久しぶり。駅前のごちゃごちゃ戦後闇市的な飲み屋さん街は相変わらずのごちゃごちゃぶりでなつかしかったですが、そこには寄らず、まっすぐコピス吉祥寺へ。

 久しぶりに行ったので、何度も間違えてきた間違いを今回もまた繰り返しました。
 コピス吉祥寺のエスカレータで6階まであがっておもちゃ売り場に出た後、あれ、美術館はどこかなと、カラフルなおもちゃの間をぐるぐる回ってしまいました。売り場のお姉さんに聞いて、エスカレータは6階までしか上がれない、美術館は7階、ということを思い出す。エレベーターを探して、7階にあがりました。

 武蔵野市立吉祥寺美術館。65歳以上無料。夜7時まで開館。
 なので、前の職場の帰り道にちょくちょく寄っていたのですが、最近は10時半から夜8時まで仕事をする生活になったので、閉館時間には間に合わず、遠ざかっていました。
 ラッシュがきつくなったからと、自分で出勤時間をずらし通常の勤務時間より遅くしたのですが、「アフター5」という活動はゼロになりました。家に帰ったらご飯食べて寝るだけ。
 前の職場で8時半から授業をするためには、6時半に家を出ていました。そのかわり、帰りに美術館などに寄る時間がとれました。どっちがいいか、思案中の現在。

 2月7日の吉祥寺美術館は、「岩本拓郎 すべての いろと かたち展」開催中でした。(2月24日まで) 
 岩本は1951年生まれ。私とほぼ同世代ですのに、私はまったく知らない画家でした。もしかしたら東京近代美術館所蔵の2点を、常設展示の中に見たことがあったのかもしれませんが、抽象画、現代絵画の展示をすっとばして見て回るので、心にとどめなかったのかもしれません。

 ミロとかモンドリアンとかクレーとか草間彌生とか、一目見て作者がわかる絵の前では足を止めますが、日本の現代作家の抽象画、だれの作品も同じように見えて、心に残った作品少なかったです。昔は、「日本画って、だれが描いても同じような景色同じような人物に見えて、どれがどれやらわからない」と思っていたのですから、ようは、見方が不十分ということなのですね。(もっとも、今でも、宗達を模写した光琳と抱一の風神雷神、どっちがだれやら区別つかないし、曽我蕭白の龍も伊東若冲の龍も区別つきませんけど)。

 岩本拓郎「茶色の小瓶」2002 紙に油絵具69×36cm関口美術館蔵


 いつもは、ロビーに展示してある作品は撮影自由で、展示室内は撮影禁止です。しかし、岩本拓郎展では逆で、ロビー内は撮影禁止、展示室内は撮影自由、ただし「岩本拓郎という作家名を明示する」という条件つき。

 ロビー展示作品は、美術館や個人の所蔵作品、つまり「売れた」作品。借り出し作品ですから、所蔵権により撮影できない。展示室内の11cm作品は、2018,2017年の新作で、これから売ろうという作品。だから、作家名作品名を書いて「販売促進の宣伝してください」というわけです。1mスクエアの大きな作品が11点。11cmのが36点。
 以下、近作の紹介です。

 2018年2017年の作、11cm正方形のなかに、油絵具やアクリルペイント、アルキド樹脂絵具で、さまざまな色と形を描いていく、という作品。「SQUARE-11シリーズ」
 展示室の中には、11cmの正方形の中のさまざまな色が表現されていました。
 吉祥寺美術館展示室内


 詩情あるタイトルがついていますが、作品が出来上がったあとに、その画面からイメージされるタイトルをつけるそうです。

 黄色くよみがえるもの 2018紙にオイルパステル、アルキド樹脂絵具


 蒼く立ち上がる 2018紙にオイルパステル、アルキド樹脂絵具


 まあ、このふたつは、色味からいって、タイトルがわかる。

 プラハからⅢー色彩のバロック 2018紙にオイルパステル、アルキド樹脂絵具


 画家の詩心、どうしてプラハだったのやら。私には、下の作品が「プラハ色彩のバロック」だと言われても、その違いはしかとはわからぬが。


 抽象画について、昨年おもしろかったのは、中国で大規模に開催された「草間彌生&村上隆展」贋作騒動。展示されたすべてが贋作だったけれど、日本側から指摘を受けて展覧会が閉鎖されるまでファンは気づかずにニセモノを「鑑賞」していた、ということ。質の悪い贋作だったので、見る人が見ればすぐに偽物とわかったそうですが。

 具象画だって贋作は山のように出回っていて、中国には「贋作村」という場所があって、かっては、村を挙げて贋作つくりに励んでいるのだとか。あ、現在では「絵画村」として観光名所にもなり、模写として堂々おみやげになって売られているそうです。油絵作家10000人が描きまくる村の年商700億円。大芬油画村へは、深圳市からツアーも出ていて、おみやげゴッホとか500円くらいから。

 「画家のサインを模倣して入れてはいけない」というのが模写のルールだそうですが、本物そっくりサイン入りやら、現代の絵具とわからないような「19世紀の組成とおなじにしてある時代物風絵具」もあるそうで、絵具の化学分析でもわからない本物そっくり作品もあるのだとか。

 村上隆ルイヴィトンコラボのバッグだの草間彌生かぼちゃTシャツだの売られている時点で、贋作出現は宿命かも。(私が持っている彌生かぼちゃ柄タンクトップ、Mサイズなので、胸は入るがおなかがはいらなくなりました)

 少なくとも、私は岩本拓郎の贋作を「格安だから」とかなんとか売りつけられても、本物なのかどうか、まったくわからない程度の鑑賞眼しか持っていない。鑑定書だって偽造だからなあ。

 あれこれと偽物の心配をしているより、抽象画を見るときは無心にその形や色を楽しめばそれでいいんだと思います。でも、ついつい値段で鑑賞するビンボー人なので。画廊などの個展では作品に値段がついているけれど、美術館展示室の作品にはついていなかった。(画廊のオークションでは23.5×32.5 cm F4号油彩が3万円で落札されていました。本物かどうかは定かでありません)

 吉祥寺美術館の岩本拓郎展、その色と形はとてもここちよかったです。
 岩本作品、じっくり見たので、これからどこかで作者名掲げてなくても、あ、これは岩本拓郎かなって、わかるようになっていたらうれしいかも。
 村上隆も草間彌生も、美大生の贋作だされても深圳の大芬油画村製作品でも、今のところ私にはわからないです。

<つづく>

ぽかぽか春庭2019年2月目次

$
0
0


2019028
ぽかぽか春庭2019年2月目次

0202 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十九文屋日記京都旅行2018年11月(12)松尾大社・重森三玲の庭園
0203 2019十九文屋日記京都旅行2018(15)京都外国語大学・東寺
0205 2019十九文屋日記京都旅行2018(16)京都駅から

0207 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記きさらぎ(1)光の春に
0209 2019十九文屋日記きさらぎ(2)半額飯の日々

0209 ぽかぽか春庭シネマパラダイス>輝ける人生の映画(1)自分の足をみつけること
0212 輝ける人生の映画(2)フジコ・ヘミングの時間
0214 輝ける人生の映画(3)判決、ふたつの希望
0216 輝ける人生の映画(4)プリティウーマン

0217 ぽかぽか春庭アート散歩>2018に見た絵拾遺(1)ムンク展in東京都美術館
0219 2018に見た絵拾遺(2)斉白石展in東京国立博物館
0221 2018に見た絵拾遺(3)藤田嗣治展in東京都美術館

0223 ぽかぽか春庭アート散歩>2019冬のアート散歩(1)藤田嗣治本のしごと展in富士美術館
0224 2019冬のアート散歩(2)西洋絵画ルネッサンスから20世紀まで in 富士美術館
0226 2019冬のアート散歩(3)岩本拓郎すべてのいろとかたち展 in 吉祥寺美術館

ぽかぽか春庭「雪めぐり梅めぐり」

$
0
0

 春を告げる福寿草in白金植物園2月20日

20190302
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記早春はるの歌(1)雪めぐり梅めぐり

 2月9日に上野公園に行ったときは、前夜8日の雪の名残が見られました。

 2月9日上野の雪

 2月10日旧古河庭園の雪


 9日、東京都美術館から東京国立博物館へ移動する途中、30分だけ動物園に寄ってみようと思いました。雪も残る中、動物園は人出も少なくて、シャンシャンを見ることができるんじゃないかと思ってシルバー料金300円で入園。
 40分待ちでした。1時間強かかりましたが、シャンシャン中国帰国前に後ろ姿だけでも見ることができました。

 シャンシャンは、背中を向けてお昼寝中。お父さんパンダは歩き回っていましたけれど。


 2月10日に旧古河庭園と六義園を散歩したのは、梅が咲き始めたという公園のネットニュースを見て。早春気分を味わうためです。

 旧古河庭園の紅梅。


 旧古河庭園の雪釣り。東京には雪釣りが必要なほど降らないけれど、少しは雪が残っている庭園なので、いっそう雪釣りが映えるように見えました。


 旧古河邸の倉庫の窓はステンドグラス仕立てになっていることに初めて気づきました。いつもは窓の鎧戸が閉めてあるので、ステンドグラスは見えないのです。だれの作品かなあ。屋敷全体はコンドルの設計です。本館玄関ドアにもステンドグラスがありますが、作品についての説明は、この次お屋敷見学のおりに聞いてみましょう。

 鳥の図柄のステンドグラス


 六義園の白梅


 六義園の松を選定する女性庭師


 松の枝先にいる庭師さんに春庭からの余計なひとこと「切る枝と残す枝はどうやって区別しているのですか」
 庭師さん「一言ではいえません」そりゃそうだ。ひとことで言える技なら、私にも切れる。 「一番乱暴に言ってしまうと、昨年出た新枝は残します。古い枝はできるだけ落とします」そうなのか。でも、それだけじゃすまないから修業が必要なのですよね。がんばれ女性庭師さん。

 旧古河庭園で。早春のババ。

<つづく> 

ぽかぽか春庭「弥生の骨とシモキタの劇」

$
0
0
20190303
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記早春はるのうた(2)弥生の骨とシモキタの劇

 縄文人と弥生人について興味を持ってきました。ご先祖ですから。
 東日本に住んでいるので、われらの祖先にはナンボかは縄文人のDNAがあるだろうなあなどと、勝手に想像して、火炎土器や土偶などを「ご先祖の宝」と思ってきました。

 宇宙幸福原っぱ教のご本尊様たち。ご本尊様たちは、みなで私を守ってくださるありがたいお宝。
 

 息子と科博によく来ていたころ、縄文や弥生の発掘成果の展示を見たことがあります。
 図録に書かれた解説などを読み「はあ、なるほど」と、研究者の説に啓発されてきてわかったようなつもりになる。
 漫画などでは弥生人が縄文人の村を襲って土地を奪った、というシーンがありましたが、縄文人と弥生人の利用する土地はまったく異なっているので、土地や水をめぐって争いが起きたのは弥生人同士であり、弥生人が縄文の村を襲ってもなんのメリットもない、ということも教わりました。

 1万年前から8000年間続いた縄文文化。後期縄文のころには当時の世界の中ではたいへん高度な文化的生活を送っていたことも知られています。
 そして、大陸から稲作文化を持った人々が少しずつ海を越えてこの東端の島にたどりつき、千年列島を稲の国に変えていったこと。

 紀元前の日本列島。縄文人の人口増加率。年に1%くらいずつ増えていく。去年100人いた村は、今年は101人に増えている。しかし弥生の村は安定した稲作生産によって人口増加率は2~3%。この差により、また混血によって、千年くらいの間には、人骨のDNAに純粋縄文人は減り、弥生人との混血人骨が増えました。

 とくに縄文人を痛めつけたのは、武器を持つ弥生人の襲撃などではなく、稲作と同じくらい古く列島にもたらされた、インフルエンザなどの大陸からやってきた病原菌であっただろう、という説も、スペイン人の南米上陸や南太平洋のあと、これらの地域の人々が新しい病気によって人口激減したことなどからみて、なるほど、縄文人も新しい病気に弱かったのだろうなあ、と感じました。

 で、最新の弥生人骨研究の成果が東京科学博物館が展示されていたので、2月13日に行きました。弥生人骨だけが目的ではなく、13日に無料ミニコンサートがある、という科博ニュースを見て、無料大好きの春庭、出かけていったというわけ。ミニコンサート開始前のひととき、弥生人の骨を見てすごしました。



 弥生時代の人骨が数多く出土した土井ヶ浜遺跡を中心に、弥生時代人骨をめぐる研究史や最新成果が展示されていました。開催期間:2018年12月11日-2019年3月24日。
最新発掘成果はどのようなものか、、、、

 人骨に残る少量DNAが解析できるようになり、渡来人との混血状況が地域によって異なることなどがわかったそうです。同じ九州でも、大陸に近い福岡あたりの遺跡出土だと混血が進んでいる、鹿児島などの南のほうは北のDNAとかなり異なる、などの分析結果が展示されていました。同じ弥生人といっても、地域によって特徴がことなるということもわかってきたという展示、面白かった。

 縄文人の人骨は傷のないものが多いのに対して、弥生人の骨には、矢や刀による傷が見られ、争いの多かったことが判明しています。土地争い水争いで村ごとに戦争したのだろうなあと、「クニ」ができて首長なんてものが出現すると戦争になるなあと思いました。

 展示の人骨は撮影禁止ですが、人骨の上に展示されている写真パネルの撮影はOK。
 

 ミニコンサートが終わってからまた弥生人骨について、解説をゆっくり読もうと思っていたのですが、13日のミニコンサートは、科博だけでなく、上野の文化施設6館で行われる連続イベントであることがわかり、午後は4館をめぐって音楽三昧になりましたので、骨はまた今度、ということになりました。

 2月14日木曜日、ジャズダンス仲間のミサイルママとコズさんといっしょに下北沢へ行きました。下北沢演劇祭が開催されており、友人K子さんが出演しているので観劇に出かけたのです。K子さんは、現在所属している劇団で演技出演は今回が最後、というので、前回はミサイルママとふたりで見た劇を今回は3人で。



 『バリャガンガーラ・笑いのない町』トマス・マーフィ作。菅沢晃演出。
 K子さんは前回と同じ「おばあさん」の役です。
 いつもは私よりずっと若々しくて生き生きしているK子さんですが、髪を白くしてすっかりおばあさんになり切っています。

 おばあさんは、孫娘の介護をうけ、一日中ベッドの上でぶつぶつ独り言をいうほか何もしない暮らし。おばあさんがつぶやいているのは、「どうしてこの町から笑いが消えたのか」というお話なのですが、あるところまでくると話はワープして戻ってしまい、最後まで語ることはありません。

 孫娘メアリーは、おばあさんの世話をするために看護師の仕事をやめました。看護師をしているころは、妹のドリーが介護をしていたのに、ドリーは結婚して家を出てしまったのです。
 メアリーは、繰り返されるおばあさんの話にうんざりし、やめさせようとしてきましたが、やめることはありません。おばあさんは今はメアリーの名前さえ思い出さないのです。

 ドリーとの争いのあと、メアリーは、くりかえし語られる「笑いの無い町」のお話を最後まで語らせてみようと考えます。

 おばあさんを励まして記憶をたどり、最後まで町の歴史を続けると、、、、。
 町に大火事が起きたとき、おばあさんは息子トムを救い出すことができず、死なせてしまった、、、。トムの死を自分のせいだと攻め続けたゆえ、おばあさんは過去の記憶を忘れようとし、すべてを靄の中にしまって暮らしてきた。

 メアリーは、おばあさんの話を最後まで聞き、家族の間で封印されてきた過去を知ります。知ることによって、過去を葬り去るのではなく、記憶の中から一歩踏み出す勇気を持ちます。

 バリャガンガーラちらし


 こずさんも、ミサイルママも、K子さんの迫真の演技に簡単しきりでした。
 私も、これが「最後の演技出演作品」と思うと、もったいないと思いました。K子さん、まだまだ役者として活躍できると感じたけれど、これから先別の形で演劇活動を続けるのだろうと思います。

 K子公務員として定年までいっしょうけんめい働き、60歳から演劇活動を始めました。わたしにとっては、希望の星です。これからもK子さんの演劇を応援していきたいし、ミサイルママといっしょにジャズダンス発表会に出るときは、K子さんに見てほしいです。K子さんは私より2歳上で、ミサイルママは2歳下。おなじ世代の友人のがんばりを見ていると、私もがんばろうという元気がでてきます。

<つづく>

ぽかぽか春庭「上野公園文化の杜の音めぐり」

$
0
0


20190305
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記早春はるの歌(3)上野公園文化の杜の音めぐり

 東京で暮らしていると、物価は高いし電車は混み混みでシルバーシートに座らせてもらえないし、年寄りには暮らしにくいこともままありますが、それでも東京ならではの楽しみも多いです。無料コンサートがあちこちで開催されるのもありがたいことのひとつ。
 春庭、せっせと情報を集めて、無料コンサートに出かけます。
 2月後半、春も近いという気分で音楽を楽しみました。

 2月13日は、「文化の杜の音めぐり」という催しがありました。上野公園内の6つの文化施設の中で、無料のコンサートを行う連続イベントです。私はそのうちの4か所をめぐって無料または入館料のみの低料金で音楽を楽しむことができました。
 実は、このイベントを知らず、科学博物館のなかで無料ミニコンサートが開催されることだけを知って出かけたら、連続コンサートだったのです。

 午前11時の東京文化会館から「音めぐり」が始まっていたのですが、私は13時半の科学博物館から。科博は65歳以上常設展無料です。

 11時に科博到着。地下1階のラウンジで腹ごしらえ。いつもは地球館の精養軒に行くのですが、待たされることが多く、開演時間に間に合わない心配もあったから、1階ラウンジカフェでロコモコ、あまりおいしくないのを早食いしました。
 
 12時半には、日本館中央ホールにはすでに椅子が並べられていて、リハーサルを聞きながら本番を待っている観客もいました。私も椅子確保。

 リハーサル中の弦楽四重奏団


 13時半開演。東京音楽コンクールの入賞者ら4人の女性奏者による弦楽四重奏。モーツァルトのディヴェルティメントK136とk137。
 第1ヴァイオリン会田莉凡、第2V小形響、ヴィオラ瀧本麻衣子、チェロ三宅依子。立見席にもいっぱいの聴衆。

 水曜日は小学校の「総合学習」の見学者が多い曜日ですが、ミニクラシックコンサートに集まっているのは、大多数がジジババでした。以後、このジジババはみなぞろぞろとコンサート巡りをしていました。私もそのひとりのババ。

 大急ぎで歩いて東京国立博物館へ。近いとはいえ、他のジジババに負けじと私としてはかなりの急ぎ足。東博本館大階段の踊り場に演奏者が立ち、聴衆は階段下で立って聞きます。
 1階2階の通路にもなる大階段なので、通路を締め切りにして椅子を並べてしまうことは難しかったようですが、脇の階段も何か所かあるので、コンサート開始前30分からだけでも大階段を締め切りにして椅子を並べてほしかった、と、ババは思いました。立見席で芝居を見るのもよいものかもしれませんが、ババはクラシックコンサートは座って聞きたい。

 14:20から開始のはずが10分ほど遅れました。上野の森美術館で12:20-12:40にも1度目のコンサートをしている木管四重奏のメンバーなので、準備調整が間に合わなかったのかも。

 フルート多久和玲子、オーボエ大隈淳幾、クラリネット草野裕輝、ファゴット小武内茜。
 ボザ「夜の音楽のための3つの小品」とフランセ「木管四重奏」
 フランセは聞いたことあった曲ですが、ボザは初めて聞きました。ホルンを加えた木管五重奏曲はけっこうあるけれど、木管四重奏曲はあまりなくて、木管四重奏と言えばフランセのこの曲なんだそうです。

 演奏者は違いますが、ボザ「夜の音楽のための3つの小品」は、youtubeだとこのあたりで。ドイツの木管カルテット。
https://www.youtube.com/watch?v=enXi09_t57c

 東博の東洋館を見ておきたかったのですが、28日にも上野に寄る予定なので、演奏が終わるとまたまた急ぎ足で旧奏楽堂へ。

 奏楽堂は1890年竣工の東京芸術大学の旧コンサートホールです。藝大校内の新奏楽堂建築に伴い、解体されるところだった建物ですが、台東区が譲り受け上野公園内に移設、公開管理しています。1988年に文化財指定を受け、公開されてきました。
2013年から修理休館。2018年11月に再開館しました。私は修理後はじめて入る旧奏楽堂になりました。入館料300円シルバー割引なし。338席のキャパシティですが、ほぼ満席でした。科博で聞いた弦楽四重奏の4人の再出演です。

 2月13日の旧奏楽堂ステージ


 30分のミニコンサート。ハイドン『皇帝』
 やはり、階段下で立って聞くのと、現役コンサートホールとして利用されてきた会場の椅子席で聞くのでは、落ち着いて聞いていられる度が違います。壁が音を反射吸収したりの音響効果は、他の新しいホールに比べれば、劣っているでしょうが、このホールで滝廉太郎も三浦環も演奏したと思えば、出演する若手音楽家たちも気合が入るのかも。

 皇帝全曲を聞き終えて、最後は東京都美術館の1階アートラウンジへ。
 普段置かれているテーブルと椅子がそのままなので、座ることのできる人数は限られていて、奏楽堂から回ってきた人は、みな立ち見。
 二人掛けの椅子に女性がひとりで座っていて、わきにある荷物は席取りのためにだれかが置いたものなのかどうか、女性に「そこ、座れますか」とたずねてみたら、「はい、空いています」と、荷物を下ろしてくれたので、なんとか座れました。

 ソプラノ澤井衣里、テノール 中嶋克彦。
 ヴェルディ「椿姫」の乾杯の歌二重唱で始まり、テノール:「マリウ、愛の言葉を」ソプラノ:「私のお父さん」、二重唱ラ・ボエーム「愛らしい乙女よ」。アンコールにレハールのメリーウィドウ「唇は黙して」

 おなじみの歌が選曲されていましたが、私は「マリウ、愛の言葉を」をはじめて聞きました。


 アンコールのレハールだけ日本語で歌いましたが、客層を考えると、オペラ曲、全部日本語でもよかったのかも。旧奏楽堂での客は一曲が終わるまで静かに聞いていて、曲が終わってから拍手をしていましたが、科博でも東博でも、楽章がひとつ終わると何人かが「終わったのかと思って」拍手していました。私は、そういう「素朴に音楽を聞く」人たちが、クラシック曲を好きになってくれる、このような気軽に聞ける催し、大切だと思います。毎年毎年音楽学校を卒業した若者の演奏者は増えるけれど、クラシック曲を聞く世代は高齢化いちじるしく、私たち団塊世代がみないなくなったあと、クラシック聴衆はいなくなるんじゃないかと懸念されます。

 私の娘息子もJ-popsを聞くのがメインで、クラシック曲は、フィギュアスケートに使われた曲以外は知りません。たとえば、ショパンのノクターンを聞けば「あ、真央ちゃんのソチの曲」、ヴィヴァルディ「 ヴァイオリン協奏曲四季より冬」を聞くと、「宇野昌磨のショート」という具合。スケーターと結び付けて曲を認識する。

 日ごろクラシック曲を聞くことが少ないお客が「無料」で聞けるならと、会場をはしごしているのですから、なじみの曲でも初めて聞く人もいたに違いない。そういうとき、原語より日本語で聞かせたほうが「オペラの曲っていいな」と思う人が増えたかもしれないのに。

 とまれ、4会場30分ずつで合計2時間弱のコンサート、費用は旧奏楽堂入館料300円だけ。
 無料大好きババによい一日になりました。
 
<つづく>

ぽかぽか春庭「上野散歩ART meets MUSICほか」

$
0
0
201907
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記早春はるのうた(4)上野散歩ART meets MUSIC

 2月28日、上野公園アート散歩。
 仕事の平日は行き帰りの通勤で歩くだけで、たいていは3千歩、多い日でも5千歩なので、美術館を一めぐりすると1万歩になり、これでビール飲んでも大丈夫っていう気になります。大丈夫じゃないんだけれど。

 28日は一日冷たい雨の日でした。歩いたコースは、東京文化会館→国際こども図書館→黒田記念館→上島コーヒー店→東京国立博物館→上野駅構内三代目たいめい軒

 東京文化会館小ホールに着いたときは、すでに長蛇の列。「ART meets MUSIC 時代でつながる絵画と音楽」というイベントに出かけたのは初めてでしたから、こんなに人が集まるものだとは思っていませんでした。
 なぜ初めてかというと。これまで東京都美術館で行われるたいていの展覧会は、第3水曜日高齢者無料の日の観覧でしたから、年齢証明書だけで入場し、チケットを買わなかったのです。チケット半券があると、関連イベントに参加できます。



 「奇想の系譜展」の関連イベントのうち、「東京都美術館×東京文化会館×東京都交響楽団」という東京都歴史文化財団に属する3団体共同企画のミニコンサートと、映画「山中常盤物語」の上映会、ふたつのイベントはどちらもとても魅力的だったので、前売りチケット買ったという次第。

 今回の「ART meets MUSIC・時代でつながる絵画と音楽」は、江戸の奇想画の画家が生きた江戸と同時代の西欧作曲家という、かなりおおざっぱなくくりの「絵画と音楽」です。
 2018年夏の藤田嗣治展の関連「ART meets MUSIC」は、「日本とフランス―重なる旋律」というつながりで、ラベルの弦楽四重奏曲ヘ長調と中山晋平の童謡を並べるという選曲で、日本とフランスを行き来した藤田の生涯にあっていると思います。ムンク展のときはノルエーの音楽ということで、グリーグが出てくるのは当然か。
 が、今回の江戸奇想画と「ハイドン&シューマン」は、江戸時代と同時代に西欧で活躍したという関連のほか、あまり奇想画とは重ならないような、、、、いいんです。無料で音楽を楽しめました。

 東京都交響楽団の主席奏者メンバー中心の弦楽四重奏。 第1ヴァイオリン渡邊ゆづき(司会も担当)第2ヴァイオリン双紙正哉ヴィオラ樋口雅世チェロ古河展生。ピアノ小川典子

 演奏開始前の小ホール


・ハイドン「弦楽四重奏曲・皇帝」
・シューマン「ピアノ五重奏曲変ホ長調」

 どちらもとてもよい演奏でした。
 皇帝はいろんなところでいろいろな四重奏を聞いてきたけれど、今回、皇帝ファンならみな知っているであろうけれど、私は司会のマエセツで初めて知った「小ネタ」をきき、より一層身を入れて、今では第2楽章がドイツ国家となっている「皇帝」を聞きました。

 小ネタ。皇帝第1楽章の始まりのコード「GEFDC」は、Gott erhalte Franz den Kaiser(神よ皇帝フランツを守り給え)の頭文字をとったものだ、ということです。ハイドンさんもなかなかゴマすり上手。

 私は、オーストラリアハプスブルグ帝国のフランツ2世をたたえた「皇帝」が、統一後のドイツ民主共和国の国家となった経緯について、これまで知らないまま、どうしてオーストリア国歌からドイツ国歌に国替えになったのか、知りませんでした。長い歴史のあれこれがあったんですね。このへんのいきさつ、サッカーで歌われる国歌について調べた人は知っていたみたいですが、サッカーを見ない我が家では知識が入ってきていませんでした。

 無料が好きな春庭、第3水曜日に無料で展覧会を見るのもいいですが、関連イベントに気に入ったものがあれば、これからもチケット買おうかと思いました。

 第3木曜日は旧奏楽堂で500円コンサートがあり東京芸大の学生さんが演奏するのではなかったと思って旧奏楽堂へ行ってみたら「今日は第4木曜日です」と言われました。そうでした。残念。昼ご飯を藝大大浦食堂で食べようと思ったら、入試の期間は構内立ち入り禁止。残念。

 国際こども図書館の食堂で「お得弁当」を食べました。550円。豚肉炒め卵焼きミニサラダ。リニューアル以来、この図書館でいちばん多く利用したのは、カレーライス410円という値段のカフェベルかも。

 上野でもたまにしか来ないこども図書館なので、ポスターに出ていた「イランの絵本展」をながめていこうかと思ったのですが、会期は3月から。残念。

 いつもはささっと見る明治の建物をじっくり見ました。これまで気づかなかったドアノブのところに「おす登あく」と書いてある札に気づきました。(変体仮名の変換ができなかったので、もとの漢字登を記載)
止,登,東,度,土などたくさんあった変体仮名の「と」のなかで、条件を示す「と」に「登」が使われたのはなぜか、という疑問が頭に浮かびました。
 中学生のグループがドアのまわりに来たので、「登は、'と'って読むんだよ」と言おうかと思ったら、ガイドツアーの一団で、ちゃんとガイドさんがついて説明していました。

 階段前のドア


 おす登あく


 それにしても、1906(明治39)年竣工のこの旧帝国図書館、私は、樋口一葉が足しげく通った「上野の図書館」だとばかり思っていました。安藤忠雄設計で2002(平成14)年にリニューアルオープンして、建物の説明をいろいろなところで目にするようになると、一葉は明治29年に亡くなっているので、一葉が通ったのは、この建物が竣工するまえの古い建物だということがわかりました。

 雨の中、こども図書館から黒田記念館へ。こちらもなかなかの建物。黒田清輝(1866-1924)が、大正13年に没するさい、財産の一部は美術振興という遺言を残しました。その遺産を使って、1930(昭和5)年に、美術学術的調査研究と研究資料の収集を目的とした美術研究所(現東京文化財研究所)が建てられました。設計は、岡田信一郎。
 現在、こども図書館と黒田記念館の間の建物が東京文化財研究所に宛てられ、元の建物は補修して黒田記念館になりました。

 黒田の作品、美術の教科書にでているような有名どころは特別室にあり、期間限定開室です。「湖畔」や「智・感・情」、「舞妓」などは、特別室で展示。

 通常展示室には黒田作品や関連作品が展示されています。今回の特別展示は黒田がパリで洋画修行しているときに師匠だったコランの作品を見ることができました。

 「梅林」1924 黒田最晩年の絵です。

 3月2日に梅を見に行く予定なので、「梅林」の絵葉書を買って、青い鳥さんに送りました。951枚目

 黒田記念館を出て東京国立博物館へ行こうとしたら、雨が激しくなっていて、これは東博に行くまで、傘さしていても濡れるなあ、と思ったので、黒田記念館内の上島珈琲で一休み。コーヒー400円。2階にはソファ席もあって、ゆったりと雨宿りできました。

 雨が少しは小降りになったので、東博へ。「顔真卿展」を見たとき、関連展示として東洋館の「王羲之書法の残影―唐時代への道程―」があったのですが、時間がなかったので、あとで見ることにしました。展示を見ても、書法の良しあしなどわからないHALですが、見ておけばなんらかの脳の栄養になるかもしれず、というほどの見学です。(ご報告はのちほど)

 5時の閉館時間には博物館を出て、上野駅構内の「三代目たいめい軒」に寄りました。ケータイに入っている歩数を見て、「1万歩超えた、ビールよし」と自分にOKを出して、瓶ビールと蟹クリームコロッケ、ボルシチ(というか、キャベツの薄味トマト煮スープミニカップ)50円を注文。

  おいしくビールを飲み、1万歩歩いて消費したカロリーを30分でもとにもどして帰宅。

<つづく>

ぽかぽか春庭「娘と熱海梅園」

$
0
0

 熱海梅園3月2日

20190309
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記早春はるのうた(4)娘と熱海梅園

 娘といっしょに熱海温泉へ行ってきました。
 娘は学生時代、地理学授業のフィールドワーク地として熱海に来たことがあります。息子は学生時代に友人たちと熱海に泊まりました。
 で、私は、69歳にして初めての熱海温泉。東京の人はだれでも一度くらいは熱海で温泉に入るのに。
 温泉名所の上州生まれだもんで、帰省するたびに温泉に入り、山の温泉はあちこち行きましたが、海を眺めながら温泉に入るということがなかったのです。

 子どものころ、熱海は関東の新婚夫婦がこぞって出かける新婚旅行地として知られていたし、若いころは、会社慰安旅行の定番。熱海と言うと、小説金色夜叉の「貫一お宮の像」をはじめ俗っぽさの代表、みたいに感じていました。温泉に入って、秘宝館の展示物を職場の男どもがウッヒヒと眺めてきて、宴会でがぶ飲み、夜は麻雀大会というイメージの熱海でした。だから熱海に何の魅力も感じなかったのです。温泉に入るなら山の温泉、と思っていました。

 娘が熱海に行ったときは、「昔は繁盛したのに、バブル崩壊後、町全体が地盤沈下、おみやげ店街は、典型的なシャッター街」というさびれ具合の時代でした。
 それが、「団体客にたよらず、熱海自身の魅力を発信していく」という方法でV字回復。今では若者も海外からの観光客も訪れる「日本を代表する温泉地」の地位を取り戻した、というので、まあ、いつかは行ってみようかと思っていたのです。

 下水道マンホールもちょっと小ジャレた熱海温泉


 3月2日夜、息子は友人たちと飲み会があり、友達の家での「徹夜イエ飲み」という予定だというので、娘が「母娘旅」を企画しました。
 娘が旅行店に予約に行って、往復の踊り子号とホテルと全部手配してくれました。
 ホテルは「全館禁煙」「オーシャンビュー」のふたつを条件として、海辺の後楽園ホテルになりました。

 3月2日朝、9時20分発特急踊り子号グリーン車に乗車。日ごろ、グリーン車なんぞ使うことはないのですが、今回は奮発。

 撮り鉄の小学生に交じって踊り子号を撮影。


 私は、娘とのふたり旅というだけでウキウキです。娘の生活時間にしては早起きして、午前中は「ボーっとしてる」はずの娘も、海が見えてきたら「海だ!」と喜び、踊り子号車内販売が今月半ばで終了するというので、せっかくだからと、記念にコーヒーとお茶を買い、ぼうっとしている間もなく熱海駅着。
 車内販売員さんは、あと3回で踊り子号乗車は終了となり、今後は金沢新幹線などで販売するそうです。販売員さんも「お花見の時期まで延長してもよかったと思うんですが、終了してしまうの、残念です」と言っていました。JRもコスパ重視で、人件費の割に売り上げが低い路線は車内販売中止みたいです。

 販売員さんにOKをもらって、最後から4番目の乗車を記念撮影させてもらいました。美人販売員さんにコーヒー淹れてもらうのも最初で最後。



 駅前バスターミナルから、元箱根行きのバスにのりました。初日のメインイベントは熱海梅園の梅見ですが、梅見の前に来宮(きのみや)神社へ。

 息子が熱海で来宮神社にお参りしたとき「ご神木大楠の周囲、一回めぐるとに1年寿命が延びる」という伝説があった」というのを聞いて、「こりゃ30周くらいしてこなきゃ」という気になったのです。

 まずは、参道大鳥居前の鳥居前で記念撮影。


 参道右側の第二大楠のまわりを一周。
 樹齢1300年。300年前の落雷で幹が割れたけれど生き延びた、霊験あらたかな巨樹です。


 本殿参拝のあと、樹齢2000年超という大楠のまわりを回りましたが、娘は一周で「疲れた、1年寿命が延びたから、まずはこれでいいか」と休憩入り。


 私は「1周で10年寿命が延びるという宇宙幸福原っぱ教のワタクシルールを作り、もう一周する」ことに。20年伸びました。
 「2周すれば20年伸びるから」とワタクシルールを教えると、日ごろ歩いていない娘ですが、がんばってもう一周しました。第2大楠のまわり1周とあわせれば、30年は寿命伸びた、、、はず。信ずるものも信じない者も、大楠さまの霊験あらたか。
 1300年の大楠も2000年の大楠も、木霊が住んでいそうな巨樹でした。

 参道入り口の鳥居前の神社直営お休み所で「軽いランチ」として金目鯛茶漬けを食べて、タクシーで梅園へ。どうしてランチを「軽く」したかというと、晩御飯はホテルバイキングだから、満腹にしちゃダメなんです。

 

 娘の計画では3月2日土曜日がMOA美術館で3日日曜日が梅園だったのですが、日曜日雨の予報でコースが逆になりました。
 梅園は、3月3日が「梅まつり最終日」です。園内の梅はもう盛りをすぎて「名残のひと咲き」という雰囲気でした。ホテル宿泊予約表を見せて入園料ひとり100円。

 息子が熱海梅園に来たときは雪の次の日だったのだとか。「雪と満開の梅」の写真をケータイの画像フォルダで見せてもらってきた娘は「う~ん、オト―ト君の梅満開写真から見ると、だいぶ、たそがれているなあ。園内いっぱいに広がる梅の花を期待していたのに」と言っていましたが、梅まつり最後の日、ということは、もう梅も終わりということなので、仕方なし。梅の花以外の見どころもたくさんあったし、広い園内くまなく散歩しました。

 

 見どころその1 梅見の滝。「オトート君が滝の裏側に回れる、と言っていた」と、先達の観光案内どおりに裏側から滝を覗くことに。美術館の脇の太いパイプで水をくみ上げている人工滝だと思いますが、流れ落ちる水を裏から見る遊び心、楽しかったです。

  

 見どころその2 澤田政廣記念美術館。
 文化勲章受章者で熱海市名誉市民という澤田政廣(1894-1988)、私は全く知らない彫刻家でしたが、作品を見ることができました。
 娘は建物の天井ステンドグラスが気に入り、ステンドグラスのクリアファイルを買いました。私も絵葉書セットを買い、青い鳥さんへの「I'm aliveシリーズ」に使います。今月で960枚になります。

 園内撮影禁止なのでステンドグラスの画像借り物


 外の彫刻は撮影できます。「蒼穹」1960


 見どころその3 中山晋平記念館。


 作曲家中山晋平(1887-1952は、私も知っていました。2階のビデオから流れるカチューシャの唄もゴンドラの唄の♪命短し恋せよ乙女も、波浮の港も東京行進曲も、みんな歌える。私が子供のころの「なつかしのメロディ」でした。娘は「母、全部歌えるんだね」と言う。娘もいくつかの童謡は知っていました。

 見どころその3 金大中と森喜朗が熱海梅園で歓談したことを記念して作られた韓国庭園などもまわり、庭園の近くで梅まつりイベントのひとつ「猿回し」を見物しました。見に行ったときにはほとんどの芸は終わっていて「最後にいちばん高い棒を飛び越えます」という大技棒高跳びを見ました。ちょっと怖がって見せたり、なかなか芸がこまかい。

 私のポリシー「大道芸は15分見物100円30分200円感激したら500円」なのですが、娘は「お猿さん、かわいいから500円あげる」と奮発。記念のケータイストラップをもらい、さらにおさるさんとツーショットの写真も撮らせてもらいました。

 戦豆社中のゆずさんと2歳のぽんずちゃん。コンビを組んで2年。修業後、デビューして1年目のフレッシュコンビです。


 熱海梅園の梅まつり、満喫してホテルへ。次回、チェックインのあとホテルの部屋で。

 きょうのわたし。
 盛りをすぎた枝垂れ梅と、大幅に盛りをすぎた姥桜、、、、、(心の中は満開69歳。気は心)



<つづく>

ぽかぽか春庭「娘と熱海温泉」

$
0
0
20190310
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記春(2)娘と熱海温泉

 熱海梅園からは、宿泊するホテルの送迎バスに乗りました。
 「オーシャンビューと全館禁煙というのも条件だったけれど、梅園とホテルの間に送迎バスがあるっていうのも決め手のひとつ」というのが、数ある熱海温泉の宿のなか、なぜ「後楽園ホテル」にしたか、という娘の理由です。

 ロープウエイ入り口側から見た後楽園ホテル

 ホテルにチェックイン。5つ星ホテルです。
 娘は「それほど5つ星という雰囲気ではないけど」と言うのですが、私は、国内では5つ星ホテルはロビー利用するだけで、宿泊したことなんかなかったので、5つ星と3つ星がどれほど違うのかもわからない。

 2階のロビー


 お部屋は、ふたりで泊まるには広すぎると感じる部屋(6人用の部屋なので、浴衣なども6枚用意されていました)

 眺めはばつぐんです。


 部屋に荷物を置くと「明日は雨の予報だから、ロープウェイに乗ろう」と、ホテルの裏手にあるロープウェイへ。

 乗車時間3分間、日本一短いロープウエイですと。


 ロープウェイの上には、熱海城と秘宝館があります。秘宝館を見るつもりはなかったけれど、熱海城から眺める熱海の街並みと海は、熱海を代表する景観と言うので登ってきたのです。5分ほど坂道を歩いて熱海城到着。


 熱海城。観光用新出来の城ですから、中に入りはしませんでしたが、熱海城前から山の下を眺める夕暮れの風景、「海と温泉街」の眺めを、娘としばらく見ていました。
 熱海城前からの眺め


 娘は私の「無料好き」「食べ放題好き」を知っているので、ホテルの夕食は「懐石料理」と「バイキング」の両方があったなか、バイキングのほうを選択。
 バイキングですから、ビーフステーキの肉質やら料理のグレードはそこそこで、特にこれが目玉、という料理もなかったのですが、娘は「あげたてのテンプラがおいしい。このごろうちは自分で揚げないで、スーパーのお惣菜てんぷらばっかりだったから」と。


 料理のグレードはともあれ、ふたりともおなかがはちきれるまで食べてしまうのは、いつものバイキングと同じ。とりあえず少量時代ですがのずつ出ている料理を皿にのせて、味見。あとは好きなものを好きなだけ食べる。
 娘は「もうおなかパンパン」と言いながらも、チョコレートファウンテンにマシュマロつけるのが「楽しいから」と大好きで、デザートを食べたあともやっていました。デザートは「焼きたてアップルパイ」を食べました。

 パンパンのおなかをさすりながら食休みして、温泉へ。海が見える温泉。町の夜景もきれいに見えて気持ちのいいお風呂です。

 だれもいないからいいと思って一枚写しましたが、娘が「入浴に使わないものを浴室に持ち込んではいけません」という注意書きを発見。しまった、カメラを持ち込むのは禁止でした。もう撮っちゃった。

 お風呂から部屋に帰って、テレビをかけたのですが、「母はテレビつけっぱなしでソッコウ寝落ち」という、いつもの早寝つき。

 5時から朝風呂が始まるというので、5時半からひとっ風呂浴びました。
 朝ごはんもバイキング。娘は朝ごはんのラインナップのほうが好きなおかずが多かった、と言っていました。ホテルの朝ごはんというと、ラインナップに日本そばが出ることが多いですが、ラーメンが出て、あごだしのスープがとてもいいお味でした。娘はミニラーメンが気に入りおかわり。私はラーメンのあと、シリアルにヨーグルトと牛乳をかけたものとフルーツ。
 またしてもおなかパンパンで、私はチェックアウトまでもうひと眠り。娘はもう一風呂。

 きょうの私。ロープウエイ展望台にあった、恋人たちの祈願絵馬の前、「結びのリング」の中から顔を出して。


次回MOA美術館

<つづく> 

ぽかぽか春庭「娘と美術館 in Moa美術館・熱海」

$
0
0

 尾形光琳「紅白梅図屏風」

20190312
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記早春はるのうた(7)娘と美術館 in Moa美術館

 熱海へ遊びに来た目的のひとつは、梅林の梅見、もうひとつは尾形光琳の紅白梅図屏風を見ること。
 ホテルチェックアウトして熱海駅へ。あいにくの雨ですが、駅からバス乗り場まで屋根があったので、ぬれずに8番乗り場へ。
 熱海駅からMOA美術館行のバスに乗車、7分ほどで到着。

 MOA美術館は、世界救世教が聖地とする熱海瑞雲郷に立つ美術館です。
 教主岡田茂吉が収集した美術品などをもとに1982年開館。国宝3点のほか、重要文化財や秀吉の黄金茶室復元も公開しています。

 バスを降りて、入り口でチケットを買う。熱海梅園の入園券提示割引100円で1300円。


 富士美術館でも同じこと思ったんだけど、宗教法人は税金かからないんですから、入館料無料にしてほしい。せめて70歳以上タダに。世のため人のために役立つってことで無税なんでしょうに。

 入り口から展示室へ行くまでがすごい。山の斜面をエスカレーターで登っていく。たぶん、ビルの6階分くらい上がった勘定。エスカレーターに飽きないように、途中の踊り場には天井いっぱいに「万華鏡」という映像作品が投影されていて、これをじっと眺めている人もいました。

 エレベータ延々続き、5回くらい乗り換えました。

 天井一面の万華鏡。映像の色がつぎつぎに変わっていきます


 展示第一室は、黄金茶室復元の部屋
 純金の茶道具


 秀吉らしい成金趣味のきんぴかりん。組み立て式の茶室を御所にも運んで、かしこきあたりにお茶をたてたそうですが、飲まされるほうの気分はどんなものだったのでしょう。
 私はどっちか選べと言われたら、やっぱり待庵の2畳のほうがすんなりお茶飲める気がします。待庵に招待されることは一生ないでしょうが。

 岡田茂吉は、元は大本教の信者で、独自の宗教観により独立しました。
 この宗派でよく知られているのは、手を人にかざして、「これで病気がよくなります」という活動。今も、駅前でやっていたりするのを見かけます。手から光だったか磁力波だか出てくるんだそうです。岡田茂吉の死後、宗派の間で主導権争いがあり、分派がいろいろ出たので、どこが駅前でやっているのかはわかりませんが。

 昔、母の早世のあと、わんさかやってきた新宗教勧誘者のうち、この手かざしの人たちに対し私の父は「あんたに手をかざしてもらうと、ほんとうに病気が治るんだな」「本当です」「じゃ、やってくれ。俺は今病気もちで医者にかかっているけれど、あんたが手をかざしたあと、病院へ行って治っていなかったら、詐欺で訴えるぞ。それを承知なら、さあやってくれ」と言いました。

 病気のうち、心理的なものも多いので、治ると信じて手をかざしてもらえば、本当に治る人もいるのだとは思うのですが。駅前で他人のためにいっしょうけんめい手を当てている人たちを見ると、自らが信じるもののために、熱心に活動することがその人の生きがいになっているのだから、いいんじゃないかと思っています。

 創価学会の信者は800万世帯2千万人いるとされているのに比べると、世界救世教の信者数80万人前後で、桁が違いますが、それでも80万人がひとり千円のお布施を上納したとしても、たちまち8億円が集まり、オークションでけっこうな値段の絵を買い放題。(ちなみに新宗教の公称信者数を全部足すと、日本の人口の2倍だか3倍くらいになるそうですが)

 国宝の第1は光琳の「紅白梅図屏風」ですが、第2は「色絵藤花文茶壺」
 野々村仁清(生没年不詳)は、丹波国桑田郡野々村(現、京都府北桑田郡美山町)の出身。本名清右衛門の清と、仁和寺門前に窯をたてた縁で「仁清」という号をつけました。

 私の世代の者、あるいはもう少し年上の世代には、「仁清」と言えばすぐに頭にのぼるのは、1959年に世を賑わせた「偽永仁の壺」事件。「永仁二年」と書かれている壺が発見され、加藤唐九郎が解説を書き、文部省のお役人が重要文化財の指定を出しました。しかし、贋作の疑いによって再調査をする中、加藤唐九郎またはその息子の作品であったことが判明した、という事件です。私が10歳のころの出来事。贋作ということばを覚えた事件、美術とは何か、本物とは何か、ということを強烈に印象づけられた出来事でした。鑑定者が本物と言えば、偽物も本物として通用するなら、本物と偽物の差はなんだろうと、子ども心に思いました。

 こちらの仁清「色絵藤花文茶壺」は丸亀藩京極家に伝来したもの。
 藤の花があでやかな壺。きれいです。ただし、私はコピーの贋作を並べていても区別はつかぬ。


 娘が一番興味を持った作品は。
 「洋人奏楽図屏風」16世紀桃山時代 重要文化財
 左隻

 右隻(画像借り物)


 日本画の顔料を胡桃油または荏油(じんゆ・エゴマあぶら)で溶き、油絵のように仕上げています。画家の名前は残されていませんが、日本人が洋画のように描いた、ということは分かっているみたい。
 
教師たちに伴われてきた画家が日本人に画法を教えたのか、絵の心得のある宣教師がいたのか。セミナリオやコレジオで洋画の技法をならった信徒が、布教のための絵を書いた、そのうちのひとつ。
宣教師が元になる絵を見せたのかもしれませんが、見たこともない西洋の洋人たちの奏楽や読書の光景を描いているとき、画家見習いの少年は、どのようにまだ見ぬ世界を感じていたでしょうか。(セミナリオで絵を習っていたのは、少年使節のイメージがあるので、少年画家以外想像できないけれど、信徒のおっさんだったかもしれません。どうせ想像だから、美少年ということにしておきたい)

 この布教用に描かれた油絵様の絵の技法は、キリシタン禁止のあと、直接は伝わらなかったみたいです。やがて平賀源内、秋田蘭画などが洋画の技法を学び、江戸蘭画が描かれるようになりますが。
 洋人奏楽図は、同じ構図の絵が永青文庫にも伝わっているということなので、こちらも見てみたいです。MOA美術館の「洋人奏楽図」は、旧明石藩に伝来したもの。

 MOA美術館の展示、最後の部屋は写真家現代美術家杉本博司が熱海の海を写した写真の数点「海景ATAMI」でした。
 私は2016年東京都写真美術館のリニューアルオープン記念の杉本の写真などの展示「ロストヒューマン展」を見ました。9月に見て、もう一度10月に観覧。MOA美術館とどういうつながりがあるのか知らずにいたので、国宝や重文の展示の最後にいきなり杉本博司だったので、どうしてこの人の写真がここに、と思ったのですが、どうやらMOA美術館のリニューアルに関して、杉本が一枚かんでいたらしい。
 「展示スペースの設計は、世界的に活躍する現代美術作家・杉本博司氏と建築家・榊田倫之氏によって主宰される「新素材研究所」が手がけました」とのこと。
リニューアルオープン記念の展示が杉本博司でした。それで、最後の部屋は杉本の展示室に。常設展示なのかどうか、わかりません。

 昨年私が三十三間堂の千体仏を見たかったのも、杉本が千体仏を撮影した「加速する仏像」を写真美術館で見たからでした。
 https://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/0811d3e88f197805b112408c1cf9ac8c

 娘は、紅白梅図屏風を庭に仕立てた、という庭園を見たかったし、私は尾形光琳の屋敷図面から復元建設された「光琳屋敷」でお茶に和菓子でもいただきたかったところでしたが、雨が強くなってきていて、傘さして少し離れた場所まで行く元気がふたりともなかったので、今回はパス、ということに。

 バスで熱海駅に戻って、駅ビルのなかで私は金目鯛煮つけ定食、娘は船盛り刺身定食を食べて、息子に駅弁鯛めしを買って帰りました。
 帰りの踊り子号は、終点になるまでふたりともよく寝ました。けっこう盛りだくさんな熱海温泉一泊、疲れたけれど、娘も「満喫した」という旅になって、おいしいものもいっぱい食べて、よかったよかった。

 次回、「紅白梅図屏風」

<つづく>

ぽかぽか春庭「紅白梅図屏風 in MOA美術館」

$
0
0

 尾形光琳「紅白梅図屏風」

20190312
ぽかぽか春庭アート散歩>春咲アート散歩2019(1)紅白梅図屏風 in Moa美術館

 MOA美術館の国宝3点のうちのNo.1は、尾形光琳の「紅白梅図屏風」です。梅が咲く時期にだけ公開するというので、今回はちょうどよかった。

 紅白梅図屏風は弘前藩津軽家に伝来したものです。醍醐冬基娘の綱姫が近衛家煕の養女となって第5代藩主嫡男津軽信興(1695-1731)との縁組に際して婚礼祝い品として描かれたのではないか、という説が有力らしい。家煕と尾形光琳は知り合いだったので、注文があったのだろうと。

 信興は36歳のときハシカで死去。第5藩主津軽信寿(1669-1746)の跡を継いだのは、信興の長男信著。第6代藩主に。
 子どものころハシカにかかっておけば軽く済むけれど、大人になってからかかると命取り、というのを実践した信興。子どもは無菌で育てちゃダメよね。雑菌にまみれることも、子供を強く育てる。閑話休題。

 津軽家からの売り立ては、華族制度廃止にともなって財産維持できなくなった華族所蔵の美術品がどっと売られた時期かと思ったのですが、大正年代終わりごろの売り立てなのだとか。
 岡田茂吉が直接買い付けたのか、間に所有者がはさまったのか、わかりません。

 尾形光琳(1658-1716)は、江戸中期、8代吉宗のころの画家・工芸家。若いころは裕福な実家の気楽な次男坊として遊楽三昧でしたが、父の死後、稼業の呉服雁金屋の商売が傾き、絵で世に立ったのは40代から。59歳で亡くなるまで、現在では国宝、重要美術品となっている作品を残しています。俵屋宗達に私淑し、本阿弥光悦と俵屋宗達が創始した琳派の作風に、呉服デザインを取り入れたすぐれた作品を生み出しました。

 「紅白梅図屏風」も、梅の木の、白い花を見せている老木、若い紅梅、そして真ん中を流れる抽象画のようなデザインの川の流れ。



 ガイド音声を借りて聞いて絵や書を見て回り、紅白梅図屏風の絵具の化学組成分析についての解説があり興味深く聞きました。東大の分析では紅白梅図屏風の背景の金色は金泥絵具で金箔を貼ったように描いたもの、という分析結果が出たあと、MOA美術館の再分析ではやはり金箔を貼りつけたもの、という結果が出たとのことでした。

 見た目にはどちらの分析が正しいのかわからないですが、どうせのことなら金箔のほうがありがたそうな。
 津軽家婚礼調度品として制作されたなら、金箔代金惜しまなかったろうと思うのですが、どうでしょう。

 図象の解釈にはさまざまな論がでており、諸説百花繚乱それぞれに面白いですが、自分の見方で楽しめばよろし。
 私の楽しみ方?岡田茂吉はいくらで買ったのかしら、、、って、そればっかり。

 そのほか、お宝ずらりでした。

 長谷川等伯「故事人物図屏風」中国の有名な聖人の姿を描いています。名利を追わず、真実の諫言ができた人物たち。

右隻:伯夷と叔斉

左隻:屈原


 諫言もできず、おもねることしかしないどこかの国の政治家には、伯夷と叔斉、屈原らの故事をしっかり学んでほしいですが。

 「樹下美人図」
1914(大正3)年に、西本願寺門主大谷光瑞派遣の中央アジア探検隊によって請来。東トルキスタン、現在の新疆 (しんきょう)ウイグル自治区トゥルファンの喀喇和綽(カラホージヨ)古墳から出土しました。紙を貼り合わせたパネルに描かれています。紙の作品がこのようにしっかりした形で残っているのはたいへん貴重です。墓からは、ミイラ化した被葬者も発掘されました。元は、戸籍記録の紙。戸籍の記録保存期間終了後に再利用しています。
 現在、東京国立博物館に所蔵されている樹下男子図と対をなすと伝えられています。樹下男子図は、MOA美術館の樹下美人図と同じ墳墓から出土(東博の表記ではアスターナ墳墓出土)し、新疆省布政使・王方伯が自分のものとしましたが、いろいろな経緯ののち、現在は東博が所蔵。

 「樹下美人図」中国唐時代8世紀


 発掘された国の宝を地方の役人が私物化するというのも、すんごいことですが、なんだかんだで、日本が買い付けた、というのも時代ですね。1912年に清朝滅亡しています。1914年は孫文中華民国樹立して2年。まだ地方行政は整っていない頃ですから、私の想像では、大谷探検隊は、お宝ごっそり持ち帰る条件として、地方の長官にお宝の一部をわいろとして渡していたんじゃないかしら。勝手な想像です。

 似た図柄の正倉院の鳥毛立女屏風はだいぶ劣化していますが、樹下美人図は墓の中に封印され、1200年のあいだ美人のまま眠っていました。

 参考までに。樹下男子図


 次回、MOA美術館の国宝3点目。

 <つづく>

ぽかぽか春庭「書の美ー手鏡と王義之」

$
0
0
20190316
ぽかぽか春庭アート散歩>春咲アート散歩2019(2)書の美ー手鏡と王義之

 熱海のMOA美術館。書の名品が並んでいました。国宝3点目。「手鏡 翰墨城」
 古来の名筆を集めたものが手鏡。翰(筆)と墨によって築かれた城という名がついています。
 戦功なった武将が、一国一城を与えられた時、「名物の茶碗が欲しかったのに、国を与えられて残念」と言ったように、城や国ひとつよりもこの「翰墨城」のほうがほしい、という価値観を持った人もいたにちがいない。 

 古筆の名品は、一幅の掛け軸だけでも貴重ですが、それが、何枚もの色紙が重なって、奈良時代から南北朝・室町時代の各時代にわたる古筆が、表側154葉、裏側157葉の合計311葉収められているのです。
 江戸時代の古筆家別家の古筆了仲(りょうちゅう1655~1736)が所蔵し、茶人として名高い益田鈍翁(1847-1938)に伝わりました。
 
 白氏文集切 伝菅原道真 平安時代
 

 高野切「古今和歌集巻九」伝紀貫之 平安時代 


 詞書切「和漢朗詠集」伝小野道風 平安時代

 
 美しい文字だなあと感嘆しつつ眺めましたが、白氏文集も古今和歌集も、ちゃんと読めたならもっとこの美を味わうことができるのだろうと、名筆を見るたびに思うのですが、、、、。

 「帰雲」無準師範墨跡 


 この二文字はちゃんと読めました。
 無準師範(仏鑑禅師1178~1249)は、中国南宋時代の禅僧。
 東福寺の円爾へ無準の書が多く贈られ、伝来しました。この「帰雲」は、徳川家の「柳営御物りゅうえいごもつ」として所蔵されたのちに、MOA美術館へ。

 ほかに何点も名物切が展示されていました。書の研究者なら食い入るようにして一日中眺めていたいでしょうが、書の美にうといHALは、「読めないし、、、」と言いながらささっと見て歩く。

 2月28日、東京国立博物館東洋館の「王義之書法の残影」展。常設展示のなかの企画として見ることができました。南北朝時代と隋時代の書を中心に、中国の名筆の拓本が展示されていました。

 5階の特集「王義之書法の残影」


 王義之「定武蘭亭序」
 王義之を深く敬った唐の第三代太宗は、蘭亭序とともに葬るよう遺言。蘭亭序の本物は、太宗とともに墓の中で朽ち果てました。まったく、なんてわがままな。
 しかし、太宗が命じて臨書が行われ、それを石や木版に刻んだ書の拓本は、何種類か残されました。「定武本」は、五代から北宋時代初期に碑石が発見された定武郡の名がついています。さまざまな版の覆刻があり、東京国立博物館が所蔵する蘭亭序もそのひとつ。

定武蘭亭序(呉炳本) 王羲之筆 中国 東晋時代・永和9年(353)



 書道を志す人たちが、垂涎の思いでみるであろう古筆の数々、仕事リタイアしたらお習字したいなあと、いつになるやら知れぬ夢を見つつ、美しい文字をながめました。

<つづく> 

ぽかぽか春庭「顔真卿展」

$
0
0
20190317
ぽかぽか春庭アート散歩>春咲アート散歩2019(3)顔真卿展 in 東京国立博物館

 2月9日夕方から夜まで、東京国立博物館平成館で顔真卿展を見ました。書道史にうとい私、中国の歴史的な書家の名は王義之を知るだけで、顔真卿という名、今回の展覧会まで知りませんでした。
 地下鉄のホームに顔真卿展の大きなポスターが貼られていても、「どうせ字を見ても読めないし」と、あまり行く気分ではなかったのです。招待券も手に入らないし。

 今年の春節旅行ブームのあり様、「爆買い」から少々変化した、というニュースの中、中国人観光客のインタビューが出ていました。行き先は第一に上野の東京国立博物館、なんだそうです。「中国人が顔真卿を見る機会は今をおいてない。台北故宮にに旅行しても、顔真卿をいつも展示されているとは限らないので、日本で見ておくしかない」

 あらま、爆買いより先に見ておきたい顔真卿とはなんぞや。私の美術情報源「日曜美術館」で特集していました。

 顔真卿(がん しんけい709-785)は、唐代の政治家・書家・学者。孔子の弟子顔回の末裔にして著名な学者一族の出身。唐の玄宗楊貴妃の時代の人です。楊貴妃の親族、楊国忠が絶大な権力をふるっている時代で、玄宗は楊貴妃に溺れて政治を放り出し、やりたい放題の楊国忠は、実直な顔真卿をうとんじて左遷します。
 
 756年、安禄山の反乱が起こると、左遷されている身ながら、顔真卿は唐朝のために兵をあげ、軍功なって反乱をおさえることができました。しかし、ともに戦った一族の犠牲は大きく、顔真卿の一族顔杲卿とその息子顔季明は、戦いのさなか殺されてしまいました。

 この親子の死を悲しみ、顔真卿が書いたのが「祭姪文稿(さいてつぶんこう)」です。「姪」とは、日本語では兄弟姉妹の娘をさしますが、ここでは顔真卿の甥をさしています。

 顔真卿は、こののちも不遇がつづき、反乱軍説得の任をにつきます。反乱軍につかまって、唐を裏切り、反乱軍に加わるように言われても唐朝への忠義を貫き殺されてしまいました。以後、歴史上「忠臣の代表」として歴代皇帝からも篤く敬われてきました。

 王朝が変わると、散逸してしまうこともあったさまざまな皇室の宝物のなかでも、「祭姪文稿」は特に大切に受け継がれて、清朝の故宮にまで伝わりました。
 中国で共産党毛沢東と国民党蒋介石の内戦が起きたとき、蒋介石は故宮の宝物を何隻もの船に乗せて台湾に運びました。

 顔真卿の「祭姪文稿」も現在は台北の故宮博物館が所蔵していますから、大陸の顔真卿ファンがどれほど焦がれても、おいそれと見ることはかないません。台湾政府が中国にお宝を貸し出すことは、まずないでしょうから。
 それが、上野で見られる、と、解説されて、ようやく「これは見ておかなくちゃ」と、チケット買って見にいきました。一般券1600円。会期:2019年1月16日(水)―2月24日(日)

 中国と日本の書道史の流れがよくわかるような展示で、いろいろな書体の違いなども解説を読みながら、進んでいきます。古来の名筆が並んでいるのですが、むろん私には猫に小判。どれも美しい書体だなあと思うのみで、一目見てこれは王義之、これは空海などとわかりはしません。でも、美しい字に触れて、いつかそのうち書道をやってみたら、きっと今日見た字が絵心の栄養になっているに違いないと思ってみました。

 会場内でこれだけは撮影OKだった大きな拓本。唐玄宗筆《紀泰山銘》唐時代・開元14年(726)東京国立博物館蔵


 李家の四宝など、貴重な拓本もたくさん出ていました。長い中国の歴史のなか、王朝もかわると前代の貴重な品がなくなることも多く、元の石碑が失われてしまい、「拓本だけが残された」という名筆も少なくありません。紙ではのこらないけれど、石なら永遠に残る、と思っていたけれど、石も残らないなら、拓本もまた必需品。
 
 目玉の「祭姪文稿」。混むことは予想されていたので、2月9日土曜日の夜間開館にねらいを絞りましたが、夜になってもやっぱり混んでいました。閉館30分前に入場締め切りの時間がねらい目です。
 夜8:30-9:00に、ようやく落ち着いてみる時間がありました。

 顔真卿「祭姪文稿」安史の乱で殺された甥とその父を痛む文章の草稿です。筆が乱れたり書き直したりの跡が、いっそう顔真卿の悲しみの極みの心をよくあらわしている、として、中国の名筆の中でも第一級の名品とされています。ガラス越しですが、生で見ることができてよかった。日本語訳は、会場にも出ていましたし、ネットにもいろいろありますから省略。
 

 中国台湾両国にとって大切な宝ですから、相互に見ることができるような交流が成立するといいのですが、今のところそうもいかないらしく、日本で見ることができた私はらっき~。

 平成館ロビーの顔出しパネル。顔出したかったけれど、今回は撮影できず。


<つづく>
Viewing all 2690 articles
Browse latest View live